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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky


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第20話:地底の恩恵と、命を削る煙

【2040年7月19日 夜】


硫黄の匂いと、肌を焼くような高圧の蒸気。


床下に開いた縦穴から間欠泉のように噴き出した熱水は、瞬く間に地下のを満たし、和室の床板のすぐ下まで水位を上げてきた。


室温は異常なスピードで上昇し、結露した水滴が天井からボタボタと降り注ぐ。


つい先ほどまで氷点下の地獄だった和室は、今や視界も利かないほどのサウナ状態と化していた。


「……ゲホッ、ゴホッ! 湊、このままだと床下から熱湯が溢れ出してくるぞ!」


顔を真っ赤に茹で上げた誠が、口元を布で覆いながら叫んだ。


「喜んでいる場合じゃないわ! 湊くん、急いで!」


蒸気の向こう側から、凛の悲痛な声が飛んだ。


「あの熱水は推定六十度から七十度はある。このまま溜め込み続ければ、基礎の土壌が溶けてドロドロの泥水になるわ! 家全体が傾いて倒壊する!」


その警告に、湊の背筋に冷たいものが走った。


地熱を引き当てたという歓喜は、すでに過去のものだ。


大自然の莫大なエネルギーは、コントロールできなければただの暴力でしかない。


「外へ逃がします! 基礎を迂回して、外の斜面へ熱水を排出する溝を掘るんだ!」


湊は叫ぶと同時に、火傷の危険も顧みず、再び泥と熱気の中へ飛び込んだ。


「馬鹿野郎、その温度じゃ大火傷するぞ!」


健吾が制止するのも聞かず、湊は床下の僅かなスペースに身を滑り込ませ、スコップを短く持って狂ったように泥を掻き出し始めた。


噴き出した熱湯の飛沫が腕や顔を打ち、皮膚が焼けるような痛みが走る。


だが、ここで逃げれば砦は崩壊し、全員がマイナス三十五度の雪原に放り出されるのだ。


「……くそったれ! やるしかねぇだろ!」


健吾も覚悟を決め、義男と共に泥だらけになって湊に続いた。


男たちは死に物狂いで泥を積み上げ、室内への浸水を防ぐ堤防を築く。


それと並行して、床下の通風孔をハンマーでぶち抜き、外の斜面へと一直線に繋がる排水溝を掘り進めた。


「熱ッ! ぐあッ……!」


健吾の長靴の中に熱湯が入り込み、悲鳴が上がる。


それでも彼は手を止めなかった。


蒸気で酸欠になりかけながら、交代で泥を掻き出し続けること一時間。


ついに外へ通じる溝が貫通し、茶色く濁った熱水の激流が、勢いよく砦の外へと流れ出していった。


「……抜けた……! 水位が、下がっていくぞ!」


義男の歓喜の叫びと共に、床下に溜まっていた熱湯が、一定のラインを保って外へ排出され始めた。


間一髪。


砦の倒壊という最悪の二次災害を、男たちは火傷だらけの腕で食い止めたのだ。


【2040年7月20日 明け方】


排水の目処は立った。


次なる課題は、このコントロールを取り戻した「熱」を、いかにして安全かつ効率的に部屋の暖房へと変換するかだ。


熱水そのものを床下に流し続ければ、莫大な湿気で木材が腐食し、結局は砦を失うことになる。


「熱だけを奪って、湿気は遮断する『熱交換器ラジエーター』が必要です……何か、管になるものは……」


疲労でフラフラの湊が、血走った目で室内を見回す。


その時、彼の脳裏にある光景が閃いた。


「……屋根だ」


湊は弾かれたように立ち上がった。


「母屋の屋根に、昔の『ソーラー温水器』が放置されていたはずだ。あの中の耐熱チューブを使えます!」


湊と誠は、命綱を結んで凍てつく屋根の上へと這い出た。


太陽光が届かなくなり、中の水も抜かれて無用の長物となっていた黒い温水器。


その内部から、丈夫な耐熱性と熱伝導率を兼ね備えた太い配管チューブを何十メートルも引きずり出す。


それらを和室へ運び込み、熱水が絶えず流れる床下の排水溝の中に蛇行させて沈めた。


チューブの両端は和室の床上に引き上げ、車の予備パーツとして保管していたラジエーター用の「不凍液」と空気を満たして密閉する。


仕組みは単純だ。


床下の熱水(六十度)が、沈められたチューブを外側から熱する。


チューブの中で温められた不凍液と空気が膨張して循環し、床下の板に密着させた管を通して、じんわりと和室全体へ熱を放射するのだ。


蒸気と湿気は分厚い防湿シートで完全に床下に封じ込め、熱だけを吸い上げる。


それは、彼らが持ち得る知識と廃材のすべてを注ぎ込んだ、巨大な「天然の床暖房」だった。


「……よし。これで、発電機を止めます」


湊の合図で、誠が震える手でポータブル発電機のスイッチを切った。


プスン、という音と共に、これまで砦の命綱であり、同時に彼らの精神を削り続けてきたけたたましいエンジン音が消えた。


