第2話 からかいの彼女
その日の晩のこと、僕は夢中で既視感のある空間に飛ばされ、そこにはこれまた既視感のある少女がいた。少女は僕に満面の笑みでこう告げた。
「現実で、金咲唯花と会えたみたいね。」
「えぇ、会えましたよ。結構突然でしたけどね……。」
「……優斗君、言葉を発せるの。」
「それより、今日、僕が唯花さんと出会ったことも、唯花さんが見た夢も、全てあなたの仕業ですか?」
「あなたって……私も唯花なのに。」
夢の少女は金咲唯花その人だった。どうも現実の彼女とは別人格なようだが、僕は文字通りこの世界が夢物語であるからだと、容易に納得することができた。彼女は僕の質問を笑って受け流しこう語った。
「……私、仕業って日本語は嫌いよ。ある意味これだって運命なのに。」
「ある意味がどんな意味なのか、小一時間問い詰めたいんですけど……。」
「まだ小一時間で済むのは、優斗君の温情かしらね。」
彼女は常に笑顔を絶やさなかった。笑顔は彼女の専売特許であり、僕が夢の全貌を思い出すトリガーでもあった。彼女はその笑顔を保って僕に忠言してきた。
「……私が優斗君に伝えたいことはね、金咲唯花を『ゼッタイ』に裏切らないでほしいっていうことよ。」
「僕が唯花さんの悲しむような、下劣な行いをするとお思いで……?」
「人間の本質なんて、自分自身にも分からないんだから、私に分かるわけないわ。信用云々じゃなくて心配なだけよ。」
「……唯花さんは、僕の妄想なんですか?」
「優斗君はいつも前置きなく、変なことを尋ねるわね。……ずっと、そうだったのね。」
「ど、どういうことですか……?」
「ううん、なんでもないの。ひとまず、私は妄想かもしれないし、妄想じゃないかもしれないわ。ここで断言はできないけど、必ずどちらかではあるわ。」
僕は唐突なのはお互い様だと指摘したくなる衝動を抑え、次に彼女の回答になっていない回答に、歯痒さを感じるのだった。
「……優斗君、金咲唯花を『ゼッタイ』に幸せにするのよ。私との約束、破ったら呪っちゃうからね。……じゃあね、バイバイ。」
「ま、待って! あ、あなたは……」
夢の記憶はそこで途絶えてしまった。別れ際の彼女は類稀なことに、少し切なげな笑みを浮かべているのだった。
現実の彼女は、夢の彼女と意識を共有していないし、況して現実の彼女は、恐らく夢の彼女の存在を知らない。
彼女が熱願したことは、僕と自分が結ばれて欲しいと表明しているに等しかった。僕のどこに惚れ惚れする要素があるのか、仮説すら立てることは叶わなかった。
屁理屈すら生じないこの現象が、僕の頭に靄をかけた。ただ一つ確実なことは、彼女に呪われることもまた、一種の幸福だということだけだった……。
4月9日、今日は彼女の提案で、直接夢の情報交換を行うことにした。
向かった先は、神保町にある彼女イチオシのカフェで、若者ウケするであろう、洒落た内装をしていた。客層は専ら大学生を中心とした若年層の女性であり、店内に数多ある観葉植物が、僕の場違い感を主張していた。
彼女はいつも通りの髪型に、茶色のワンピースを装っていた。そんな僕との構図は、もはやデートの様相を呈している。
インスタントでない珈琲の味に心落ち着かせる僕に対して、彼女は唐突にこんな一言を発してきた。
「優斗君に惚れてみようと思うの。理由は分からないけど……私ね、少し優斗君に魅了されている気がするのよ。」
僕は口に含んだ珈琲を、喉奥のやけどを代償に吹き出す一歩手前で抑えた。
夢でも現実でも、彼女の一言はいつも唐突がすぎる。色恋との縁が皆無な僕にとって、あの文言は刺激が強すぎた。
「き、急になに言い出すんですか!」
