第三話 木苺のタルト
リーベルへ来てから、五日が過ぎた。
私は午前中を図書館で過ごし、午後になると街を歩くようになった。
最初は、家と図書館を往復するだけで精いっぱいだった。けれど、湖沿いの道をまっすぐ進めば市場があり、花の飾られた角を曲がれば家へ戻れることも、少しずつ覚えてきた。
まだ一人では入れない店も多い。窓の向こうに並ぶ品物を眺めても、何をどのように頼めばよいのか分からない。
それでも、知らないものを見ることは楽しかった。
図書館の児童閲覧室へ入ると、すでに子どもたちが待っていた。
「オリビアお姉さん!」
「今日は竜のお話だよ!」
「悪い竜だから、怖く読んでね!」
先日、悪い魔女を演じて以来、私はすっかり恐ろしい役を任されるようになってしまった。
「竜は人ではありません。どのような声を出せばよいのでしょう」
「大きい声!」
「がおーって言うの!」
「火を吐きそうな声!」
それぞれの意見を聞いても、ますます分からなくなる。
私は渡された本を開き、黒い竜の絵を見つめた。
「ひとまず、やってみます」
大きく息を吸い、できるだけ低い声を作る。
「この山へ足を踏み入れた者は、誰であろうと――」
「もっと大きく!」
「まだ人みたい!」
「がおーは?」
子どもたちから、容赦のない指摘が飛んでくる。
「台詞の途中で『がおー』と申すのですか?」
「言って!」
「絶対おもしろいから!」
おもしろさを求められている時点で、恐ろしい竜からは遠ざかっている気がする。
それでも私は、もう一度本へ目を落とした。
「この山へ足を踏み入れた者は、誰であろうと食べてしまうぞ。がおー!」
部屋の中が、一瞬だけ静かになった。
やはり間違えたのだろうか。不安になって顔を上げると、子どもたちが一斉に笑い出した。
「言った!」
「竜が『がおー』って言った!」
「もう一回!」
どうやら、これでよかったらしい。
私もつられて笑いそうになり、慌てて口元を引き締める。けれど、一度浮かんだ笑みは、なかなか消えてくれなかった。
物語を読み終えると、一人の女の子が私の膝へ身を寄せた。
「オリビアお姉さんのお話、好き」
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
「ありがとうございます。ですが、私はまだ不慣れで、竜の声も上手ではありませんでした」
「好きって言っただけだよ」
女の子が不思議そうに首を傾げた。
「上手かどうかは言ってないよ?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。
褒められたと思った瞬間、反射的に自分の至らないところを探してしまった。
神殿では、どれだけ祈りが美しいと言われても、
『まだ修練が足りません』
と答えるよう教えられていた。謙虚でいることが、正しい振る舞いだとされていたからだ。
けれど、この子は私の技量を評価したのではない。
ただ、好きだと言ってくれた。
「……そうですね」
どう答えればよいのだろう。
迷っていると、少し離れた書架のそばから声がした。
「ありがとうでいい」
振り返ると、アスランが返却された本を抱えて立っていた。
「ありがとう、ですか?」
「好きだと言われて嬉しかったなら」
アスランは本を棚へ戻しながら答える。
「相手は、あなたに反省してほしいわけじゃない」
私はもう一度、女の子を見た。期待するような顔で、こちらを見上げている。
「……ありがとうございます」
そう伝えると、女の子は嬉しそうに笑った。
「明日も読んでね!」
「はい」
たった一言だった。
けれど、自分を否定せずに褒め言葉を受け取ることは、思っていたよりも勇気が必要だった。
子どもたちが帰ったあと、私は椅子を片づけながらアスランへ尋ねた。
「褒めていただいた時は、いつでも『ありがとう』でよいのでしょうか」
「嫌でなければ」
「嫌ではありません。ただ、受け入れてしまうと、自分を優れていると思っているように見えませんか?」
