第1話「黒い来訪者・1」
バネッサは、採取師を「半分」引退している。
ギル(三代目)が引退する際、バネッサもまた引退を表明した。
採取師とは、この世界に転生してきた者たちが選ぶ職能の一つだ。
山に入り、魔法鉱石を掘り出し、商人へ卸す。
現代社会に馴染めない不器用者の行き着く先――そんな悪いイメージもある職業だが、バネッサはそうは思わない。
採取師とは、山のプロフェッショナルだ。
それは、バネッサにとって誇りでもあった。
山との相性が良かった彼女は、何十年もの間、採取師として生きてきた。
しかし、久遠――不老である彼女は、いつしかベテランを通り越し、「伝説」と呼ばれる存在になりつつあった。
周囲の評価は年々高まっていく。
その一方で、居心地は悪くなるばかりだった。
最初に拾ってくれた初代ギルが亡くなった後も、彼の立ち上げた商会に長く残り続けた。
だが、今度は四代目への代替わりである。
義理は十分に返した、と思う。
これからは、自分の人生を歩いてみたい。
五十年以上のキャリアを持ちながら、成績はいまだトップクラス。
若々しい外見も相まって、商人ギルドや採取師界隈では、『腹ペコ猫』の愛称で親しまれていた。
本人は、その呼び名をあまり好んでいなかったが。
所属商会はもちろん、知人の商人や採取師仲間たちにも引き留められたが、バネッサの意思は変わらなかった。
――そして、念願だった喫茶店を開いた。
しかし、経営はうまくいかなかった。
コーヒーも紅茶も嫌いではない。
焼き菓子を作るのも、楽しくはあった。
だが、どうにも自分の店という感じがしない。
試行錯誤の末、喫茶店をうどん屋に改装した。
これが、意外とうまくいった。
金髪の女亭主が営む小さなうどん屋。
立地の割に繁盛し、固定客も増え、昼時にはそれなりに席が埋まる。
とはいえ、利益は微妙だ。
価格設定は安め。
さらにアルバイト代もある。
趣味と実益を両立した結果、財布の中身はいつも寂しかった。
このため、時々内緒で採取師の仕事をして店の赤字を埋めている。
もちろん金の問題もあった。
だが、それ以上に――やはり山が好きなのだ。
店の奥には、古い採取道具の箱が置いてある。
手入れの済んだ手袋。
小型のセンサー。
山歩き用の古い靴。
どれも、今すぐ使える状態だった。
半分引退。
そう言いながら、全部しまい込むことだけは、どうしてもできなかった。
店には定休日を設けている。
だが、採取師の仕事で山へ入る時は、アルバイトへ店を任せることも多い。
高校生の頃からの常連であるミサトは、今ではバイトリーダーとしてバネッサを支えてくれていた。
愛嬌のある働き者で、客からの評判も良い。
常連たちからは、バネッサと合わせて『もう一人の金髪ちゃん』などと呼ばれていた。
昼時を過ぎ、客足が途絶えた午後。
バネッサは店に飾られた大きな風景画をぼんやり眺めていた。
美也子先生がくれた山の絵だ。
眺めていると、少しだけ落ち着く。
──本格的に暑くなる前に、山へ行きたいな。
カランコロン。
扉が開く。
入ってきたのは、一人の男だった。
長めの銀髪。
上質な黒いスーツ。
黒革の手袋に、磨き上げられた黒い革靴。
全身黒づくめ。
年齢は壮年ほどだろうか。
格闘技の心得があるかは分からない。
だが、無駄な肉のない立ち姿には、妙な威圧感があった。
──どこかで見たような。
そんな気もしたが、思い出せない。
「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」
男は静かに会釈する。
店内をゆっくり見渡した後、カウンター席へ腰を下ろした。
そして、バネッサお手製の手書きメニューを手に取る。
「天ぷらうどんを一つ、お願いします」
「天ぷらを揚げますので、少しお時間いただきますけど、大丈夫ですか?」
「ええ、構いません」
落ち着いたバリトンの声だった。
バネッサはいつものように天ぷらを揚げ始める。
──視線を感じる。
男が、こちらを観察していた。
じろじろ見ているわけではない。
失礼な態度でもない。
けれど、見られている。
雰囲気で分かる。
この男は転生者だ。
だが、何者なのかまでは読めない。
「お待たせしました」
天ぷらうどんを差し出す。
時計を見ると、十五時を少し回っていた。
バネッサはカウンターから出ると、店の入口に『支度中』の札を掛ける。
十五時から十七時までは休憩時間。
いつものことだ。
──この時間を狙って来た?
そんな考えが頭をよぎる。
男は上品な所作でうどんをすすった。
そして、わずかに目を見開く。
「これは……美味しいですね」
「ありがとうございます。自慢の出汁なんです」
「驚きました。想像以上です」
「えへへ」
男はうどんを綺麗に食べ切ると、水を一口飲んだ。
その仕草すら妙に洗練されている。
「で、ご用件はなんでしょう?」
バネッサは笑顔のまま尋ねた。
男はわずかに口角を上げる。
「高名なバネッサさんのおうどん屋。お噂はかねがね伺っていましたので、まずは一杯いただきました」
「おそまつさまです」
「いえ、本当に素晴らしかった」
「……ありがとうございます」
「そんなに警戒しないでください」
「警戒なんてしてませんよ」
バネッサは笑顔のまま答える。
「ただ、休憩時間を狙って来た黒づくめのお客さんが、私の名前を知っていて、しかも普通のお客さんではなさそうなので、少しだけ気にしているだけです」
「それを警戒と言うのでは?」
「確認です」
男は小さく笑った。
黒革のカードケースから名刺を取り出し、バネッサへ差し出す。
「クロエと申します。ご推察の通り、《《あちらから来た者》》です」
あちらから来た。
それは転生者たちの隠語だった。
つまりクロエもまた、バネッサと同じ転生者。
異なる世界から、この日本へ流れ着いた異邦人である。
名刺には『東北商人グループ』と書かれていた。
商人ギルド傘下の大型商業ネットワーク。
東北地方最大規模とも言われ、資源、人材、情報をグループ内で融通し合う強力な組織だ。
「本日は、バネッサさんにお仕事の依頼へ参りました」
「私、もう引退してるんですけど」
「時々、お仕事で山に入っていると聞いていますよ」
「……まあ、そうなんですけど」
「お話だけでも聞いていただけませんか。今回、あなたしか頼れないのです」
ひとまずテーブル席へ移動してもらう。
向かいに腰を下ろすと、クロエは柔らかい笑みを浮かべた。
そして。
「高校生に変装して、学校へ潜入調査していただきたいのです」
バネッサは数秒、沈黙した。
高校生。
学校。
潜入調査。
どの単語も、自分の人生から遠すぎる。
「……はい?」




