第一楽章10節
「食べ物が、底をついちゃったわね…。」
どこを見渡しても、彩られるのは砂塵。
花の丘までは、そう遠くはない。
一人ならば、何も気にすることはない。
だが、私には多くの家族がいる。
メルの花を咲かせる魔法ならば、空腹を満たすことはできる。
だが、栄養は無い。
今はまだ燃え盛る灯火も、花の丘にたどり着く前に潰えるだろう。
メルは、いつから何も口にしていない。
花を咲かせる魔法の煌めきも、この数日は淡くゆらめいている。
旅の最たる敵は、爪や牙ではなく、飢えと乾き。
それは、十分にわかっていた。
私の読みが、甘かった。
いや、私が駆れば、森まで暁を見るまでにたどり着くはず…。
「メル、まだ昼だが、今日はここで休もう。」
「わかったわ。テラ、…何かしようとしているのかしら。」
私は、メルの陽光に煌めく漆黒の髪を撫でる。
「メルは、本当に何でも知っているね。二度目の暁を見るまでには、戻るよ。」
メルの柔らかな腕が、私の背に温もりを彩る。
「気をつけてね…。まだ、クッキーが少しだけあるわ。テラは、ここ何日も食べていないでしょう。」
メルの指先を奏でる甘美が、私の唇に香る。
「メルこそ、何も口にしていないだろう。」
それを半分に折り、私は、メルの唇を彩った。
「テラ…、貴方は、いつも誰かを最初に守ろうとするわ。」
分かち合う甘美が、私たちに柔らかな旋律を注ぐ。
「でも、私は、一番に幸せになってほしいのは、テラよ。」
私は、メルが居ることが最も幸せなのだ。
その天使の歌声が、私の耳を撫でるたびに、私の脈動は讃美歌を奏でるのだ。
私は、聖剣を取り、メルに預ける。
「私が戻るまでの間、家族を守っていてくれ…。」
華奢な指が、その柄を優しく撫で、可憐な微笑みが、私を包む。
「テラ、貴方の魂と共に、その約束は必ず果たすわ。」
私は、踵を返し、森へと駆けた。
切れる息より、紡がれた笑顔が私に力を彩る。
クレマティスを撫でる指から、一間の安寧が私の体内を奏でる。
小さく囁く詩は、メルと家族。
思い返せば、既に私は、溢れるほどに多くのものを持っているのだ。
「私は、欲張り者だな…。」
そのどれも、一欠片さえも、手放したくない。
潜む爪を避ける様に足跡を残す小さな命。
彼らも、懸命に命を繋いでいる。
痛みなき様に縫う刃が、滴る夢に惑う。
私たちは、生きねばならぬ。
だが、彼らもまた、生きねばならぬ。
その鬩ぎ合いが、刃に重く響く。
どちらも守ることなど、ただの人間が欲することが烏滸がましいのだ。
何も、変わらない。
人族と魔族の歪みもまた、容易く触れていいものではない。
故に、共存もまた、奏でた指先から綻ぶ旋律。
だが、私は、欲張り者なのだ。
ただの人間であるが故に。
奪った小さな命に、弔いの詩を捧げる。
それは、青天に連なり、雲を流す。
陽光は、いつも、全てを彩る。
遠い地に彩る、愛する人もまた、その煌めきの元で、成すべきことを歌う。
「ぐぬぬ…。」
震える腕が、辛うじて柄を支える。
その鞘の重みでメルは、背を砂に彩る。
「私は、改めて、みなさんを尊敬します…。」
聖剣の砂を拭き取りながら、メルは小さく微笑んだ。
メルの肩に添えられた皺が、雫の伝う頬に笑みを彩る。
「魔王様、貴女に相応しい剣がございます。」
跪くオルタンシアの手には、小さな短剣が握られていた。
「オルタンシア、これは、貴方にとって命の様に大切なものではないのですか。」
メルの眼差しに、オルタンシアは目を伏せ、小さく微笑む。
「この剣の封を解くのは、初めてのはずですが…。魔王様は何でもお見通しですね…。」
柄をメルに掲げ、その瞳に、メルを捕える。
「銘は、ジプソフィル。我が子が私に贈った最初で最後の作品です。」
「…受け取れません。」
メルは、その柄を、指先で優しく撫でる。
「まだ、その刃は、貴方に寄り添いたいと歌っています。」
メルの笑みが、オルタンシアの頬に雨を咲かせる。
「その壮麗な刃と対話し、いつか、本当に託したいと思った時、私は魂を以て承ります…。」
メルはオルタンシアを支えながら、立ち上がり、小さく歌う。
「でも、時々貸していただけると、嬉しいわ。」
その笑顔の彩りは、砂に咲いた小さな花を揺らした。
メルの歌声が、聞こえた気がする。
青天には、柔らかな陽光が彩られている。
「早く戻ろう。」
両手に抱えた袋には、賜った命が咲いている。
森の外れに咲く花に、蜜を分けてもらい、身を潤す。
私は、ここへたどり着くよりも早く、家族の元へと駆けた。
拠点に戻り、火を起こす様に頼む。
私であれば、それに労する一間が要るが、魔族の持つ力は、それを刹那に叶える。
彼らには、人族のように、剣を鋭く担う力はない。
だが、火を焚べ、水に潤い、新緑を靡かせる力がある。
空を見る。
そこには、神が棲まうのだろう。
私は、疑うことなく祈りを捧げてきた。
それは、人族の願いであった。
そして、運命でもあった。
魔族を滅する。
今も、祈りは捧げている。
私は、今、魔族に助けられて、生きている。
共に生きたい。
それは、私の願い。
「おかえりなさい。」
私の背中を、メルの優しい吐息が撫でる。
振り返ると、砂に塗れたメルが微笑んでいた。
「ただいま。」
私は、メルを纏う砂を静かに拭う。
「うん。私も、ただいま。」
メルの華奢な指が、私の首筋を撫でる。
少し息を切らしているメルに、私は小さな疑問を囁いた。
「どこかに行っていたのかな。」
メルは、少し彩られた薄紅を隠すように俯く。
「行っていたというより、吹き飛ばされちゃったわ。」
私の心に困惑が咲き乱れる。
「何が…、あったの…。」
メルが、乱れた髪に手櫛を加えながら微笑む。
「好きなところへ行く魔法の練習をしていたの。…レーヌのように上手くできなくて。」
陽光が、メルの髪を煌めかせる。
「でも、たぶん、テラだけを連れて行くのなら、森まではひとっ飛びよ。うまく座標を掴めれば……だけれども…。」
まだ、その魔法に頼るのは、先にしておこう。
口からこぼれそうになった音色を、私は飲み込んだ。
少しずつ、一歩ずつ、私たちは近づいている。
あの日、再会を果たした花の丘へと。
私たちの目には、もう彩られている。
遠くに咲き乱れる、黄色のアルストロメリアが…。