「好きだと言われて喜ぶことと、自分は誰より優れていると思うことは別だ」
アスランは積み上げた本を持ち上げる。
「難しく考えすぎなくていい」
「それが、なかなか難しいのです」
「知ってる」
思わず彼を見る。
アスランは一度口を閉じ、それから言い直した。
「……そう見える」
以前、ほどほどでよいと言ったことを覚えていたらしい。私は小さく笑った。
「今の『知ってる』は、気になりませんでした」
「基準が難しいな」
「私も、まだ分かりません」
「なら、一緒に覚えるしかない」
あまりに自然に言われ、胸がわずかに高鳴った。
けれど、何に驚いたのかは分からなかった。
その日の午後、図書館の裏手にある植物園へ案内してもらった。
園内には、湖の周辺に咲く花や薬草が植えられている。入口の花壇で作業をしていた女性が、私たちに気づいて顔を上げた。
「あら、アスラン。今日は綺麗な方と一緒なのね」
明るい茶色の髪を一つにまとめた、快活そうな女性だった。
「図書館を手伝っているオリビアさんだ」
「知っているわ。悪い魔女の声がとても上手な方でしょう?」
「どうして、そのことを……」
「弟が昨日から何度も真似しているの。『鍋で煮込んでやろう』って」
どうやら、子どもたちの間で広まってしまったらしい。
私が恥ずかしさに俯くと、女性は楽しそうに笑った。
「私はセリア。ここで植物の世話をしているの。よろしくね、オリビアさん」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「その髪、とても綺麗ね。月霞草がよく似合いそう」
「ありがとうございます。ですが、お手入れをしてくださっていた方のおかげで――」
そこまで言って、先ほどのことを思い出す。私は一度、息を整えた。
「……ありがとうございます」
言い直すと、セリアはにっこり笑った。
「どういたしまして」
隣で、アスランがわずかに頷いた。合っていると認めてもらえたようで、少し嬉しくなる。
セリアは花壇から淡い紫色の小さな花を一輪摘み、私へ差し出した。
「これが月霞草。夕方になると、花びらが少し銀色に見えるのよ」
壊さないように、そっと受け取る。
「本当に、月の光を集めたようですね」
「気に入った?」
「はい。とても綺麗です」
「なら、持って帰って。水に挿しておけば、数日は咲いているわ」
「いただいてもよいのですか?」
「私があげたいの」
誰かの好意を、理由もなく受け取る。
それも、私にはまだ慣れないことだった。けれど今度は、迷いすぎる前に答えられた。
「ありがとうございます。大切にいたします」
植物園を出る頃には、午後の日差しが少し柔らかくなっていた。
アスランは隣を歩きながら、私の手にある月霞草へ視線を落とす。
「似合ってる」
「花が、ですか?」
「あなたに」
不意に言われ、足が止まりそうになった。
胸の奥が落ち着かない。また否定しなければという気持ちと、先ほど教わった言葉が同時に浮かぶ。
「……ありがとうございます」
なんとか答えると、アスランは前を向いた。けれど、金色の瞳が少しだけ細められたように見えた。
「上達が早い」
「今のは、練習だったのですか?」
「違う」
すぐに否定される。
「似合うと思ったから言った」
「そう、ですか」
それ以上、何と返せばよいのか分からない。
私は月霞草を持つ手に、少しだけ力を込めた。
しばらく歩いたところで、甘い香りが風に乗ってきた。
焼いた小麦と砂糖、それから果物のような香り。道の先には、淡い緑色の庇を出した小さな店があった。
窓辺には菓子が並び、丸い看板には茶器の絵が描かれている。
私は無意識に足を緩めた。
「気になるのか?」
アスランに尋ねられ、慌てて前を向く。
「いいえ。そのようなつもりでは」
「見てただろう?」
「香りがしたので、何の店かと思っただけです」
「カフェだ。マーラという女性がやっている」
「カフェ……」
言葉は知っていた。王都にも、貴族の令嬢たちが集う店がある。
