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スペクルム カノン  作者: うさぎサボテン
第七章 水鏡が示す真実 後編
86/200

2.

 蝉の大合唱が既に始まった午前10時。やる気漲る太陽の下、華音はいつもに増して人通りの少ない道を一冊の本を携えて歩いていた。

 頭上からも十分に熱せられた地面からも、ムンムンと熱が伝わってきて生命を維持しているだけでも苦痛だった。

 華音は電柱の陰に入って足を止め、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。こんな日にでも身に付けている七分袖のパーカーが肌に貼り付いていて気持ちが悪かった。

 本を見つめ、ちょっぴり数分前の己の浅はかな判断に後悔した。


(そこまで遠くないし、図書館まで歩いていけばいいか……って、オレ馬鹿なの? もう真夏だよ? 何で20分も外を出歩こうと思った?)


 振り返ってみても、ゆらゆら蜃気楼。半分近く歩いてきて、戻るなんて今更だ。

 人通りが少ない――――否、全くないのも当然で、こんな無謀な事をしている冒険者は華音1人だけだった。

 パタパタと微風が吹き、横髪が白い頬を掠めた。気温が高いので熱を孕んでいるが、少しばかり涼しくて心地良かった。

 横を見れば、そこには青みがかった烏が羽ばたきを繰り返していた。


「ゴルゴ、扇いでくれてるのか? ありがとう」


 美しいサファイアブルーの瞳からは感情は窺えないが、主に礼を言われて嬉しそうにしている様に思えた。

 ゴルゴのおかげで少しだけ、気持ちも体温も落ち着いた。

 華音が目的地へ向かって歩き出すと、ゴルゴも隣を羽ばたいてついていく。

 前方のカーブミラーに自分の姿が映し出され、華音は抱えている本の内容を思い出した。

 愛した女に鏡像をあげてしまう男の話だった。

 華音にとっての鏡像は華音自身の時もあれば、別次元のオズワルドの時もある。もし、この本の様に鏡像をなくすのなら、どっちなのだろうと不思議に思った。

 そもそも、オズワルドが鏡面に現れる仕組みが華音はよく分かっていない。スペクルムにある魔法鏡を介して接触しているらしいが、リアルムの鏡は至って普通でどれでも効果は同じだ。鏡と言うよりも、窓の様なものなのかもしれない。

 青々とした街路樹が立ち並ぶ歩道を進むと、目の前に歩道橋が見えて来た。この辺りは横断歩道がないので、向こうへ渡るにはこれを利用するしか安全な道はない。

 腰が大きく曲がったお婆さんが階段をゆっくりと上っているのを見、華音は少しでも苦痛だと思った自分が恥ずかしくなった。サッとお婆さんに駆け寄り、重たそうな手荷物を持ってあげた。


「ちょっとそこまでお持ちしますよ」

「おや、まあ。ありがとうね」


 お婆さんは顔を上げ、皺だらけの顔に更に皺を作った。

 ゴルゴはこの時には空気を読んで消えていた。

 華音はお婆さんと足取りを合わせて、ゆっくりと階段を上っていく。


「親切な人もいるもんだねぇ。あなた、とても綺麗だから王子様が現れたのかと思っちゃったわぁ」

「いえ、そんな事ないですよ。今日は特に暑いですね」

「そうねぇ」


 下り階段になると、お婆さんがハッと思い出した様に語り出した。


「そういえば、あなたは鏡崎くんに似ているわねぇ。その綺麗な姿と言い、親切なところと言い……」

「えっと……? オレ、鏡崎ですけど」

「おや、まあ! じゃあ、あなたは音夜くんの息子さんかい?」

「はい。音夜はオレの父です。お婆さんは父の事をご存知で?」


 有名企業の前社長だから知っていてもおかしくはないのだが、お婆さんは社長としての鏡崎音夜の事を言っている訳ではなかった。


「私ね、20年以上前にこの辺りで喫茶店を営んでいてね。鏡崎くんはよく学校帰りにパフェを食べに来てくれていたのよぉ」

「へぇ。そういや父さん甘いもの好きだったな」

「大学を卒業して親御さんの会社を継いで社長になってからも時々来てくれてたんだけどねぇ……。まさか、あんなに早くに亡くなるなんて」

「そう、ですね……」


 華音の表情が少し陰った。


「ああ! ごめんなさいね……あなたにとっても悲しい出来事だったわよね」

「あ……。いいんです。オレの方こそごめんなさい」


 華音が顔を上げるとお婆さんが悲観に満ちた表情をしていて驚いた。

 お婆さんは表情を少しだけ和らげると、最後の一段をゆっくりと下りた。


「でも、鏡崎くんの息子さんに逢えて良かったわぁ。神様が導いて下さったのかしら。ねえ、あなたのお名前は?」

「華音です」

「かのん……もしかして、(はな)(おと)と書くのかしら?」

「はい。女の子みたいですよね……」

「素敵じゃない! 音夜くんと華織さん、2人の名前が入ってるなんて」

「え? そういえばそうだ……。あんまり気にした事なかったです」


 名前がどうしても好きになれなくて、そんな単純な事にさえ気付く事が出来なかった。それに、父と母。どっちが名付けたのか、その由来は……など、1度も訊いた事がなかった。訊ける筈がなかった。


「母の事もご存知なんですね」


 有名企業の現社長だから……と思ったが、これもまた違った。

 お婆さんは懐かしそうな顔で頷いた。


「いつからか、鏡崎くんが綺麗な女の子を連れてお店に来る様になったのよぉ。それが華織さんだったの。パフェを食べる鏡崎くんの横で華織さんがブレンドコーヒーを済ました顔で飲む光景は、すっごく印象的で忘れられないわぁ」

「あぁ……想像出来ます」

「ふふ。もう喫茶店は畳んでしまったけれど、今度華織さんと一緒に私の家に是非遊びに来てちょうだい」

「はい。きっと」


 またゆっくりと歩き出したお婆さんの後を華音はついて行く。

 街道沿いを進み左へ曲がったところで、目的地と同じ方角である事に気付きお婆さんの自宅へ着く頃には視線の先に一際大きな建造物が見えた。あれこそ、華音が目指していた図書館だ。

 お婆さんと別れ、華音は図書館の敷地内に足を踏み入れた。

 広大な敷地を青々とした樹木が囲い、中央には扇形に広がる階段がドーム状の巨大建造物へと続いている。

 果てしなく思える道程も踊り場の噴水が和らげてくれ、最近ではバリアフリーを取り入れて階段横にスロープが設置されていた。

 先月本を借りに来た時は今日の様に階段を上る事に対して全く苦痛はなかった。

 いつの間にか季節は移ろい、また新たな季節を迎える為の準備を進めていた。

 華音は噴水ではしゃぐ子供達を横目に、正面の自動扉を潜った。

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