黒竜の咆哮
2話完結です。
テントの中で毛布にくるまってスヤスヤ寝ている少年に気を配りながら、アイーシャはそっとテントを出た。
テントの外に広がる満天の星の輝きに思わず手を伸ばす。
星が掴めそうなくらい近い気がする。
こんな星空を見上げたのは、何年ぶりだろうか。
この一年はカフェの開店準備で王都の知り合いに声を掛けたり、なかなか客足が伸びないカフェの宣伝のため祭りに出店したりと慌ただしく、あっという間に一年が経ってしまった。最近になってようやく常連客もつき、経営が軌道に乗ってきたところだ。
更にその前は、国全体が戦いの爪痕の中で、アイーシャも魔導士としての力を請われるまま国の復興のために使い、無我夢中で生きてきた。
まさに星空を見上げる余裕すらなかった。
ぼーっと星空を見上げて、これまでの生活を振り返る。しかし、ある思いに気づき、アイーシャは苦笑した。
忙しい理由は沢山ある。だが、それだけでこんなに余裕のない日々だったのか?
何かを考える余裕もないくらいに忙しくなりたかったではないか。
「あれから7年か」
静寂の中に小さな呟きがもれた。
突然、背に電流が走ったかのように、アイーシャはびくりとして後ろを振り返った。暗闇を鋭く睥睨し、詠唱を始める。
次の瞬間、鋼鉄をも切り裂く風刃がアイーシャの白い手から放たれる。鋭く見据える先で、風は闇に飲み込まれた。静寂が戻ってくる。
ほんの一瞬、視線を感じた気がした。
それは僅かな違和感だった。
ただの冒険者なら気づかない、または気づいても気のせいかと思えるような感覚。そういう感覚を信じて行動してきた。だからこそ今ここに、アイーシャは立っている。
アイーシャが素早く詠唱した魔法は、空振りに終わったようだった。
それを確認するため、暗闇に向けてゆっくり歩き出す。
星明かりだけの仄暗い夜の山道を、迷いない足取りで進む。
しばらく歩いた先で警戒しつつ違和感の主を探したが、先ほど感じた気配は全くなくなっていた。
違和感を感じたことさえも、気のせいかと思える何もなさであったが、それでもアイーシャの不審感は消えなかった。
テントの前まで戻り、もう一度用心深く辺りを見回す。何の気配も感じない。
ほうっと息を吐くと、アイーシャの目の前で真っ白い空気が、闇の中に立ち昇っていった。
「おはようございます、アイーシャさん。」
「おはよう、ジョスリーくん。」
すでに起きて、テントの外で朝食の準備をしていたジョスリーの近くまで来て、アイーシャはその手元を覗き込んだ。
「干し肉と乾パンと果物ね。お水はあるかな?」
「はい、どうぞ。」
ジョスリーが水筒を渡すと、アイーシャはテントに戻り、折り畳み式のカップを手に戻ってきた。
「寒いから、あったかいお茶を作ろうと思って。」
「え、でも火を起こしたら、グリフォンに気づかれるのでは?」
昨日、ジョスリーに山に入ってからの注意事項として話したことの一つが、山では火を焚かないということだ。
山に入ったら、もうグリフォンの縄張りだ。木に隠れながら登っても、火を起こせば煙が登って、グリフォンに気がつかれてしまう。
そのことをジョスリーに注意したが、彼はちゃんと覚えていたようだ。
「大丈夫。」
にっこり笑ってカップに水を注ぎ、アイーシャは両手でカップを包んだ。
瞬きする間に湯気が上がる。
唖然としているジョスリーの前で、アイーシャはもう一つのカップも手で包み込み、あっという間にカップの中の水を温めた。
「すごいですね。」
「簡単な魔法よ。」
なんでもないことのようにアイーシャは言った。二つのカップに携帯茶葉をポンと入れて、その一つをジョスリーに渡す。
詠唱なしに魔法を使うのはほとんど反則行為だということを知らないジョスリーは、目をキラキラさせながら「魔法って便利ですね」と嬉しそうに温かい飲み物を受け取った。
「ここから先は、木も生えていない。岩の陰に隠れながら進みましょう。」
中腹からさらに登り、景色が変わってきた。
防寒着を着ていても、冷たい空気に息が凍るようだ。
「雪が残ってますね。」
嬉しそうにジョスリーは新雪のような真っ白な雪を踏みしめた。
「青露草も残っているはずですよね。」
「そうね。これだけ寒ければ、咲いていてもおかしくないわね。」
ジョスリーは青い花を見逃すまいと、周りを見渡しながら足を速めた。
「ジョスリー、ここはもうグリフォンの巣の近くだから、私から離れないで。」アイーシャがジョスリーに向けて注意する。
「はい。あっ!」
ジョスリーがいきなり駆け出した。
と同時にアイーシャが、ジョスリーに向けて叫ぶ。
「ジョスリー、止まりなさい!」
ジョスリーの頭を目掛けて急降下してきた大きな鳥に向けて、アイーシャの手から炎の矢が放たれた。
何本もの燃え盛る矢を避けたグリフォンが、再び上空に舞い戻り鋭い鳴き声をあげた。
ジョスリーは足がすくんでいた。
アイーシャは、天を舞うグリフォンを視界から離さず、慎重にジョスリーに近づこうとした。
「アイーシャさん!」
突然、ジョスリーの前の切り立った崖からグリフォンが現れた。
ジョスリーを鋭い鉤爪で捕まえようとする。
咄嗟にアイーシャが鉤爪を氷魔法で凍らせ、次に風の刃を放った。
風刃が当たる寸前に、大きな羽ばたきの音と共に暴風がアイーシャとジョスリーに襲いかかる。
鉤爪を凍らせたグリフォンの背後に一際大きなグリフォンが現れた。
空を舞っていたグリフォンは相変わらず天空にいる。
グリフォンが三体?
