第四話 初めての買い物
翌朝、私は食卓の上に並べた品物を前に、途方に暮れていた。
硬くなりかけたパンが二切れ。神殿から持たされた干し肉が少し。それから、昨日マーラの店で買った小さな焼き菓子が一つ。
食べ物と呼べるものは、それですべてだった。
「今日の朝食には足りるけれど……」
昼には、何を食べればよいのだろう。
夕食は。明日の朝は。
神殿にいた頃は、決められた時間になると食堂へ行くだけでよかった。何を食べるのかも、どれほど用意するのかも、すべて誰かが考えてくれていた。
一人で暮らすためには、食べるより先に、食べ物を用意しなければならない。
当たり前のことなのに、今まで考えたこともなかった。
私は干し肉を薄く切り、パンに挟んで食べた。味は悪くない。けれど、昨日の木苺のタルトを思い出すと、少しだけ寂しく感じる。
「毎日、甘いものばかり食べるわけにはいかないものね」
自分へ言い聞かせてから、ふと首を傾げた。
毎日食べてはいけないと、誰かに言われたわけではない。それでも、甘いものは控えるものだという考えが、すっかり身についている。
食べたい時には、食べてもよい。
昨日、アスランはそう教えてくれた。
とはいえ、木苺のタルトだけで暮らすわけにもいかないだろう。まずは、日々の食事に必要なものを買わなければならない。
私は机の上に紙を広げた。
『パン』
『野菜』
『肉』
そこまで書いて、手が止まる。
野菜とは、何を買えばよいのだろう。肉は、一度にどれくらい必要なのか。
神殿の食卓には、季節に応じた料理が毎日並んでいた。けれど、その料理に何が使われているのか、細かく考えたことはなかった。
悩んだ末に、買い物の紙へ一行書き足す。
『そのほか、必要なもの』
あまり役には立たない一覧になってしまった。
約束の時刻になると、玄関を叩く音がした。
扉を開けると、アスランが大きな籠を片手に立っていた。朝の風に、少し長めの黒い前髪が揺れている。
「おはようございます」
「おはよう。準備はできたか?」
「はい。必要なものも書き出しました」
私は少し誇らしい気持ちで紙を差し出した。アスランはそれを受け取り、上から順に目を通す。
「パン、野菜、肉……」
「はい」
「そのほか、必要なものは?」
「とりあえず、思いついたのはそれだけです」
アスランが紙から顔を上げた。
「間違ってはいない」
「役に立ちそうですか?」
「店へ行ってから考えるという意思は伝わる」
褒められてはいないようだった。
けれど、否定もされていない。
「何日分を買うつもり?」
「一週間分です」
「料理は?」
「……料理をしたことがありません」
「なら、調理しなくても食べられるものも必要だな」
アスランは紙の余白へ、いくつかの言葉を書き加えた。
卵。乳酪。果物。保存の利くスープ。焼くだけで食べられる薄切りの肉。
「野菜も、日持ちするものと、早く食べるものを分けた方がいい」
「野菜には、それほど違いがあるのですか?」
「かなりある。葉物を一週間分まとめて買うと、後半は悲しいことになる」
「悲しいこと……」
「萎れる」
何か恐ろしいことが起きるのかと思った。
「では、葉物は少なくいたします」
「その方がいい」
二人で家を出る。
市場へ近づくにつれ、通りは人で賑わっていった。籠を抱えた女性、木箱を運ぶ商人、焼きたてのパンを店先へ並べる職人。魚を売る声や、値段を交渉する声が、あちらこちらから聞こえてくる。
王都の市場を、馬車の中から眺めたことはある。けれど、自分で買い物をするために歩くのは初めてだった。
「すごい人ですね」
「今日はまだ少ない方だ」
「これで、ですか?」
「湖魚が多く揚がった日は、もう少し騒がしい」
入口近くのパン屋から、香ばしい匂いが漂ってくる。
店先には、丸いパンや細長いパン、木の実を練り込んだものまで並んでいた。
「パンにも、こんなに種類があるのですね」
「柔らかいものは早めに食べる。硬いものは日持ちする。どれがいい?」
私は真剣にパンを見比べた。
「こちらの丸いものが、おいしそうです」
「なら、それにすればいい」
