思い出
老婆は、ずっと昔、彼女がまだ少女と呼ばれていた頃のことを思い返した。
それは、雨季も終わりに近い、曇った日のこと。少女は、木の実を集めに疎林に入った。気が付けば彼女は、見渡す限り広がる草原の中にいた。自分の村がどちらにあるのか、この曇天では解りそうにない。
不安げに辺りを見回した彼女は、地平線の近く、サバナが砂漠へと変わり始めるあたりに、「何か」を見つけた。
彼女はあまり視力の高いほうではなかったから、それに近づいて何であるか確かめようとした。あわよくば旅商人にでも道を教えてもらえるのではないかと思ったのだ。
彼女がそれに向けて足を踏み出したその時、背後から声が響いた。
「行くな。それ以上、あれの方へ進んではいけない」
妙にくぐもった、男の声だった。
「あなたは、だれ」
「……俺が誰であろうと、君には関係のないことだ。俺がいいと言うまで、目を瞑っていてくれ」
「そんなことを言われて、大人しく従うものですか」
そう言って彼女は、声のした方を振り返った。
「おっと、すまないけれど、君に俺の姿を見せるわけにはいかないないんだ」
声の主は、少女が振り返るその一瞬に、彼女の背後へと動いた。何度振り返っても、それは同じだった。
「どうして」
「どうしても。さあ、頼むから目を瞑ってくれ」
「しかたないなぁ」
声の主は、優しい手つきで少女を背に負ぶった。人ひとりを背負っていることを感じさせない軽やかな足取りで、彼は草原を駆けていく。その背中には、なにかが欠けているかのように少女は感じた。人に背負われた時、自分の目の前にあるはずの、なにかが……
気になってつい目を開きそうになって、慌てて首を振る。一度目を瞑ると言った、それなのに目を開くことは、彼女にはできなかった。
「ところで、君の村はどこにあるかわかるかい」
「……わからない」
「そうか、これも何かの縁だ。どうにかして君を村へ送ろう」
「どうして。私を奴隷商にでも売り飛ばした方が、あなたにとってはずっと得でしょ?」
「俺が、そんな奴に見えるか」
「だって、あなたの姿、見れてないじゃない」
「ハハ、そうだな。……君を見ていて、古い友人のことを思い出したから、かな」
「古い、お友達?」
「そう……ああ、日が暮れてしまいそうだ。曇夜に矢鱈と走り回ったところで、道に迷ってしまう。そうだな、そこの木の下で夜明けを待とうか」
草原にぽつんと立つ大木の下に、男は老婆を下ろした。
「よし、目を開けていいぞ」
男は大木の、少女から見た反対側に隠れたのだろう。少女には自分が、真っ暗な世界にたった一人のように感じられた。
なぜだか、涙が込み上げてきた。
「うぅっ、うっ、ふぐぅっ……」
袖で涙をぬぐう。けれども、嗚咽は収まろうとしなかった。
そっと、肩に手が置かれた。ためらうような、優しい手が。
少女は、涙を誤魔化すように、男に話しかけた。
「私を見ていると古いお友達を思い出す、ってどういうこと?」
背後で、息を呑む声が聞こえた。
「……君は信じてはくれないかも知れない、今から何千年も昔、この世界が創られて百年も経たない頃のこと。君と俺が会ったあそこから更に北に、“ブレムミュアエ”の村があった。……」
彼の語る友情の物語は、少女を惹きつけて離さなかった。気が付けば、涙は止まっていた。
「君は、かならず故郷へ戻れるさ。俺の言えたことじゃ無いが……安心してくれ」
「ありがとう。……ガデニヤさん」
彼の話が、彼自身のそれだと、少女は感じた。
彼の返事はなかった。
翌朝。前夜と打って変わり、空は晴れ渡っていた。
「最寄りの村まで、南東へ走って五時間だ。そこへ行こう」
目を瞑った少女は、やはり姿を見せようとしない男に負ぶわれた。
彼の背中に身を預け、気がつけば少女は心地よい揺れに微睡んでいた。
