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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky


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第21話:白銀の要塞と、見捨てられた命

【2040年7月21日 早朝】


灰色の雲が垂れ込める空に向かって、莫大な量の白い蒸気が真っ直ぐに立ち昇っている。


砦の二階にある見張り部屋の窓からその光景を見下ろしながら、湊は静かに息を吐き出した。


「……やはり、目立ちすぎますね」


「ああ。だが、あれのおかげで俺たちは凍えずに済んでいるんだ。文句は言えねぇさ」


隣で双眼鏡を覗き込んでいた駿が、疲れの滲む声で応じた。


昨日、地熱を引き当てた代償として発生したこの巨大な蒸気の柱は、何十キロ先からでも視認できる「狼煙」となってしまった。


だが、皮肉なことに、大自然はその脅威に対する「最強の防壁」をも同時に用意していた。


「あそこを見ろ。砦に続く坂道だ」


駿に促され、湊も視線を下に向ける。


床下を循環した熱水は、最終的に排水溝を伝って外の斜面へと垂れ流されている。


六十度近い熱水は、マイナス三十五度を下回る暴力的な外気に触れた瞬間、猛烈な勢いで冷却され、斜面の雪を溶かしながら瞬時に再凍結していた。


その結果、砦へと続く唯一の進入路である長い坂道は、厚さ数十センチにも及ぶ、鏡のように滑らかな氷の層へと変貌していたのだ。


完璧な「アイスバーン」である。


アイゼンやピッケルといった本格的な冬山登山の装備がなければ、一歩踏み出しただけで滑り落ちてしまう、文字通りの「拒絶の壁」が完成していた。


「……来ます」


湊が鋭い声を発した。


遠くの雪原から、蒸気の柱を目指して接近してくる二つの黒い影があった。


エンジン音を響かせて雪を蹴立ててくるのは、二台のスノーモービルだった。


略奪者か、それともただの難民か。


どちらにせよ、これほどの極寒の中で強風を真っ向から受けるバイク移動は、常軌を逸した自殺行為だった。


「……止まったな」


駿が双眼鏡を下ろさずに呟いた。


スノーモービルは、氷の坂道に到達する遥か手前で、唐突にその動きを止めた。


エンジンが焼き付いたのか、あるいはキャブレターが凍結したのか。


いや、それ以前の問題だった。


動かなくなった車体の上で、搭乗者たちが力なく雪原に崩れ落ちるのが見えた。


外気温はマイナス三十五度。


走行風を浴び続けた彼らの体感温度は、マイナス五十度を優に超えていただろう。


空気そのものが殺意を持っているこの世界では、人間が他者を襲撃することすら、物理的に不可能になりつつあるのだ。


「……死んだか。馬鹿な奴らだ」


駿の乾いた声に、湊は何も答えられなかった。


最強の敵であるはずの「寒波」が、今は砦を守る最強の盾となっている。


その絶対的な矛盾を前に、湊はただ無言で白銀の雪原を見つめ続けることしかできなかった。


【同日 午前】


数時間後、再び砦の麓に動きがあった。


「おい、湊! 下に車が来てるぞ!」


見張りを交代した健一の叫び声に、湊は急いで一階の窓際に駆け寄った。


そこには、先日三十キロの米と引き換えにガソリンを取引した、あのワンボックスカーが停まっていた。


車から降りてきた男たちは、以前よりもさらに痩せこけ、絶望に満ちた顔で砦の威容を見上げていた。


『頼む! 話を聞いてくれ!』


静寂を切り裂いて、ノイズ混じりの拡声器の声が響き渡った。


リーダー格の男が、必死の形相で叫んでいる。


『俺たちの拠点の暖房が壊れた! もう限界なんだ! 燃料は全部置いていくから、中に入れてくれ!』


その声には、人間としてのプライドを完全に投げ打った、生への執着だけがこびりついていた。


湊は窓を少しだけ開け、冷え切った空気を肺に吸い込むと、手元のメガホンを握りしめた。


「……お断りします」


湊の冷酷な声が、吹雪の中に吸い込まれていく。


「ここから見えるでしょう。砦へ続く坂道は、すでに垂直に近い氷の壁になっています。……俺たちには、あなたたちを引き上げる手段も、これ以上の人間を受け入れる余力もありません」


『嘘だろ! あんたら、温泉が出てるじゃないか! そこだけ天国みたいに暖かいんだろう!? 見殺しにする気か!』


男の悲痛な叫び声が響く。


だが、湊の顔に感情の色は浮かばなかった。


「あなたたちも、自分たちの足で登れないことは理解しているはずだ。……帰ってください。これ以上そこにいれば、凍死しますよ」


事実という名の残酷な刃を突きつけられ、男たちは絶望の眼差しでツルツルに凍りついた氷の坂を見上げた。


どれほど足掻いても、今の彼らの装備と体力では、この物理的な壁を越えることは不可能だ。


しばらくの間、恨みがましい目で砦を睨みつけていた男たちだったが、やがて何かを諦めたように呪詛の言葉を吐き捨てると、逃げるように車へと戻り、雪煙を上げて引き返していった。


