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スペクルム カノン  作者: うさぎサボテン
第六章 水鏡が示す真実 前編
74/200

5.

 一通り修学旅行の予定を確認し終えると、今日の授業は終了した。ホームルームと清掃を終え、華音は親友達と下校した。

 雷とはいつも通り校門で別れ、刃と他愛ない会話をしながら歩く。


「修学旅行は沖縄かー。楽しみだなぁ」


 刃は、何処までも青い空を見上げてこれから来るであろう未来に想いを馳せる。

 それについては、華音も同感だった。3年生になったら進学や就職で忙しくなるし、こうしてのんびり過ごせるのも今のうちだけだ。


「料理もきっと美味しいだろうね。ていうか、刃の両親の実家って沖縄じゃなかったか?」

「違う。全然違うよ~かがみん。俺の父親は青森、母親は岩手だよ」

「あ、そうだったな」

「沖縄って言ったら海きれーだし、絶対泳ぎたい! な?」

「えーっと……貝殻拾いも悪くないと思うよ」

「貝殻拾いって! 東京なんかより断然綺麗な海だぜ? かがみんも泳いだら……」


 刃は華音の横顔を見てハッとした。目鼻立ちが整っていて綺麗だが、そこに憂いが潜んでいたからだ。本人は無理に隠そうと笑っているが、それがかえって逆効果となり、刃の心を揺らした。

 そう言えば……と、刃は思い出す。


 ――――そういや、この前、風牙が悪ふざけで鏡崎の服脱がせようとしてさ、怒られたんだよ。そりゃ当たり前なんだろうけど、あの怒り方は異常だったな。まるで、何か見られちゃいけないものでもあるみたいだった。もしかして……なんだが。


 いつかの雷の言葉だ。

 もし本当にそうならば、華音に水着を着せる訳にはいかない。

 刃は不自然な程明るく笑った。


「いいよな! 貝殻拾い。えーっと確か、柄もっちゃんも見学組だよなー。あの娘も大人しめで可愛いし、親交を深めるのもありだなっ」


 親友の突然の変わりように、華音はきょとんとする。


「え? あ、うん」


 その後も、刃の修学旅行トークは続いた。いつもならアニメトーク全開であるが、それを全く出さない辺り、修学旅行が楽しみで脳内が溢れかえっている様子だ。

 いつも別れを告げる道に到着した。此処で別れようとしたのだが、刃は己の進むべき方向を見て眉根を寄せた。


「事故だな」と、刃の肩越しに見た光景に華音がそう言った。


 そこでは1台の自動車に、別の自動車が真横から突っ込んだ状態で道を塞いでおり、運転手と思われる男性2人が激しく口論を繰り広げていた。

 遠くからサイレンの音が聞こえる。警察が到着したとしても、双方血の気が多く一歩も譲りそうもなく、また、道も譲ってくれそうにもなかった。

 刃は諦め、華音が1人で歩く道を本日は2人で歩く事にした。


「たまには遠回りも……って、せっかくだし、かがみんもちょっと一緒に遠回りしよーぜ」

「うん。いいよ」


 刃の足が向く方へ、華音は足取り揃えて歩いて行く。

 このまま真っ直ぐ行けば華音の自宅、と言う所で左側の細い道へ入った。沢山の民家が立ち並ぶが、その合間からも鏡崎家の邸宅が見えた。

 これは道に迷わないな……と、刃は親友の横顔を見て密かに思った。

 やがて、閑静な住宅街を抜けると、木々に囲まれた自然豊かな公園が見えてきた。近付くにつれ、2人の顔が懐かしさに綻んだ。

 ブランコやシーソーや滑り台に砂場は勿論の事、大きなドーム状のトンネルがよく目立つこの辺りでは子供やお年寄りの憩いの場となっている広大な公園だ。

 あんなに青かった空は鈍色に染まり、埃っぽいニオイを孕んだ生温かく不快な風が通り過ぎていくが、華音と刃の意識は数年前のあの日の中にあった。

 母からの暴力を受けた華音は、鈍い痛みを絶えず訴える両足を必死に動かして公園内のドームトンネルに逃げ込んだ。

 雷とボール遊びの出来る広い場所を求め公園内へやって来た刃は、急な雨を凌ぐ為にドームトンネルに逃げ込んだ。

 華音、刃、雷の始まりはここからだった。

 この偶然の出逢いが現在(いま)に繋がっているのだ。

 華音は意識を目の前に戻し、現在(いま)の幸せを噛み締める様に呟いた。


「……懐かしいな」

「この年で公園で遊ぶ事ねーもんな」

「確かにね。って、あれ?」

「どうした?」

「……いや、何でも」

「ふぅん?」


 火災現場突入の際に立ち寄って以来、改めてしっかりと見た遊具が元通りになっている事だ。火災現場に取り残された子供の救出の事で頭が一杯で、あの時既に修復していた事に気付けなかった。