番いかと思ったが、鉤爪を振るったグリフォンは他の二体より小柄だ。子どもを育てるファミリーかも知れない。
厄介だな、とアイーシャは思った。
おそらく、子どもに狩りの経験を積ませようと親グリフォンが見張っているのだろう。
子どもを守る親が手強いのは、魔物も一緒だ。
アイーシャはグリフォンを刺激しないよう、ジリジリとジョスリーに近づいた。
青褪めた顔でジョスリーは、今にも襲い掛かりそうなどう猛な気配を漂わせている仔グリフォンから目が離せないでいた。
その時、大きな影がアイーシャとジョスリーに被さる様に、よぎった。
ピキュィアーーーーー
仔の側にいたグリフォンが、鋭い警告を発した。鉤爪でジョスリーを掴もうとしていたグリフォンの仔がその声に動きを止める。
テンペラ山の上空を我が物として悠々と飛んでいたもう一体のグリフォンが続けて鳴き声をあげ、影の主から逃げる様に羽ばたいた。
太陽を遮り、空を覆うように闇が広がったかのような錯覚をした。
一瞬のうちに天空の覇者が交替する。
「黒竜?」
かつて戦った魔王を、アイーシャは思い出した。
魔王は漆黒の竜だった。
竜は人と関わらず、自然の摂理の中で孤高に生きている。
しかし、魔王となった竜は、ほんの気まぐれから飢饉で救いを求める村人に竜の力を分け与え、救われた人々は竜神として竜を崇めた。やがて巨大な力を持つ竜に自然の脅威から守ってもらおうと、人々は生贄を捧げ始める。
それは悲劇の始まりだった。人身御供となり殺された人や家族は竜を呪い、老いて力の弱まった竜を負の感情で蝕んでいった。
黒竜は人々の勝手な願いや恨みによって魔に堕ちた。そして、竜は魔王となった。
魔王討伐の旅の途中に立ち寄った村の古い伝承から竜の悲劇を知った勇者が、その時静かに泣いたのをアイーシャは見ていた。
彼は魔王との戦いで、相打ちになった。
今、見ている竜も、魔王と同じ黒竜だ。
アイーシャに緊張が走った。黒竜は竜の中でも最強と言われ、その攻撃はグリフォンの何十倍もの威力になる。
竜の脅威からジョスリーを守らなければと、アイーシャは彼の元へ走った。
仔グリフォンが駆けてくるアイーシャに向けて、威嚇の声を出す。だが、それに構っている場合では、もはやなかった。竜のブレスが放たれれば、全ての生き物を無に帰す超高温の焔がここ一帯を焼き尽くす。
グリフォンだとて、それから逃れるすべはない。それをわかっているだろう親グリフォンは、最早、人間など見ていない。
隙を見て、ジョスリーがグリフォンから距離を取ろうとした。仔グリフォンがその動きに反応し、鉤爪がジョスリーの背中を抉ろうとする。
ジョスリーを守るため、魔法を繰り出そうとアイーシャが身構えた瞬間、竜が吠えた。
全ての生き物が、竜の威圧に身動きが取れなくなる。
アイーシャは時が止まったかのような空間で、一番の脅威である竜を見た。
竜は空を制覇し、悠々と山頂の近くを飛んでいた。
ふと、目が合った気がした。
底知れぬ叡智を目の奥に感じると同時になぜか懐かしさを感じた。
かつてアイーシャが知っていた、人々を、動物達を、生きとし生けるもの全てを慈しみ、魔に堕ちた竜をも救いたいと願った彼の目が、なぜか思い浮かんだ。
なぜか、彼を感じた。
「あ、アイーシャさん、グリフォンが!」
刻が動き出した。
ハッとしてジョスリーを見ると、対峙していたグリフォン達が羽を広げている。咄嗟に風刃を繰り出そうとしたが、グリフォンはこちらを見もせず、飛び去った。
「いなくなった?」
ヘタリと座り込んで、ジョスリーが首を傾げた。