「先に惚れると思うって宣言したのは、どこの誰だったかしら。」
「それは……紛うことなき僕ですけど。」
「もちろん、無理だったら無理って断るんだけどね。」
「その暁には僕、自暴自棄になる思います。」
「それはやめなさい。でも、不思議よね。私たちは面識がないはずなのに、私の記憶には優斗君が存在したなんて……。」
「僕だって不思議に思っています。だって、夢に散々現れてきた女性が、いま僕の前にいるんですよ……。」
「嬉しい?」
「嬉しくないはずがないですよ……。ここまで生きた自分を褒め称えたいぐらいです。」
そう回答しつつ、肩身を狭くしながら珈琲を啜っていると彼女はこう質問をしてきた。
「……そんなに私に惚れそうなの?」
「えぇ、もちろん。」
「それはどうして?」
僕は彼女に、一年前から昨晩までに観た夢の顛末を語った。この間、彼女が目線を逸らすことは一切無く、たまに頷いてはそれっぽい相槌を打ってくるのだった。僕は最後に話をこう締めくくった。
「……だから現実でも、そりゃあ惚れます。」
「それって夢に出てきた私の幻影を、ただ私に照らし合わせているだけじゃないの?」
僕は彼女の説に反論できなかった。夢と現世の二人が同一人物だと答えたのも夢中での話で、単なる僕の妄想に過ぎないだろう。僕は先輩に苦し紛れの一言を告げた。
「……でも事実、唯花さんは綺麗ですよ。」
「軽々しく綺麗とか言わないの……。あと、唯花さん呼びは止めて。恥ずかしいから。」
「一番フォーマルだと思うんですけど……。」
僕にはある程度変人だという自覚がある。だが、彼女も僕に負けず劣らずな変人だと察した。僕は変人同士なら結ばれるかも……なんてくだらない妄想を働かせた。
「……そしたら僕は、唯花さんをなんと呼べばいいんですか?」
「簡単よ。『唯花』って呼べばいいの。」
簡単とは労力の少ない単純な事柄を指す。そもそも論、僕は女性を呼び捨てで呼んだ試しがない。かねてより一種の禁忌事項だと思っている節がある。
ましてや、先輩であり恩人であり秀麗であるこの女性を呼び捨てしてしまっては、何かの法に抵触するのではないかとさえ考えた。
「いや……流石に難しいものがあります。」
「あーあ。それだと私、冷めちゃうなぁ。さっき私が無理なら無理って断る、って言ったとき、優斗、顔色を失っていたようだけど、それでもいいのかしら?」
「『優斗』って……僕をからかっているんですか?」
「もし、からかってみたって言ったら?」
「……惚れが加速すると思います。」
「なによそれ……。」
彼女は小刻みに身体を動かし、必死に笑いを堪えようとする。彼女はなにをしても煌びやかで、実はこれも夢中なのではと、僕を錯覚させるのだった。
やがて僕は、彼女を呼び捨てすることが、彼女の幸せの一部分と化すならと思い、十五年で培った勇気を振り絞り、こう言い放つのだった。
「……唯花。」
「よくできました。」
僕はなんだか、保育士にあやされているようにも思ったが、実態としては最上級の幸を享受していた。
珈琲が六割なくなった頃、先輩は僕にこう語り掛けた。
「……さっき惚れてみるって言ったのはね、昔観た夢の中で目の前の人を想えって言われたからなの。」
「……なんか、僕もそんな感じの謳い文句で諭されました。まぁ、ネットを調べ尽くしましたが、この現象に名前はないみたいですけど……。」
「分からないものを考えても無駄ね。ひとまずいまは、目の前の冷め切った珈琲でも飲んで落ち着きましょ。」
「……それが賢明ですね。」
一応ブラックで嗜んでいるはずなのに、この珈琲からは、栗の甘露煮に近い甘味を感じた。場違いながらも、僕はこの環境を、人一倍堪能しているのだった。




