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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky


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第24話:箱庭の平穏と、交差する視線

【2040年8月2日 午前】


『本日の目標発電量:105%達成。電力の安定供給を確認。次回の物資投下は予定通り行われます』


砦のリビングの片隅に置かれた黒い通信端末が、無機質な電子音と共に緑色のメッセージを表示した。


湊は、その画面を見つめながら短く安堵の息を吐き出した。


NICとの冷徹な取引が成立してから、約一週間。


バイナリー発電システムは、旧市街地の地下インフラを通じて、彼らが要求する電力を昼夜を問わず送り続けている。


その対価として定期的にドローンで投下される高度な食料や医療品は、砦から「死の影」を完全に払拭していた。


きよの敗血症も、軍用の強力な抗生剤のおかげで劇的に快方へ向かっている。


生存の危機は、ひとまずは去った。


だが、生き延びたからこそ表面化する、新たな問題が砦の空気を重くしていた。


「ちょっと、そこのタオル退けてくれない? 着替える場所がないんだけど!」


「こっちだって寝るスペースしかないんだよ! トイレで着替えりゃいいだろ!」


リビングのあちこちから、苛立ちを含んだ大人たちの声が聞こえてくる。


熱損失を恐れ、生存者二十三名がリビングと和室の二部屋にすし詰め状態で生活しているのだ。


いびき、体臭、着替えの際の視線、そして何より「一人の時間」が全くないことによるプライバシーの欠如。


極限状態では我慢できていた些細なストレスが、平穏を取り戻したことで風船のように膨れ上がり、破裂寸前になっていた。


「……限界ですね」


湊の隣で、凛が疲れたように溜息をついた。


湊は頷き、パンと大きく手を叩いて、いがみ合う大人たちの注目を集めた。


「皆さん、聞いてください。今日から『居住区拡大計画』をスタートします」


その言葉に、大人たちが怪訝な顔を向ける。


「拡大って……母屋の二階や他の部屋は、氷点下だぞ。凍え死ぬ気か?」


健吾の問いに、凛が手元のスケッチブックを広げてみせた。


「発電タービンを回した後の『排熱』、つまりまだ十分に温かい温水を利用します。NICから支給された余剰の耐熱チューブと、砦の廃材を組み合わせれば、二階の各部屋まで配管を延長できるわ」


