第26話:迫りくる猛威
分厚い断熱材と何重にも目張りされた窓の向こうで猛烈な吹雪が白く渦を巻いている。
外気温はマイナス四十度。
どんな生命も数十分と持たずに凍りつく完全なる死の世界だ。
しかし砦の二階にある見張り部屋の空気は少し汗ばむほどに暖かかった。
「平和だな」
窓際のパイプ椅子に深く腰掛けた蓮が手元の双眼鏡を下ろしてぽつりとこぼす。
相棒として見張りに立っていた駿も短く同意した。
「ああ。略奪者どころか獣の一匹も通りやしない」
砦は今や完璧な箱庭だった。
床下を循環する熱水が家全体を温め各人のプライバシーを守る個室すらある。
NICという強力な取引先を得たことで軍用のレーションや清潔な水そして温かいシャワーも確保されている。
飢えも寒さも略奪の恐怖もここにはない。
だが肉体的な生存の危機が去ったことで閉鎖空間特有の別の熱が若者たちを蝕み始めていた。
「なあ駿。この世界、若い女が少なすぎると思わないか?」
蓮の重苦しい声に駿は答えられず視線を泳がせた。
誰もが薄々気づいていながら口に出さなかった事実だ。
現在砦にいる同年代の女性は二十一歳の凛と十五歳の栞の二人だけ。
蓮が顎で一階の吹き抜けをしゃくった。
見下ろした先の洗濯場では栞が地熱で温められた湯を使い鼻歌交じりに服を洗っている。
その手にあるのは間違いなく湊の服だ。
そしてリビングのテーブルでは凛が図面を広げ湊と身を寄せ合うようにして配管のデータを見つめている。
時折凛が楽しげに笑い湊の頭を軽く小突く様子が見えた。
「あの二人、完全に矢印が湊に向いてるよな」
蓮の言葉が駿の胸にちくりと刺さる。
迫り来る凍死の危機を前に鉄の規律を敷き過酷な床下掘削を自ら先導してきた十五歳の少年。
彼が女性たちから特別な好意と信頼を寄せられるのは当然の帰結だった。
だが頭で理解していても満ち足りた体が本能として訴える男としてのやるせなさはどうにもならなかった。
昼食の時間になり生存者たちが三々五々一階の食堂へと集まってきた。
NICから支給された温かいレトルトの食事が並ぶテーブル。
蓮は同じ大学の先輩であり以前から密かに好意を寄せていた凛の隣の席を素早く確保しようと動いた。
だが凛はそんな蓮の動きには目もくれずごく自然な動作で湊の隣に腰を下ろしてしまった。
図面を見ながら食事をするためだ。
蓮は空中で行き場を失った手を不自然に引っ込め少し離れた席にドカッと乱暴に座った。
傷つけられたプライドがどす黒い感情に変わって胃の奥で渦を巻く。
直接的な女を取られたという嫉妬はみっともなくて口にできない。
だからこそその不満は別の形をとって口をついて出た。
「なあ湊。ちょっと労働の配分がおかしくないか?お前と凛先輩はいつも快適なリビングで図面と睨めっこだ。だけど俺や駿は配管のメンテナンスだの外気の排気口の雪かきだの泥臭い力仕事ばかりやらされてる。現場で体張ってる俺たちの身にもなってくれって言ってんだよ」
完全に八つ当たりだった。
しかし見張りを共にしていた駿も湊ばかりが栞に頼りにされることへの情けなさから蓮をたしなめることができずただ黙り込んで視線を落とした。
湊は反論しなかった。
「検討します」
それだけを短く答え黙々と食事を再開する。
若者たちの間にかつてないほどギクシャクとした重苦しい空気が横たわっていた。
午後。
一階の奥の薄暗い車庫の隅で湊は一人工具箱のレンチを弄りながら壁に寄りかかっていた。
寒さや防衛の問題であれば彼はいくらでも冷徹なロジックで解決できた。
だが今の不和の正体が何なのか湊は痛いほど理解していた。
自分に向けられた蓮と駿の男としての嫉妬。
それだけはいくら頭を回しても解決の手立てが何一つ思い浮かばなかったのだ。
「行き詰まってるなリーダー」
不意に声をかけられ湊が顔を上げる。
誠と健一がコーヒーの入ったマグカップを手に立っていた。
健一が苦笑いしながら湊の隣にしゃがみ込む。
「気にするな。蓮のやつも別に本気でお前の指示に不満があるわけじゃない。湊。人間ってのはな、厄介な生き物なんだよ。腹が減ってる時や凍え死にそうな時は飯のことや暖まることしか考えない。だがいざ腹が膨れて安全になると途端に愛やらプライドやら面倒なものを欲しがり始める。人間の心は数式じゃない。お前がどれだけ完璧な答えを用意してもどうにもならない時がある。今はただ時間が解決するのを待つしかない時もあるんだよ」
かつて凍土の掘削という過酷な労働を共に乗り越えてきた年下のリーダーに対し大人たちは人生の先輩として優しく諭した。
湊は工具を握りしめ人の上に立つことの本当の難しさを痛感していた。
翌朝。
リビングには昨日からのギクシャクした空気がそのまま持ち越されていた。
誰も口を開かない重苦しい朝食。
その沈黙を切り裂くように部屋の隅に置かれた通信端末が甲高い電子音を鳴らした。
NICからの緊急通信だった。
湊が即座に立ち上がり画面のテキストを読み上げる。