「ですが、日持ちするものの方が、暮らしには適しているのでは?」
「一つずつ買ってもいい」
「二つ選んでもよいのですか?」
「必要なら」
どちらか一つを、正しく選ばなければならないと思っていた。
けれど、違うものを一つずつ試すという選び方もあるらしい。
「では、丸いパンと、こちらの硬いパンを一つずつお願いします」
店主へ伝えると、彼は笑顔で紙袋へ包んでくれた。
「お嬢さん、初めて見る顔だね。うちの木の実パンもおいしいよ」
「木の実のパン……」
「滋養もある。三つくらいでどうだい?」
私は並べられたパンを見る。木の実がたくさん入っていて、確かに体によさそうだった。
「では、三つ――」
「一つでいい」
隣からアスランの声がした。
「けれど、店主は三つと」
「三つ売りたいんだろう」
「滋養があるそうです」
「一つでも滋養はある」
店主が声を上げて笑った。
「さすがナディール商会の息子だ。相変わらず厳しいねえ」
「必要なら、次の時に買う」
「はいはい。では、一つおまけしておこう」
紙袋へ、木の実のパンが二つ入れられる。
「よろしいのですか?」
「美人のお嬢さんが初めて買ってくれた記念だ」
「それは、ありがとうございます」
すぐに礼を言えたことが、少し嬉しかった。
けれど店を離れてから、私はアスランを見上げる。
「三つ買ってはいけなかったのですか?」
「悪くはない。ただ、食べたこともないのに三つはいらない」
「おいしくなかった時に、困るからですか?」
「それもある。気に入ったら、また来ればいい」
昨日の木苺のタルトと同じだった。
一度ですべてを手に入れなくてもよい。
また来て、もう一度選ぶことができる。
「少しずつ試すのですね」
「そういう買い方もある」
次に、野菜を売る店へ向かった。
色鮮やかな野菜が、木箱いっぱいに積まれている。赤い根菜、丸い玉ねぎ、土のついたじゃがいも、瑞々しい葉物。
私は先ほど教えられたことを思い出し、慎重に品物を見た。
「おや、お嬢さん。一人暮らしかい?」
店主の女性が気さくに尋ねる。
「はい。一週間分の野菜を買いたいと思っています」
「それなら、これくらい必要だよ」
そう言って示されたのは、両腕で抱えるほどの大きな籠だった。
じゃがいもが十数個。玉ねぎも同じくらい。人参の束に、大きな葉物が三つ。さらに豆や根菜まで入っている。
「これで一週間分でしょうか」
「健康のためには、野菜をたくさん食べた方がいいからね」
「では、いただきます」
「待て待て」
私が財布を出すより先に、アスランが籠を押さえた。
「これは一月分に近い」
「そんなに?」
私は籠を見た。
確かに多い気はする。けれど一週間というものが、食事の量にするとどのくらいなのか、私には分からない。
「こんなにはいらない」
「店主に勧められたので。健康のためには、たくさん食べた方がよいと」
「商人としては正しい。客に親切かどうかは別だな」
「嫌だねえ。ナディール家の前では商売ができないよ」
店主は悪びれもせず笑っている。
「何を買えばいいのか分からないと言うから、多めに見せただけさ。いらないものは戻してくれて構わないよ」
アスランは籠の中から、野菜を一つずつ取り出した。
「じゃがいもは四つ。玉ねぎは二つ。人参は二本。葉物は一つ。これくらいでいいな」
「それだけで足りるのですか?」
「今週は料理をしないだろう。多くても使い切れない」
「ですが、急に料理ができるようになるかもしれません」
アスランの手が止まった。
店主もこちらを見る。
私は何かおかしなことを言ったのだろうか。
「……可能性がないとは言い切れないね」
店主が、もっともらしい顔で頷く。
「そうだな」
アスランも真面目な顔で同意した。
「だが、急に料理ができるようになってから買い足せばいい」
「なるほど」
私が納得したところで、店主が堪えきれないように笑い出した。
「あんたたち、おもしろいねえ」
「私は真剣に話しております」
「それが、おもしろいんだよ」
どういう意味か分からなかったが、悪く言われたわけではなさそうだった。