 いつかの半月の夜、オズワルドを憑依させた華音は当時敵対していたアルナと此処で激闘を繰り広げた。その時の被害は結構なものだった筈だが……。

 あれから数週間経つ為、修復されていてもおかしくはないが、そもそも騒ぎにならなかったのが不思議だ。ついこの間の遊園地での事も、未だ大きなニュースになっていない。

 少し熱を帯びてきた華音の頭を冷やす様に、頭上からひんやりとした雫がポツポツと降ってきた。


「雨?」

「かがみん、やべーぞ!」


 華音が呑気に天へ手の平を向けていると、隣で刃が鞄を頭に乗せてわたわたし始めた。

 気付いた時には、雨は余裕で視認出来る程度になっていて一気に景色を白へ染め上げた。

 これにはさすがに華音も慌て、2人で一切の迷いなくドームトンネルへ逃げ込んだ。




「うわー……結構濡れた」


 華音は制服が肌にピッタリ貼り付く不快感に眉を潜めた。


「かがみんがトロいからだろー。俺まで濡れちゃったしー」


 刃も不愉快な顔で、しっとりとした癖毛の金髪を手ぐしで整える。


「さっきまであんなに晴れてたのに。あー……教科書とノート大丈夫かな」

「俺も借りた漫画が心配」


 2人して、脇に置いた色濃くなった紺色の鞄を漁った。

 同時に確認し終え、安堵の笑みを交わした。鞄の中身は無事だった。

 2人は数年前よりだいぶ近くなった天面を見上げ、激しく打ち付ける雨音に耳を傾けた。

 記憶の中に存在するこの場所も、それに誤りがあったかの様に違って見える。あの頃はもっと広く、秘密基地の様な特別感があったのに。

 今では圧迫感と息苦しさしか感じられないが、記憶が届けてくれた懐かしさがいくらか軽減してくれて一時の安らぎを得る事が出来た。


「……あのさ、華音」


 雨音と2人分の呼吸音が響くトンネル内で、刃の独り言の様な小さな声はよく響いた。

 声色から伝わる先と違う親友の様子に、華音は漆黒の瞳を瞬かせてその横顔をしっかりと見た。


「あの頃は何も知らなくて……。その……ドジだとか、泣き虫だとか、バカにしてごめん……」

「何だよ、いきなり。……話がよく分からない」


 華音は分からないフリをしてみせたが、構わず刃は真剣な顔で続けた。


「お前の家庭の事は知らないけど、この年になって何となくだけど分かったんだ。……今は大丈夫なんだよな?」


 華音は再び、分からないと言ってやり過ごそうとしたのだが、未だに向けられた親友の真摯な眼差しに嘘はつけなかった為、実際にその言葉が口から出る事はなかった。

 数秒して、華音はすっかり重たくなった口を微かに開いた。


「大丈夫。母さんが家に帰る事自体殆どないし、最近は少しずつだけど許せる様になったんだ」

「そうか……」

「でも、ずっと今でも消えないんだ」

「身体の傷か?」

「知ってたんだ。隠してたのに」

「だからだよ。華音は嘘つくのが上手いからな。でも、さすがにこうも上手すぎると嘘っぽく見えるって言うか……」


 いつの間にか昔の呼び名に戻っていたが、華音が訂正する事は一切なかった。違和感がなく、すっかり馴染んでいた。

 華音は両膝を抱え、目を伏せた。


「ちょっとしたものじゃないから、見たら必ず皆訊いてくるんだよね。何があったの? って。答える度にその時の事を思い出したくなかったし、同情も向けられたくなかった。……話すって約束したから刃には話すけど、小学校中学年の頃オレは母さんに虐待を受けていたんだ。テストで満点を採れなかったり、忘れ物したり……とにかく、どんな小さなミスでも許してもらえなかったよ」

「あぁ……だから」


 優等生なのか。刃はこの時、漸く鏡崎華音と言う人物を知れた気がした。


「熱湯を背中にかけられた事を最後に、母さんが暴力をふるってくる事はなくなった。同時に、家政婦を雇って自分自身は家に殆ど帰らなくなったんだ……まるで、オレから逃げる様に。その時の火傷痕が今でも、背中に残っているんだ。結構酷くてさ、たとえ親友にも見せられないよ。それにさ、虐待されていた事実を晒す訳にはいかないんだ。母さんは有名企業の社長なんだから。父さんが大切にし、母さんに託したそれを潰す訳にはいかないから」

「お前って頭いいけど馬鹿だよな。そんな重たいもん、今まで独りで抱えて生きて。ホント呆れるぐらい優しくて強がりなんだな」

「うん。桜花にも同じ事言われた」

「は? 桜花ちゃん?」


 刃はきょとんとした。


「そう、桜花だよ。成り行きで、同じ事を桜花に話したんだ。本当は、刃や雷を優先するべきだったんだけどね」


 そう語る華音の頬はほんのりと赤く色づき、心底幸せそうだった。

 刃は柔らかい笑みを浮かべた。


「そっか。本気で好きなんだな……桜花ちゃんの事」

「ああ。オレは桜花が好きだ」

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