「気象衛星のデータによる。数日内に観測史上最大規模の寒波・スーパーコールドが襲来する。送電網維持のため要求電力を現在の百五十パーセントに引き上げる」
「百五十パーセントだと!?」
健吾が悲鳴のような声を上げた。
だが湊の顔に焦りはない。
彼は即座に通信パネルに手をかけ対等なビジネスパートナーとしてカウンターを放った。
「待ってくれ。その百五十パーセントの過負荷はスーパーコールド通過中の一過性の特例措置だな?寒波が過ぎれば元の発電量に戻す。もし恒久的にその数字を要求するつもりなら対価となる物資の提供レートも当然跳ね上がると思え」
湊の論理的な釘刺しに対し無機質なスピーカーから通信士の声が淡々と応じた。
「ああ、あくまでスーパーコールドを凌ぐための緊急措置だ」
相手に一過性の条件であることを認めさせた湊はさらに踏み込む。
「分かった。増産には応じる。ただしもう一つ見返りを要求する。そちらが把握している日本人の全名簿データを開示しろ」
相手は物資が豊富で高度な情報網を持つ軍事施設だ。
情報提供だけであれば向こうにコストはかからない。
湊の読み通り数分後には承認の文字と共に膨大なデータファイルが送信されてきた。
「すげえ。数千人はいるぞ」
端末の画面にずらりと並ぶ氏名、年齢、性別、そしておおよその出身地。
それはNICが周辺地域から収容した多国籍な避難民の中から日本人という条件で抽出された膨大なリストだった。
湊の指示で生存者たちが交代で端末の前に座り検索機能を使って家族や知人が生き延びていないか血眼になって探し始めた。
「頼む、生きててくれ」
祈るような声が響く。
数時間の検索の結果、砦の住人たちの関係者として計二十名弱の知人がNICに保護されていることが判明した。
「いた!おい、これ俺の元の職場の元請けの人だ!」
「あっ、これ私と同じパート先の」
「うそだろ」
駿が画面にすがりつくようにして震える声を出した。
「西崎。高木。松本。俺の高校の同級生だ。三人も生きてたなんて」
知人の生存という事実に大人たちは色めき立った。
だがその熱に湊と凛が容赦なく冷水を浴びせた。
「冷静になってください。食料も個室のスペースも有限です。全員をここに迎えることなんて不可能です」
凛の言葉に食堂が水を打ったように静まり返る。
湊がさらに現実的な刃を突きつける。
「そもそも相手は安全で物資も豊富な軍事施設にいるんです。わざわざこんな山奥の過酷な砦に来たがるんですか?それでももし限られた枠でうちのコミュニティに迎えるとしたら誰に打診するべきか。感情を捨てて砦へのメリットとデメリットだけで判断します」
それは誰を迎え入れるかという冷酷な入居審査だった。
検討はシビアに行われた。
高齢者たちはNICの高度な医療設備の下にいた方が絶対に安全であり設備のない砦に打診する理由は皆無として除外された。
「健吾さんの知り合いと蓮さんの大学の同級生については?」
「やめとけ。そいつは他人を利用することしか考えない小ずるい男だ」
「俺の知り合いもダメだ。粗暴ですぐに手が出る。あんなのを呼んだら確実にコミュニティの和が乱れる」
二人の猛反対により彼らも除外。
恵のパート仲間については性格に問題はないものの今の過酷な配管メンテや見張りを任せられるか未知数でありわざわざ打診する強い理由に欠けるとして保留とされた。
消去法による容赦のない話し合いの結果。
最後に残ったのが駿の同級生である女子高生三人だった。
湊が画面を見つめ感情論を排した冷徹な分析を下す。
「彼女たちなら体力的な脅威になりにくく駿さんという明確なストッパーがいるためコントロールがしやすい。そして何より今の砦の最も危険な火種を解消できる可能性がある」
女性不足による不満。
湊があえてそれを言葉にしなかったが大人たちは暗黙の了解としてその砦へのメリットに賛同の視線を交わした。
同級生と合流できる可能性に駿は顔を輝かせた。
蓮もまた若い女性が増えるという事実に隠しきれない期待の表情を浮かべている。
だが湊は彼らを見据え最後の一撃を放った。
「勘違いしないでください。これはあくまでこちらから合流を打診する候補を絞ったに過ぎません。NICという安全で豊かな施設にいる彼女たちがこんな最前線に来たがる保証なんてどこにもないんです。向こうで既に新しい恋人ができているかもしれない。打診しても断られる可能性が高いと思ってください」
その言葉に駿や蓮はハッと息を呑んだ。
助けたいという正義感の裏にあった一縷の下心や期待。
それらを十五歳の少年に完全に見透かされたような気がして激しい羞恥がこみ上げる。
痴話喧嘩から一転、外部の人間との接触リスク、そしてうちのコミュニティに誰を迎え入れるかという緊迫した検討。
湊は通信端末に向き直った。
「まずは彼女たちの意思と状況を確認します。明日の朝、NIC経由で通信を繋ぎましょう」
凍てつく世界の中心で新たなる火種とのコンタクトが始まろうとしていた。




