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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky


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第23話:冷徹なる取引と、地熱の対価

【2040年7月24日 深夜】


『ピィッ……ピィッ……』


薄暗い和室に、規則的で無機質な電子音が響き渡っていた。


テーブルの中央に置かれた黒い通信端末の画面が、緑色の不気味な光を放っている。


周囲を取り囲む誠、凛、駿の顔には、未知の存在に対する深い恐怖と緊張が張り付いていた。


湊は、自らの震える右手を左手で強く握り締め、ゆっくりと端末の通話ボタンを押した。


「……はい」


『応答を感謝する。私はNIC、北方セクター統合管理機構の広報官だ』


端末のスピーカーから流れ出たのは、この極限状態の世界にはおよそ不釣り合いな、ノイズ一つない驚くほどクリアな男の声だった。


合成音声と聞き紛うほど抑揚のない、徹底して訓練された冷徹なトーン。


『君たちの拠点から確認できる莫大な熱源反応、およびその地熱源を維持管理している君たちの生存能力を、我々は高く評価している』


「……用件は何ですか」


『包括的な保護管理案の提示だ。我々の傘下に入るのであれば、君たちの拠点に対する完全な「安全保障」と、生き延びるために必要な「食料・医療の提供」を約束しよう』


保護。


安全保障。


その甘美な響きを持つ言葉を聞いた瞬間、湊の脳裏に、冷たい倉庫の奥で凍りついている達也と陽太の青白い顔がフラッシュバックした。


(……もっと早く、この力が手に入っていれば)


もし数日前に彼らと繋がっていれば、二人の命は失われずに済んだかもしれない。


その強烈な後悔と悲哀が湊の胸を締め付けたが、次の瞬間には、決して二度と仲間を失わないという鋼のような決意が、湊の感情を完全に凍てつかせた。


「……お断りします」


『……なんだと?』


通信の向こう側の男が、初めて僅かな戸惑いを見せた。


隣で聞いていた誠や駿も、湊の突然の拒絶に息を呑んで目を見開いた。


「あんたたちの言う『安全保障』は不要だと言っているんです」


『正気か。あの巨大な蒸気の柱は、君たちが想像する以上に遠くまで届いている。我々が保護しなければ、数日以内に君たちは武装した略奪者グループによって根こそぎ奪われることになるぞ』


「それはあり得ません」


湊の声は、相手の広報官以上に冷徹で、一切の感情を排していた。


「現在の外気温は、マイナス四十度を下回っています。この環境下で、何十キロもの雪原を踏破し、組織的な軍事行動や略奪を行える集団など、物理的に存在しない」


湊は、傍らに立つ凛と視線を交わし、さらに言葉を続けた。


「もし、この殺人的な極寒を突破して攻め込んでこれる集団がいるとすれば、それは本格的な軍用品と防寒装備を保有する『NIC』、つまりあんたたちだけだ」


端末の向こう側が、ふっと静まり返った。


「他の略奪者が来るリスクはゼロに等しい。そして、もしあんたたちのような軍隊が攻めてくるなら、僕たちのような民間人の砦が防げるレベルではない。……つまり、僕たちにとっての唯一の脅威は、あんたたち自身だ」


湊は、バールの柄を握りしめるように、端末に向かって決定的な言葉を突きつけた。


「つまり、現時点で唯一の脅威対象と取引をする訳ですから、安全保障という名目で対価を払うつもりはありません。」


長い、数秒の沈黙が和室に落ちた。


やがてスピーカーから聞こえてきたのは、広報官の、先ほどまでの機械的なトーンとは違う、僅かに「感心」を含んだような低い吐息だった。


『……見事な推論だ。君がただの怯えた生存者ではないことがよく分かった』


男の声から、マニュアル通りの広報官としての仮面が剥がれ落ちた。


『では、どうする。我々はあの熱源が喉から手が出るほど欲しい。君たちは医療物資が欲しい。……保護という名目が気に入らないのなら、別の形を提案してもらおうか』


【2040年7月25日 未明】


「保護ではなく、対等なビジネスとしての『取引』を要求します」


湊は、事前に凛と練り上げていた要求を正確に口にし始めた。


「提供側である僕たちは、この地熱源の独占的利用権と、生成された電力をそちらに供給する。報酬側であるそちらは、きよさんの治療に必要な特定抗生剤の継続供給、および高度な食料を支払う」


『悪くない。だが、発電と送電のインフラはどうするつもりだ。君たちの手作り設備では、我々が要求する電力には到底届かないぞ』


「ですから、必要な資材はすべてそちらで手配してください」


ここで、湊から端末を受け取った凛が、専門的な知識をもって交渉を引き継いだ。


「要求するのは、低沸点媒体を利用した最新の『バイナリー発電ユニット』、高効率な熱交換器、作動流体としてのアンモニアボンベ、そして特殊耐熱配管のセットよ」


『……随分と詳しいな。だが、送電網はどうする。我々の拠点までケーブルを敷設するとなれば、この気温下では莫大な時間とコストがかかる』


「ケーブルを敷く必要はありません」


凛は、手元に広げた古い市の都市計画図を指で叩きながら答えた。


「この砦のすぐ下、旧市街地へ続く幹線道路の地下には、雪と放射能汚染を免れた『地下埋設型の既存送電インフラ』が眠っているはずよ。そのノードに接続するための変圧器とジョイントだけを送ってくれれば、既存の地下網を使ってそちらのネットワークに送電できるわ」