凛は、居住区全体を「地熱の床暖房」で温める配管ルートの図面を示した。


「時間はかかりますが、これが完成すれば、家族単位、あるいは男女別に『個室』を割り当てることができます。もう、すし詰め状態の雑魚寝からは解放されます」


個室。


その言葉が持つ圧倒的な魅力に、大人たちの顔にパッと希望の光が点灯した。


「……マジか。自分の部屋で寝られるのか……!」


義男が歓喜の声を上げ、他の大人たちからも割れんばかりの歓声が上がった。


【同日 深夜】


皆が寝静まった深夜のリビング。


ランプの薄暗い灯りの下で、湊と凛だけが起きて、翌日からの配管ルートの設計図を修正していた。


「二階の角部屋は熱効率が落ちるから、管を少し密に這わせた方がいいわね」


凛が図面にペンを走らせる。


その横顔を覗き込もうと湊が身を乗り出した瞬間、二人の肩がトン、と軽く触れ合った。


「あ……すみません」


慌てて身を引こうとした湊の鼻腔を、微かに甘い香りがくすぐった。


NICから支給された、質の良い石鹸の香りだ。


これまで泥と汗の匂いしか知らなかった湊の心臓が、その女性らしい香りに不覚にもドクリと大きく跳ねた。


凛はペンを止め、面白そうに湊の顔を見つめた。


「どうしたの? 顔、赤いけど」


「い、いや。なんでもないです。少し、ストーブが暑くて……」


目を逸らす湊を見て、凛は小さく吹き出した。


「湊くんって、十五歳のくせにずっと全責任を背負って、冷徹なリーダーの顔ばかりしてるじゃない? だからたまには、こういう風にからかいたくなるのよ」


凛は、年上のお姉さんらしい余裕のある微笑みを浮かべた。


「たまには、普通の男の子の顔をしなさい。……夜中なら、私が相手をしてあげるから」


その少し悪戯っぽい言葉に、湊はさらに頬を赤く染めた。


だが、不思議と嫌な気はしなかった。


むしろ、この極限状態の世界において、対等に議論を交わし、時に弱音を吐き出せる凛の存在は、湊にとって「知的な同志」としての絶対的な安らぎになっていた。


「……凛さんがいなかったら、僕はとっくに潰れてましたよ」


湊がぽつりとこぼした本音に、凛は優しく微笑み、湊の頭をポンポンと撫でた。


それは恋愛という甘いものではなく、死線をくぐり抜けてきた者同士の、特別な「共犯関係」の温度だった。


【2040年8月8日 午後】


数日間に及ぶ、義男や誠たち防衛工作班の懸命な配管工事が、ついに完了の時を迎えた。


床下から二階へと引き上げられた温水が、各部屋に這わせたチューブを巡り、冷え切っていた空間をじんわりと温めていく。


「すげえ……! 本当に二階でも上着がいらねぇぞ!」


義男の歓喜の声と共に、砦に「人間らしい生活」が帰ってきた。


数週間ぶりに、家族単位、あるいは男女別の個室が割り当てられた。


プライバシーの確保された静かな空間を与えられ、大人たちは壁に背を預けて安堵の涙を流した。


陽太を失い精神のバランスを崩していた祥子も、結衣と一緒に静かな個室で過ごせるようになったことで、少しずつだが落ち着きを取り戻し始めていた。


まさに、彼らが作り上げた「箱庭の平穏」の完成だった。


しかし、部屋割りが決まったことで、一つの大きな変化が生まれていた。


世界が崩壊したあの日から、ずっと恐怖を分かち合い、同じ部屋の隅で身を寄せ合って寝起きしていた湊と栞が、物理的に「別々の部屋」で過ごすことになったのだ。


【同日 夜】


二階の廊下の奥。


湊が、割り当てられた自分の新しい個室で荷物を片付けていると、入り口の戸がわずかに開いた。


「……湊くん、起きてる?」


戸の隙間から、栞がモジモジしながら顔を覗かせた。


「栞? どうしたの、こんな夜中に」


湊が手を止めて振り返ると、栞はパジャマ代わりのスウェット姿で、少し俯き加減に入ってきた。


「自分の部屋ができたのは、すごく嬉しいんだけど……」


栞は、手持ち無沙汰に自分の指先をいじりながら、上目遣いで湊を見た。


「ずっと湊くんの隣で寝てたから……一人になると、なんだか少し、寂しくて」


その素直すぎる言葉に、湊の心臓が急激に警鐘を鳴らし始めた。


これまでは「生き残る」というサバイバルの緊張感に隠れていた感情。


だが、こうして暖かで安全な個室という「日常」を取り戻した瞬間、互いが十五歳の男女であるという強烈な意識が、急激に表面化してしまったのだ。


湊もまた、栞がいない自分の部屋の広さに、言い知れぬ寂しさを感じていたことを自覚せざるを得なかった。


「……俺も、少し変な感じだよ。隣に栞がいないとさ」


湊が不器用に頭を掻きながら初めて「栞」と名前で呼んだ。


すると、栞の顔がパッと明るくなり、小走りで湊に近づき、その袖をそっと摘んだ。


「……夜、また一人で怖くなったら、ここに来てもいい?」


ほんのり赤らんだ頬で、期待と不安の入り交じった瞳で見つめてくる栞。


その破壊力に、湊は顔から火が出るほど赤くなりながら、必死に平静を装って頷いた。


「……ああ。いつでも来いよ」


「ほんと? 約束ね!」


栞は嬉しそうに微笑むと、「おやすみ」と小さく手を振り、自分の部屋へと戻っていった。


扉が閉まった後、湊は大きく息を吐き出し、熱くなった自分の頬を両手で挟んだ。


甘酸っぱく、そして温かい、日常のワンシーンだった。


【結末】


栞が去り、静寂が戻った個室。


湊は一人で窓辺に歩み寄り、目張りの隙間から外を見下ろした。


窓の外は、氷点下四十度の猛吹雪。


その漆黒の闇の中、砦の床下からは、巨大な蒸気の柱が煌々と立ち昇っている。


部屋の中の、栞や凛たちと過ごす甘く温かい平穏。


そして窓の外の、人間を容易く殺す狂った世界。


『ピィッ』


部屋の隅に置かれた通信端末が、短い電子音を鳴らした。


画面には『明日の目標発電量:2000kWh』という、無機質なノルマが表示されている。


湊は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。


自分たちが手に入れたこの幸せは、決して自分たちの力だけで勝ち取ったものではない。


NICという巨大な怪物に生殺与奪の権を握られ、彼らの心臓に電力を送り続けることでしか維持できない「管理された箱庭」に過ぎないのだ。


「……守り抜くさ。どんな手を使ってでも」


湊は端末の緑色の光を背に受けながら、次なる試練に向けて、深く静かに決意を新たにするのだった。

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