和室に、何週間ぶりかの深い静寂が訪れる。


それは、残り数リットルまで逼迫していた「ガソリンのタイムリミット」からの、完全なる解放を意味していた。


【同日 午後】


床板から伝わる熱は、初めは微かなものだった。


だが、一時間、二時間と経つにつれ、確かな温もりが足元から這い上がり、冷え切っていた和室の空気を根底から変えていった。


吐く息の白さが消える。


空気の刺すような痛みが、柔らかい感触へと変わっていく。


温度計の針は、五度、十度、そしてついに「十八度」という、この狂った世界においては奇跡のような数字を指し示していた。


「……温かい。本当に、温かいぞ……」


健吾が、信じられないものを見るような目で自分の両手を見つめた。


何週間も着込み続け、汗と泥で悪臭を放っていた分厚いダウンジャケットやスキーウェア。


それを、大人たちが次々と脱ぎ捨てる。


身軽になった体。


震えない手足。


誰もが、声を上げて泣いていた。


「湊くん! 湊くん……っ!」


隔離スペースのカーテンを開け、真由美が泣き崩れながら湊の胸に飛び込んできた。


「莉子が……莉子が、汗をかいてるの! 熱が、下がってきたわ……!」


湊は、真由美の肩越しに莉子の姿を見た。


数時間前まで青白くこわばっていた小さな顔に、血色が戻っている。


ホットカーペットの局所的な熱ではなく、部屋全体の穏やかな温もりに包まれ、莉子は安らかな寝息を立てていた。


その横では、腰を壊して寝たきりになっていた鉄造が、毛布から手足を投げ出し、気持ちよさそうに深い眠りに落ちている。


(……終わったんだ)


湊の足から、ふっと力が抜けた。


狂気のデスマーチ。


命を削り、誰かを犠牲にしてでも前へ進むしかなかった地獄の三日間。


その重圧から解放された瞬間、湊は糸が切れた操り人形のように、畳の上へ仰向けに倒れ込んだ。


「湊!」


誠たちが慌てて駆け寄るが、湊の口元には、薄く、本当に久しぶりの安らかな笑みが浮かんでいた。


「……大丈夫です。ただ……ちょっと、眠いだけ……」


背中から伝わってくる床板の温もりが、冷え切っていた湊の心と体を優しく溶かしていく。


泥まみれの服のまま、湊は意識を手放した。


それは、紛れもない勝利の瞬間だった。


【2040年7月20日 夕刻】


どれくらい眠っていただろうか。


目を覚ました湊は、体が奇妙なほど軽いことに気づいた。


寒くない。


それがどれほど贅沢なことか、骨の髄まで理解している。


和室を見渡すと、皆が一様に穏やかな顔で休息を取っていた。


地獄のような緊張感が嘘のように消え去っている。


湊はゆっくりと立ち上がり、二階の見張り部屋へと向かった。


窓辺には、弓を片手に外を見張っていた駿の姿があった。


「駿さん。代わりますよ」


声をかけようとした湊は、駿の横顔を見て立ち止まった。


駿は、窓の外の景色を見たまま、まるで氷の彫像のように凍りついていたのだ。


「……駿さん?」


「……湊。お前、これを見ろ」


駿の掠れた声に引き寄せられるように、湊は窓から外を見下ろした。


そして、息を呑んだ。


砦の斜面の下。


床下から排出された六十度の熱水は、マイナス三十五度を下回る極寒の外気に勢いよく触れていた。


極端な温度差。


それが何を生み出すか。


凄まじい量の「白い蒸気」だった。


それはただの湯気ではない。


吹雪が吹き荒れる灰色の空に向かって、天高く、真っ直ぐにそびえ立つ、巨大な白銀の柱だ。


周囲の雪を溶かしながらもうもうと湧き上がるその白煙は、圧倒的な存在感を放っていた。


「……あれじゃあ、まるで……」


駿が、絶望に満ちた声で呟く。


「ええ」


湊の顔から、つい先ほどまでの安らかな表情が完全に消え失せていた。


「何十キロ先からでも視認できる、巨大な狼煙のろしです」


この核の冬の世界において、「熱」は命そのものだ。


あれほど巨大な蒸気の柱が立っているということは、そこに「無限の熱源」があり、それを管理している「生存者」がいるという事実を、残酷なまでに世界へ向けて宣伝しているのと同じだった。


昨日、ガソリンを取引したワンボックスカーの男たち。


そして、飢えと寒さに狂い、奪うべき標的を探して街を彷徨う無数の略奪者たち。


彼らの目に、あの白い柱はどう映るだろうか。


「……ここはもう、隠れ家じゃない」


凍死の危機を乗り越え、地底の恩恵を手に入れた代償。


それは、砦が街中のすべての悪意から狙われる「最大の標的」へと変貌したことを意味していた。


湊は、窓辺に立てかけてあった金属バットのグリップを、ギリッと音が鳴るほど強く握り直した。


自然との戦いは終わった。


だが、人間同士の凄惨な「戦争」が、今まさに幕を開けようとしていた。

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