けれど、私は入ったことがなかった。
外で好きな飲み物や菓子を注文し、会話を楽しむ場所。聖女には、あまり必要のない場所だった。
「入ってみるか?」
「私が、ですか?」
「他に誰がいる?」
「ですが、特別な用事もありません」
「菓子を食べるのに、特別な用事が必要なのか?」
私は答えられなかった。
甘いものは、祝祭や儀式など、特別な日に出されるものだった。何もない日に食べるという発想がなかったのだ。
「今日、図書館で働いた。植物園にも行った。それで十分だろ」
アスランが言う。
「それは、菓子を食べる理由になるのですか?」
「食べたいなら、それだけでいい」
アスランは店の窓へ視線を向けた。
「よく働いた日の褒美にするのも悪くない」
食べたいというだけで、選んでもよい。
頑張った自分へ、褒美をあげてもよい。
胸の奥がかすかに揺れる。私はもう一度、店の窓を見た。
色とりどりの焼き菓子が並んでいる。
「……入ってみたいです」
「分かった」
アスランはそれだけ言って、店の扉を開けた。小さな鈴が、軽やかな音を立てる。
「いらっしゃいませ――って、アスランじゃない」
店の奥から、ふくよかな女性が現れた。
「珍しいわね。女性を連れてくるなんて」
「マーラ、余計なことは言わなくていい」
「あら。まだ何も言っていないでしょう?」
女性は楽しそうに笑い、私へ顔を向けた。
「ようこそ。私はマーラ。この店で一番おいしいものを作っているわ」
「すべてお一人で作られているのですか?」
「夫も手伝うけれど、味を決めるのは私よ。だから、一番おいしいものを作るのは私」
堂々とした言い方に驚いていると、マーラは胸を張った。
「自分の作ったものくらい、自分で褒めてもいいでしょう?」
「……そういう考え方もあるのですね」
「自分で自分を褒めるのは大事よ。お嬢さんも、これから覚えればいいの」
最近、よく聞く言葉だ。
知らないことは、これから覚えればいい。
その言葉は、私の中へ少しずつ根を下ろしているようだった。
窓際の席へ座り、卓上の品書きを開く。
飲み物だけでも何種類もある。菓子に至っては、名前から味を想像できないものも多かった。
「好きなものを選んで」
向かいの席へ座ったアスランが言う。
「私が選んでよいのですか?」
「俺の分まで決めたいなら、それでもいい」
「それは困ります。アスランさんが何を召し上がりたいのか分かりません」
「なら、自分の分は自分で選んで」
もっともな答えだった。
けれど、好きなものと言われても、自分が何を好きなのか分からない。私は真剣に品書きを読み込んだ。
「温かいミルクティー、蜂蜜茶、果実水……こちらの香草茶は、どのような効能があるのでしょう」
「体に悪くはないと思うが、効能を気にして選ぶ必要はない」
「飲み物は、効能で選ばないのですか?」
「ああ。味で選んで楽しんでもいい」
選択肢が一つ増え、余計に悩んでしまう。
その時、マーラが菓子を載せた大きな盆を運んできた。
「決まらないなら、見て選ぶといいわ」
焼き色のついたパイ。蜂蜜をかけた小さな焼き菓子。白いクリームを挟んだもの。
そして、赤い実がたっぷり載ったタルト。
それを見た瞬間、息が止まった。
「木苺……」
幼い頃、神殿で年に数回だけ出された菓子。
薄い生地の上に、甘酸っぱい木苺と、少しだけ甘いクリームが載っていた。祝祭の日の朝から、私は密かにそれを楽しみにしていた。
けれど、好きだと口にしたことはない。
聖女が食べ物へ執着するのは、慎みに欠けると思っていたからだ。
「木苺のタルトにする?」
マーラに尋ねられる。
すぐに頷きかけて、私は戸惑った。
「ほかのお菓子を知らないまま決めても、よいのでしょうか」
「全部を知らなくても、食べてみたいものを選べばいいのよ」
マーラの言葉は、とても簡単だった。
私はもう一度、木苺のタルトを見る。赤い実が艶やかに輝いている。
「では、こちらをお願いいたします」
「飲み物は?」
「温かいミルクティーを」
「いい組み合わせね」