選び直した野菜を受け取り、代金を払う。
店を離れたところで、アスランは籠の中から玉ねぎを一つ取り出した。
「ここを見て」
「はい」
「皮が乾いていて、触った時に硬いものを選ぶ。柔らかいところがあるものは避けた方がいい」
「形が綺麗なものがよいのではありませんか?」
「多少不揃いでも、味は変わらない。それより、傷んでいないかを見る」
じゃがいもは芽の出ていないもの。葉物は、葉の先まで瑞々しいもの。果物は、すぐに食べるなら熟したもの。数日置くなら、少し硬いもの。
教えてもらうことは、いくつもあった。
私は忘れないよう、買い物の紙の裏へ書き留める。
「全部覚えるつもりか?」
「次は一人で選べるようになりたいので」
「一度で全部覚えなくても大丈夫だ」
「ですが、また間違えてしまいます」
「間違えたら、それを次に生かせばいい」
アスランは籠を持ち直した。
「買い物は試験じゃない」
その言葉に、書き留めていた手が止まる。
神殿で学んでいた頃は、何をするにも正しい答えがあった。祈りの言葉も、礼の角度も、笑う場面も。
一度教わったことを間違えれば、努力が足りないと反省した。
けれど、買い物には一つだけの正しい答えがあるわけではないらしい。
食べる量も、好みも、その日の気分も、人によって違う。
「試験では、ないのですね」
「ああ。失敗しても、野菜が少し余るくらいだ」
「腐らせてしまうかもしれません」
「そうなる前に食べる方法を考えればいい。無理なら誰かに分ける」
失敗したら、終わりではない。
その後で、できることを考えればよい。
そう思うと、籠の中の野菜が少しだけ親しみやすく見えた。
肉屋では、さらに悩むことになった。
「こちらの肉を、一週間分いただけますか」
「一人分かい?」
「はい」
「なら、これくらいだね」
店主は大きな塊を取り出した。
私は先ほどの野菜を思い出し、すぐには頷かなかった。
「アスランさん」
「多い」
「やっぱり」
少しだけ見分けられたことが、嬉しい。
「半分でも多い。三分の一でいい」
「それでは少なすぎませんか?」
「毎食、肉だけを食べるつもりなら足りない」
「お肉だけを食べるつもりはありません」
「なら足りる」
薄切りの肉と、日持ちする燻製肉を少しずつ買う。店主に勧められた香辛料入りの腸詰めも、まずは一本だけにした。
「こちらも滋養がありますか?」
「滋養より、味が濃い」
アスランが答える。
「では、味を楽しむものなのですね」
「そうだな。少しずつ切って、パンと食べるといい」
気づけば籠の中には、パン、野菜、肉、卵、乳酪、果物が収まっていた。
最初に勧められた量より、ずっと少ない。それでも、私一人では持ち上げるのが難しいほどの重さだった。
「一週間に、これほど食べるのですね」
「全部一人で食べなくてもいい。足りなければ買い足す」
「余ったら?」
「保存できるものは次の週へ回す」
必要な量を、一度で完璧に当てなくてもよい。
足りなければ足す。余れば、後に回す。
暮らすということは、決めた通りに進めることではなく、その都度、加減していくことなのかもしれない。
市場の出口へ向かう途中、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
小さな屋台で、焼きたての平たいパンが売られている。上には、薄く切った果物の砂糖煮が艶やかに載っていた。
私は足を止めた。
「また見てる」
「見ただけです」
「食べたい?」
昨日と同じ問いだった。
けれど、今日は答えを知っている。
「はい。食べてみたいです」
「なら、買おう」
「ですが、今日は買い物をしただけで、まだ働いてはいません」
「理由はいらないんじゃなかったか?」
そう言われ、私は目を瞬いた。
昨日、教えてもらったばかりなのに、もう忘れかけていた。
「そうでした」
果物の砂糖煮が載ったものを一つ買い、半分に切ってもらう。
アスランと分けて食べると、温かいパンへ甘い果汁が染み込んでいた。
「おいしいです」
「甘すぎないか?」
「いいえ。果物が少し酸っぱいので、ちょうどよいです」
「なら、よかった」