『……なるほど。地下の既存インフラを再利用するか。それなら、すぐにでも接続が可能だ』


男の声には、明確な称賛の色が混じっていた。


湊が再び端末を手に取る。


「そちらが設備を監視するためのカメラの設置は認めます。ですが、それはあくまで『設備の稼働状況と電力の安定供給』を目的としたものに限定する。僕たちの居住区への干渉は一切認めません」


『よかろう。……安全保障についてはどうする?』


「今後、この極寒を突破する未知の脅威が現れた場合にのみ、再度協議することとします」


『……協議終了だ。君たちの合理的な判断を高く評価する。契約を承認しよう。……数時間後に、初回物資を投下する』


通話が切れ、和室に再び重い静寂が戻った。


湊は端末をテーブルに置き、深く、長く息を吐き出した。


全身から滝のように冷や汗が流れ落ち、自分がどれほど強大な存在と綱渡りの交渉をしていたのかを、遅れて実感していた。


【2040年7月25日 早朝】


灰色の雲が垂れ込める空から、猛烈な風切り音が聞こえてきた。


「湊、外を見ろ! あれは……ドローンなんかじゃないぞ!」


見張り部屋から飛び出してきた駿の叫び声に、湊たちは急いで窓に駆け寄った。


吹雪を切り裂いて上空から降下してきたのは、四つの巨大な可動式ローターを持つ、軍用の垂直離着陸(VTOL)中型輸送機だった。


凄まじいダウンウォッシュが周囲の雪を巻き上げ、砦の窓ガラスが割れんばかりに激しく振動する。


「……これが、NICの力……」


誠が、その圧倒的なテクノロジーの暴力の前に呆然と呟いた。


輸送機の機体下部が開き、衝撃吸収用のパラシュートと共に、巨大なコンテナが三つ、正確に砦の前の雪原へと投下された。


着地を見届けると、輸送機は一切の未練もなく機首を上げ、再び鉛色の空へと消えていった。


湊は防寒具を着込み、雪原に鎮座する黒いコンテナへと向かった。


厳重なロックを解除してハッチを開けると、そこには凛が要求した最新鋭のバイナリー発電ユニットと配管、そして最も重要な「軍用医療パック」が整然と収められていた。


湊は、鈍く光る巨大なタービンを見つめながら、冷え切った唇を噛み締めた。


(これは救済じゃない。巨大組織による、ただの設備投資だ)


自分たちは今、彼らのシステムの一部に組み込まれたのだという実感が、鉛のように胃の奥に沈んでいくのを感じた。


【同日 午前】


和室の片隅で、凛の手によって、きよの腕に新たな抗生剤の点滴が繋がれた。


「……すごい。投与して数十分で、脈拍が安定してきているわ」


凛の弾んだ声に、周囲で見守っていた由美子や真由美たちが、堪えきれずに安堵の涙をこぼした。


きよの浅かった呼吸が深くなり、苦悶に歪んでいた表情が穏やかなものへと変わっていく。


「湊くん……ありがとう。本当に、ありがとう……」


真由美が湊の手を握り、何度も何度も頭を下げる。


湊は何も言わず、ただ静かに頷き返した。


その頃、車庫と床下では、義男や健吾たちがNICから送信されたホログラムマニュアルに従い、発電ユニットの設置作業に追われていた。


「よし、地下の既存ケーブルへのジョイント、接続完了したぞ!」


義男の声と共に、床下から噴き出す莫大な熱水が、最新のバイナリータービンへと引き込まれていく。


キィィィィン……という甲高い金属音が鳴り響き、タービンが猛烈な勢いで回転を始めた。


『システム起動。電力の同期を開始します』


端末から電子音が鳴り、画面に複雑な波形が表示される。


自分たちが命懸けで掘り当てた熱が、既存の地下インフラを通って、遥か彼方にいる巨大組織の心臓部へと送られていく。


砦の電力がNICのネットワークと完全に同期され、自分たちの「家」が、巨大な組織の「末端発電所」に組み込まれた瞬間だった。


『本日の目標発電量:達成率0%』


端末に無機質に表示されたその通知を眺めながら、湊はひび割れた自分の手をじっと見つめた。


安全保障という名の直接的な支配は免れた。


きよの命も救った。


だが、この目標発電量を下回れば、明日の医療品の供給は絶たれる。


湊は、自分たちが手に入れたこの絶対的な暖かさが、もはや自分たちのものではなく、NICという巨大な怪物の拍動の一部になってしまったことを、冷たい絶望と共に噛み締めていた。

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