「……よかったのかい、湊くん」


背後から、誠が重い声で問いかけた。


「仕方ありません。……情けをかければ、この砦が崩壊します」


湊は窓を閉め、メガホンを下ろした。


彼の胸の奥底では、切り捨てた命の重さが鉛のように冷たくわだかまっていたが、それを顔に出すことは絶対に許されなかった。


【同日 午後】


「すげぇ……! 本当にお湯が出るぞ!」


和室に隣接する浴室から、義男の歓喜の叫びが響き渡った。


彼と誠の尽力により、床下を流れる熱水の一部を、耐熱塩ビパイプと手動ポンプを使って浴室へと直接引き込む工事が完了したのだ。


「温度もちょうどいい。天然の掛け流し温泉の完成だ!」


もうもうと立ち込める白い湯気の中で、大人たちが子供のように笑い合っている。


これまでは、僅かな水をストーブで沸かし、タオルを濡らして体を拭くのが限界だった。


それが今、二十四時間いつでも、全身の汚れを洗い流し、芯まで冷え切った体を温めることができるようになったのだ。


数週間ぶりに頭から熱い湯を浴びた彼らの顔からは、死の恐怖に強張っていた影が消え、人間らしい柔らかな表情が戻っていた。


それは単なる清潔さの回復にとどまらず、精神的な「人間性の回復」そのものだった。


「湊くん、部屋の空気も入れ替えましょう。これだけ暖かければ、窓を開けてもすぐに室温が戻るわ」


凛の提案により、和室の大掃除が始まった。


これまで結露とストーブの煤で黒ずみ、大勢の人間が密集する悪臭が漂っていた和室が、徹底的な換気と拭き掃除によって見違えるように衛生的な空間へと生まれ変わっていく。


「……あたたかいね、お母さん」


隔離スペースのカーテンが開け放たれ、すっかり熱の下がった莉子が、真由美の胸の中で心地よさそうに目を細めていた。


「ええ。天国みたいね」


「核の冬」が始まって以来、初めて手に入れた「文明的で衛生的な住居環境」。


誰もが、このまま穏やかな日々が続くのではないかという、束の間の希望を抱いていた。


【同日 夕刻】


車庫の片隅で、湊は誠と共に帳面を広げていた。


「暖房を地熱で賄えるようになったおかげで、薪の消費量は劇的に減ったよ。……炊飯用だけに絞れば、今の備蓄でも数ヶ月は余裕で持つ計算だ」


誠が明るい声で報告する。


だが、湊の視線は手元の数字ではなく、もっと遠くの未来を見据えていた。


「……誠さん。吹雪が少しでも弱まったら、近くの立ち枯れた木々を伐採しに行きましょう」


「え? でも、もう薪には困ってないだろう?」


「念には念を入れます。放射性物質や有害な煤が付着している外の木も、温泉の熱水で徹底的に洗い流せば、安全な燃料になるはずです」


湊は、車庫の奥の空きスペースを指差した。


「洗った木材を屋内に並べて、地熱の暖かさで数ヶ月かけて完全に乾燥させるんです。……今すぐには使えなくても、半年後の越冬に向けた『最高の燃料』になります」


「……お前ってやつは。本当に、どこまで先を見てるんだか」


誠は呆れたように笑ったが、その目には絶対的な信頼が宿っていた。


湊の頭の中にあるのは「今日の生存」ではなく、「来年の春を迎えること」だったのだ。


【2040年7月22日 早朝】


翌朝。


外気温の温度計は、ついに「氷点下四十度」という未知の領域に迫っていた。


人間を容易く殺す絶対零度の世界。


だが、完璧な室温と衛生環境を手に入れた和室の中は、平和で穏やかな空気に満ちているはずだった。


「……凛さん! きよさんの様子が、おかしいの!」


突如として響き渡った由美子の悲痛な叫び声が、その平和を粉々に打ち砕いた。


湊が跳ね起き、部屋の隅の布団へ駆け寄る。


室温は十八度に保たれているにも関わらず、きよは分厚い毛布を何枚も被ったまま、ガタガタと全身を激しく震わせていた。


「……脈が異常に速い。呼吸も浅いわ」


凛がきよの額に手を当て、険しい表情で首筋のリンパを確認する。


その顔色が、サッと青ざめた。


「どうしたんですか、凛さん」


「……敗血症の初期症状かもしれない」


その言葉に、周囲の大人たちが息を呑んだ。


「敗血症って……バイ菌が入ったってことか!?」


健吾が青ざめた顔で問う。


「ええ。褥瘡から侵入した細菌が、血液に乗って全身に回り始めているのよ。きよさんが寝たきりになった時点で、こうなる可能性が高かったのだけど、体位を変えるぐらいしかできることがなかったの」


凛の悲痛な表情を見て、湊は拳を強く握りしめた。


「薬は……! 抗生剤はないんですか!」


「……ないわ。もう市販の風邪薬や痛み止めしかない。敗血症を止めるには、強力な抗生物質の点滴が必要なのよ」


凛は唇を強く噛み締め、きよの震える手を両手で包み込んだ。


「あとは、きよさん自身の『免疫力』が細菌に勝つかどうかに賭けるしかない。……体を温めて、水分を十分に取らせて。でも、覚悟はしておいて」


それは、実質的な医療の限界の宣告だった。


完璧な室温と清潔な衣類や、湧き出る無限の熱水。


どれほど環境を整え、外部からの侵入者を氷の壁で拒絶しようとも、体内で増殖する目に見えない「死」を防ぐことはできない。


「……きよさん、頑張って。負けないで……!」


由美子が涙ながらに毛布を擦る。


湊は、苦痛に顔を歪めるきよを見下ろしながら、自分が手に入れた「白銀の要塞」の無力さを、冷たい現実として突きつけられていた。


生存確率を上げるための圧倒的な環境。


だが、それが直ちに「命を救う魔法」になるわけではない。


生か死か。


暖かな地獄の中で、きよの小さな命の灯火が、今にも吹き消されそうに激しく揺らいでいた。

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