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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky


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第18話:沈みゆく希望と、五歳の熱

【2040年 7月17日 朝】


「ぐあッ……!」


くぐもった、しかし激しい苦痛に満ちた呻き声が、薄暗い和室の床下から響き渡った。


バールを握る湊の手が止まる。


その声の主が誰であるか、瞬時に理解したからだ。


「鉄造さん!」


湊は泥にまみれた手をつき、暗い穴から身を乗り出した。


そこには、重い土嚢を抱えたまま、不自然な体勢で凍てついた土の上に崩れ落ちた川上鉄造の姿があった。


齢七十五を超えてなお、熊をも仕留めると言われた屈強な猟師の顔が、脂汗にまみれ、激痛に歪んでいる。


「鉄造さん、しっかりして! 義男さん、誠さん、手を貸してください!」


湊の叫びに、周囲の大人たちが血相を変えて駆け寄る。


義男が父親の巨体を抱え上げようとしたが、鉄造は「触るなッ!」と悲鳴に近い声を上げた。


「……すまん、湊。……足に、力が入らねぇんだ……」


鉄造の掠れた声は、もはや頼もしい猟師のそれではなく、ただの弱り切った老人のものだった。


極限の寒さの中での連日の重労働が、ついに彼の強靭な腰の筋肉と神経を完全に破壊してしまったのだ。


男たちの手によって、鉄造は慎重に和室の隅の毛布へと運ばれた。


彼が横たわった後、部屋を支配したのは、重苦しい沈黙と、底なしの恐怖だった。


(あの鉄造さんが、壊れた……)


作業人数が減るという物理的な損失だけではない。


この砦で最もタフだった男が倒れたという事実は、生存者たちの士気を根底から削り取っていった。


「次は自分がこうなるのではないか」という恐怖が、大人たちの土気色の顔にありありと浮かんでいる。


湊は、自らの内に黒いタールのように湧き上がる罪悪感を、氷のような意志で無理やり押し殺した。


(俺のせいだ。俺が効率を優先して、大人たちに無理をさせすぎた。……でも、謝っている暇はない)


ここで立ち止まれば、鉄造の努力が無駄になる。


陽太の死が無駄になる。


湊は、冷徹なリーダーという仮面を顔に張り付け、泥の付いたスコップを再び握りしめた。


「……作業を続けます」


その声は、ひび割れていたが、有無を言わさぬ響きを持っていた。


「鉄造さんの分は、僕たちが埋めるしかないんです。手を止めている時間はありません」


冷酷すぎる言葉だったかもしれない。


だが、劣悪な環境の床下――湿った泥、澱んだ空気、刺すような冷気、そして一酸化炭素中毒への恐怖――の中へ、湊は誰よりも早く身を投じ、自ら先頭に立って狂ったように凍土を穿ち始めた。