私はもう一口食べてから、隣のアスランを見る。
「アスランさんは、おいしいですか?」
「ああ、うまい」
「よかったです」
「あなたが作ったわけじゃないけど」
「それでも、一緒に選んだものがおいしいと、嬉しいです」
アスランは返事をせず、わずかに目を逸らした。
その横顔は、なぜか照れているように見えた。
けれど、尋ねてはいけない気がして、私は残りのパンを食べた。
家へ戻ると、アスランは買ったものを食卓へ並べた。
私は紙とペンを持ち、教えられた保存方法を書き留める。
「卵は涼しい場所。乳酪は布で包む。肉は、今日食べる分以外には塩を少し振っておく」
「はい」
「葉物は先に食べる。じゃがいもと玉ねぎは暗い場所」
「一緒に入れてよいのですか?」
「籠は分けた方がいい」
台所の棚へ、一つずつ収めていく。
空だった棚に食べ物が並ぶと、家の中へ少しだけ生活の気配が生まれた。
「これで、一週間は暮らせますか?」
「たぶんな」
「たぶん、なのですか?」
「食べる量は人によって違う。あなたがどれくらい食べるのか、俺には分からない」
「神殿では、決められた量を食べていました」
「足りてた?」
尋ねられ、すぐには答えられなかった。
食事を残したことはない。もっと欲しいと言ったこともない。
けれど、それが自分にちょうどよい量だったのかは、考えたことがなかった。
「……分かりません」
「なら、これから分かるな」
アスランは、空になった籠を手に取った。
「足りなければ、次は多く買えばいい。余るなら減らす」
簡単なことのように言う。
けれど今の私には、その言葉がとても大切に思えた。
知らないことが多い。
市場では、勧められるまま一月分の野菜を買いそうになった。肉の量も、保存方法も分からなかった。
何も知らない自分が、急に恥ずかしくなる。
「私は、二十年も生きてきたのに……一人分の食事さえ分からないのですね」
俯いた私へ、アスランはすぐに慰めの言葉をかけなかった。
「今まで知る必要がなかったからだろう」
「それでも、皆さんが普通にできることです」
「皆が最初から知っていたわけじゃない」
「ですが――」
言いかけて、私は口を閉じた。
できないのではない。
知らなかったのだ。
そして今日、一つずつ教えてもらった。
次は、玉ねぎの選び方も分かる。一週間分の野菜が、両腕いっぱいの籠では多すぎることも知っている。
私は顔を上げた。
「そうですね。今まで知らなかっただけです」
自分へ言い聞かせるように、ゆっくり口にする。
「これから一つずつ、覚えます」
アスランの金色の瞳が、わずかに柔らかくなる。
「ああ。それでいい」
夕方。
アスランが帰ったあと、私は買ったばかりのパンと乳酪、果物を食卓へ並べた。
自分で選び、自分で代金を払った食事。
豪華なものではない。
けれど、不思議と昨日までの干し肉より、おいしそうに見えた。
丸いパンを半分に割り、乳酪を挟む。一口食べると、パンは柔らかく、乳酪にはほどよい塩気があった。
「おいしい」
誰もいない部屋で、自然に声が出た。
次に、果物へ手を伸ばす。アスランに教えられた通り、少し熟したものを今日食べることにした。
甘い果汁が、口の中へ広がる。
私は一人で、食卓に座っている。
それでも、店主たちの声や市場の賑わい、アスランと分けた甘いパンを思い出すと、昨日までとは少し違って感じられた。
食べ終えたあと、反省ノートを開く。
『今日は、野菜を一月分買いそうになりました』
書いてから、その下へ続ける。
『けれど、一週間分の買い物をすることができました』
少し考え、さらに一行加えた。
『知らないことは、これから覚えます』
書き終えた文字を見つめる。
できなかったことだけではなく、できたことも書いた。
反省ノートなのに、少しだけ誇らしい。
私は、机の端に置いた買い物の紙を手に取った。
表には、パン、野菜、肉。
裏には、野菜の選び方や保存方法。
その一番下へ、新しく書き加えた。
『果物の砂糖煮を載せた、温かいパンもおいしかった』
昨日より、自分の好きなものが一つ増えた。