夢の中で彼女は、不思議なものを見た。それが何か、彼女には最初まったく分からなかった。
それは、彼女になにかを伝えようとしているらしかった。もはや具体的な形を持たない、はるかな古の記憶だった。
その意味をようやく理解したまさにその時、彼女は揺り起こされた。
「着いたぞ、地平線に薄っすら見える、あれが例の村だ。俺が今まで見ていた限り、彼らは来訪者に寛容だ。今から君を地面に降ろすから、十を数えてから目を開けて、まっすぐ村へ歩いてくれ」
「あなたは来ないの?」
「……ああ、すまないが、俺は行けないんだ」
「どうして、あなたが普通の人と違う姿だから?」
「……俺は、人と関わってはならない、そういう定めなんだ。……そうだ、これから、旅が長くなって、泣きたい夜があったら……」
男の声が一瞬途切れ、少女の手にごつごつとしたなにかが握らされた。
「これでも見て、君を待っている人のことを思い出してくれ」
少女は、目を開いた。彼女の手に握られていたのは、木片から粗く削りだされた人形。
そしてやはり、男には、首がなかった。
目の前にあるべきものが欠けていると、彼女が感じていた通りに。
「あ、目を閉じていろと……」
「いいえ。首がなくとも、あなたは恐ろしい怪物なんかじゃない。私を助けてくれた。親切なガデニヤさんよ」
「……ありがとう。そう言ってくれたのは、君がはじめてだ。……さあ、もう行きなさい」
「ええ」
少女は、ガデニヤの背から降り、草原の地面に立った。
粗末な衣を纏ったガデニヤには、首がなかった。上衣を肌けた胸元には、目や口が実に醜いかたちに並んでいた。
「そうだ、最後に、君の名前を訊いてもいいか」
おそるおそる尋ねた彼に、少女は答える。
「ヒミツ。けどね、私のご先祖さまは、奴隷として遠くの国で売られてから一代で富を築き、故郷に戻って村を作ったそうよ。そのご先祖さまのお名前はね……やっぱり、言わない。きっとあなたが、一番よく知っている人よ。あなたのお話、私がお婆ちゃんに聞いたのとそっくりだったもの。……あの夢も、きっとご先祖さまが見せてくれたのね」
ガデニヤは、立ち尽くした。彼はずっと、そこにいた。
少女は、ガデニヤに微笑みかけた。
「ありがとう。私を助けてくれて。きっと、遠い遠いご先祖さまも喜んでいるわ」
そう言って彼女は、遠くに薄っすらと見える村へと、一歩を踏み出した。
数歩を進んでから振り返った。
そこにはただ、草原が、どこまでもどこまでも広がっていた。
老婆がふと傍らに目をやると、少女は安らかな表情で、すっかり夢の世界に入ってしまっていた。
老婆がガデニヤに送られて辿り着いたのは、故郷からそう遠くない村だった。
村へ戻ってしばらく後、彼女は、ガデニヤと出会った草原へ行こうとした。しかし、大木から先へと進むことは、彼女にはできなかった。
少女は成人し、子供ができ、子供が成人し、孫ができ、老婆と呼ばれるようになった。慌ただしい日々の中で、ガデニヤのことも、彼にもらった人形のことも、思い出すことは減っていった。
それなのにどうして、自分は、孫に彼の物語を聞かせたのだろうか。老婆はふと思った。ガデニヤとハタティナの、哀しい友情の物語を、将来へと語り継ぐことができるのは、自分しかいない。近い将来、自分が旅立ってしまえば、この物語は、この世界から忘れ去られてしまう。ガデニヤはきっと、もう二度と人前に現れないだろう、そう老婆は確信していた。
あの日の感動を、忘れたくなかった、それが、何十年も記憶の奥底に眠っていた物語が彼女の口をついて出てきた、理由なのだろうか。
ふと老婆は、家の窓を開け放った。
天の頂点に、月が白く輝いていた。
ኃጢአተኛ(ḫat’ī’ātenya):アムハラ語で「罪人」
ጓደኛ(gwadenya):アムハラ語で「友人」
patatina:イタリア語で「ジャガイモ」