「あ、竜も去って行きます。」
「えっ」
気付くと竜は彼方へと飛び去っていた。
「あの竜はなんだったんでしょう。まるで、助けてくれたかのような。」
「そうね、…そうかも知れない。」
不思議だった。
魔王と同じ姿の竜。
そして、その竜は魔王と共にいなくなった彼と同じ目をしていた。
どうして、と呟く声が頭の中に響く。それ以上、考えることは怖いと思った。
「アイーシャさん、あの崖に青露草が咲いているんです。」
ジョスリーが、何もいなくなった空を無言で仰ぎ見続けるアイーシャに、遠慮がちに声を掛けた。指した指の先に、青い花が集まって咲いている場所がある。
行っていいかと、目で訴えている。
「…慎重にね。」
アイーシャは一歩踏み出した。
「それでこのタルトはどうしたんじゃ?」
「ジョスリーが必要なのは、青露草の花の蜜だけでしょう。」
「まあ、蜜が突発性魔力アレルギーの薬になるからな。」
「そう、それで蜜以外は本当は要らないんだけれど、花弁も多少はアレルギー予防に効果があると言われているから、乾燥させて銀高木の花と一緒にお茶にしてみたのですよ。」
「ふむ。」
月の剣亭での昼下がり、カウンターのいつもの席で暖かいお茶を一口飲み、デルタは目を細めた。
「それがこのお茶というわけじゃな。いや、だがタルトの説明にはなっとらんぞ。」
「それはもうじき…、来たわ。」
カランカランとドアが開く音がした。
「誰じゃ?」
デスタが入り口のドアを振り返る。
「こんにちは。」
快活な声がアイーシャとデスタに向けて飛んできた。
「おお、坊主か。久しいのう。」
「はい、デルタさん、おひさしぶりです。」
「ジョスリー、もう仕事の方はいいの?」
「今日は早番でしたので、大丈夫です。」
ジョスリーと交互に挨拶を交わしながら、二人はジョスリーの後ろにぴたりとくっ付いている犬族の女の子を、紹介しろと目で促した。
「妹のイスルーです。ほら、お礼をちゃんと言って。」
お兄ちゃんらしく、少し厳しい口調で言って、妹を前に出した。
(怖く言っても顔がにこにこしてるから、全然怖くないわね。)
(妹を見る目が優しすぎて、兄の威厳は全くないのう。)
二人は同じようなことを考え、仲睦まじい兄妹に微笑んだ。
「イスルーちゃんがこのタルトを発案したのよね。」
「はい。」
小さな声で、兄の足にぎゅっと掴まりながら小さな女の子が応えた。
「その、お花で何か出来ないかと思って、シスターにも相談して…」
か細い声で、たどたどしくも自分で一生懸命答えようとする妹に、兄が頭をポンポンと叩いた。
「アイーシャさんが一緒に青露草を採りに行ってくれたから、妹は助かったんです。イスルーは自分でも何かお礼をしたいとシスターにも相談したみたいで。」
孤児院のある教会では、シスター達が作って売っているお菓子やパンは孤児院の運営資金になっている。
子どもたちも手伝っているが、その中でもイスルーはお菓子作りがとびきり上手いと評判なんです、とジョスリーが眼尻を下げながら言った。
「ほう、それがこの青露草の花弁の載ったタルトというわけじゃな?」
こくこくとイスルーが頷く。
「教会で作ったタルトを、今日から10日感限定の季節限定のタルトとしてお店で出します。ほら、お客様にもとても好評なのよ。」
月の剣亭の店主の顔で、アイーシャが口元に微笑を浮かべながら、イスルーに店内を見せた。
店内には、若い女性の客が多く、そのほとんどが青い花のタルトを美味しそうに食べている。
「イスルーちゃん、ありがとう。」
嬉しそうに少女が笑った。
ありがとうございました。