その痛々しいほどの背中を見せつけられれば、大人たちも無言で続くしかなかった。


【同日 11:00】


カン、カン、という単調な掘削音が続く中、ふいにその静寂を切り裂く声が上がった。


「……莉子? どうしたの、莉子!」


真由美の悲痛な叫び声だった。


和室の一角で休んでいた真由美が、五歳の娘・莉子の小さな体を抱き上げ、血の気を失った顔でこちらを見ている。


「……熱がある。燃えるように熱いわ!」


その一言で、和室の空気が完全に凍りついた。


数日前、九歳の陽太を肺炎で失ったばかりの彼らにとって、「子供の発熱」は死の宣告に等しかった。


全員の脳裏に、あの蝋細工のように白くなった陽太の顔と、正気を失った祥子の泣き叫ぶ声がフラッシュバックする。


「隔離……しなければならない。……だが」


湊は床下から顔を出し、言葉を詰まらせた。


感染症の疑いがある以上、すぐに隔離スペースへ移すべきだ。


しかし、五歳の子供を一人で薄暗いカーテンの向こう側に置くことは、恐怖による精神的な死を招く。


凛が急いで駆け寄り、莉子の額に手を当てた。


その表情が険しくなる。


「……かなり高いわ。肺炎の初期症状かもしれない」


湊は、ギリッと奥歯を噛み締めた。


これ以上、労働力を減らすわけにはいかない。


だが、選択の余地はなかった。


「……真由美さん。莉子ちゃんと一緒に、隔離スペースに入ってください」


湊の冷たい宣告に、真由美はすがるような目を向けた。


「凛さんの指示に従って、看病に専念してください。他の作業は一切やらなくていいです」


それは、砦の防衛と掘削のための貴重な労働力が、また一つ失われたことを意味していた。


掘削のペースはさらに低下する。


生存への道が、目に見えて遠のいていくのを、湊は肌で感じていた。


【同日 午後】


「何か……他に方法はないのか。このままじゃ、あの子まで陽太くんと同じになってしまう」


湊は床下から這い上がり、泥だらけの手で頭を抱え込んだ。


和室の温度は、発電機で回しているハロゲンヒーターがあっても、依然として氷点下に近い。


カーテン越しに聞こえてくる莉子の荒い呼吸音が、湊の鼓膜を、そして心を責め立てる。


(俺が助ける。俺が全員を生かすと決めたんだ。考えろ、何かあるはずだ……!)


不意に、湊は弾かれたように立ち上がり、狂ったように母屋の奥の押し入れや倉庫を漁り始めた。


段ボールを投げ捨て、埃にまみれたガラクタを掻き分ける。


「湊、何を探しているんだ!」


誠が制止しようとするが、湊の耳には入らない。


「……あった!」


湊が埃とカビにまみれた古い布の塊を引きずり出してきた。


それは、核の冬が始まり、電力が失われて以来、ただの重いゴミと同然になって放置されていた「ホットカーペット」だった。


「これを使います」


「馬鹿を言うな、そんなもの……」


「今は発電機があります!」


湊は、血走った目で誠を睨み返した。


「これがあれば、莉子ちゃんの体を下から直接温められる。空間全体を温められなくても、体温の低下を防ぐことはできる。生存率が劇的に上がるはずです!」


だが、希望はすぐには機能しなかった。


カーペットは長期間の結露と湿気で、じっとりと濡れていて、このまま通電すれば間違いなくショートし、貴重な発電機ごと焼き切ってしまうだろう。


「……ストーブの熱で乾燥させます。莉子ちゃんが力尽きる前に、絶対に乾かさなければならない」


湊は自らストーブの前に陣取り、濡れたカーペットに必死に熱風を送り始めた。


その目は、祈るように、そして何かに取り憑かれたように虚ろだった。


【同日 深夜】


和室の中心に、大人たちが集められていた。


発電機の稼働音だけが低く響く中、湊は残酷な事実を口にした。


「……ガソリンの残量が、残り僅かです」


取引で手に入れた四十リットルのガソリン。


ハロゲンヒーターや照明、そしてこれらすべての電力を賄い続けるには、消費が激しすぎた。


「計算上、現在のペースで消費し続ければ……三日で底を突きます」


三日。


それが、彼らに残された「寿命」だった。


「三日。……たったの三日かよ」


健吾が頭を抱え、絶望的な声を出した。


「三日以内に地熱の層まで届かなければ、ガソリンが切れ、ヒーターも消え、莉子ちゃんを守る熱も消えます。……それまでに、床下を掘り抜いて循環システムを完成させるしかないんです」


湊の言葉は、もはや激励でも何でもない。


ただの死のカウントダウンだった。


その直後、ストーブの前で作業していた凛が声を上げた。


「湊くん、カーペット、乾いたわ!」


湊は飛び起き、隔離スペースへと急いだ。


真由美が不安そうに見守る中、莉子の敷布団の下にホットカーペットを滑り込ませる。


震える手でプラグを延長コードに差し込み、スイッチを入れた。


……通電のランプが赤く点灯した。


ショートは起きない。


数分後、冷え切っていたカーペットから、じんわりとした確かな熱が立ち上り始めた。


「……あたたかい」


うわ言のように呟いていた莉子の荒い呼吸が、僅かに、本当に僅かに穏やかになった。


こわばっていた小さな顔の筋肉が、安らぎに緩む。


「……温かい。……湊くん、ありがとう……本当に、ありがとう……」


真由美は莉子の手に自分の顔を押し当て、声を殺して泣き崩れた。


その涙声と感謝の言葉を背中に受けながら、湊は静かに隔離スペースを出た。


彼の心は、莉子を救いたいという純粋な「祈り」と、刻一刻と減り続けるガソリンへの「合理的計算」の狭間で、引き裂かれそうに激しく揺れ動いていた。


(間に合え。……絶対に間に合ってくれ。もう、誰も失いたくないんだ!)


湊は再びバールを手に取り、暗く冷たい地下の穴へと一人で下りていった。


氷点下三十五度の外壁に隔てられたこの小さな砦で、彼らの命を懸けた、最後の三日間が始まった。

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