褒められたような気がして、胸が少し弾んだ。
アスランは蜂蜜入りの茶と、木の実を使った焼き菓子を頼んだ。
「木苺のタルトが好きなのか?」
「分かりません」
「分からない?」
「聖女だった頃、特別な日にだけ出されていました。食べられる日は、朝から少し嬉しかったのです」
「それなら、好きなんじゃないか?」
「ですが、自分から欲しいと願ったことはありません」
アスランは、少し考えるように私を見る。
「願わなかったことと、好きじゃないことは別だと思う」
ほどなくして、木苺のタルトが運ばれてきた。
赤い実の上に、細かな砂糖が雪のようにかかっている。
私は小さなフォークを手に取り、先端をそっと入れた。一口分を口へ運ぶ。
最初に木苺の甘酸っぱさが広がり、そのあとに、なめらかなクリームと香ばしい生地の味が追いかけてきた。
「……おいしいです」
思わず声がこぼれた。
神殿で食べたものより、ずっと甘い。木苺の酸味も濃く、口の中が華やかになる。
もう一口食べる。今度は、少し多めにクリームを載せた。
「こちらも、おいしいです」
「顔を見れば分かる」
「そんなに出ていますか?」
頬へ手を当てると、アスランは少し笑った。
「かなり」
「気をつけた方がよいでしょうか」
「なぜ?」
「食べ物に夢中になっているように見えるのは、あまり上品では……」
「ここは王宮の夜会じゃない」
アスランは、自分の茶へ手を伸ばす。
「おいしい時くらい、おいしそうに食べればいい」
マーラも近くの席を片づけながら頷いた。
「作った側としても、その方が嬉しいわ」
「そうなのですか?」
「もちろん。無表情で食べられたら、味が悪かったのかと思うもの。お客さんが嬉しそうにしてくれたら、作ってよかったと思うわ」
私はタルトへ目を落とした。
おいしいと感じることを、隠さなくてもよい。
むしろ、喜んでくれる人がいる。
そのことが不思議で、嬉しかった。
一口ずつ、大切に食べる。けれど、最後の一口になった時、少しだけ寂しくなった。
もう、なくなってしまう。
そう思った自分に気づき、私は目を瞬いた。
「どうした?」
アスランが尋ねる。
「最後の一口なので、少し惜しいと思いました」
「また食べに来ればいい」
「また?」
「特別な日じゃなくても、ここへ来れば食べられる」
そんな当たり前のことを、私は知らなかった。
好きなものは、一度きりではない。
自分で選び、また食べに来てもよい。
私は最後の一口をゆっくり味わい、フォークを置いた。
「私、木苺のタルトが好きです」
口にしてみる。
それは、とても小さな言葉だった。
けれど、自分の中に長く隠れていたものへ、初めて名前をつけた気がした。
アスランが静かに頷く。
「覚えておく」
「アスランさんがですか?」
「忘れそうだから」
「ふふ。私は忘れません」
「なら、俺が覚えていても困らないだろ」
困りはしない。
むしろ、なぜか嬉しかった。
「……はい」
店を出ると、湖から涼しい風が吹いてきた。
アスランの短い黒髪が風に揺れ、少し長めの前髪が額へ落ちる。彼は気にする様子もなく、私の歩調に合わせて隣を歩いた。
家へ戻ったあと、私は月霞草を小さな花瓶へ挿した。
淡い紫色の花が、夕暮れの光を受けて銀色に見える。
机へ向かい、反省ノートを開く。
今日は、竜の声を上手に出せなかった。褒められた時、すぐにありがとうと言えなかった。カフェの品書きを選ぶのに、長い時間をかけてしまった。
書こうと思えば、反省することはいくつもあった。
けれど、ペン先は自然と余白へ向かった。
『木苺のタルトがおいしかった』
そこまで書き、少し考える。
それから、その下へ続けた。
『私は、木苺のタルトが好きです』
同じ言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
好き。
たった二文字なのに、胸の奥が温かくなった。
自分の好きなものを知ることは、自分を知ることなのかもしれない。
私はノートを閉じず、その二行をしばらく眺めていた。




