60話 スリッパ・スパークリング 中編
主審である誠一の近くにいるカンナと洋子は空たちが鬼役になったと聞いて、不安を隠せずにいた。いつの間にか、この校舎の周りに事情を知った八姫農業高校生が集まり始めているではないか。中にはどちらが勝つかという賭けまでする始末。これに彼女たちはあまりいい顔をしなかった。
そんな二人を見て、誠一は「気になるか?」と訊いてくる。
「いちおー、経験者である大地もいるから、あんま気にしないほーがいーんじゃない?」
「って、言ってますケドね、この勝負に負けたら冬野センパイは桜センパイと付き合わなくちゃならないんですよ?」
軽々しいことを言わないでくれるか、と怪訝そうながらもそう言った。
「や、そうじゃなくてさ。フツーに大地の身体能力を舐めちゃダメだぜ。ていうか、夏斐も元野球部でムダにコントロールいーだろ?」
どうも誠一は空たちが負けることは思っていないらしい。それでもカンナたちの愁色は消えなかった。二人が勝ちますように。そう願って。
◆
空はムカっ腹を立てながら、呉羽を追いかけていた。全くと言っていいほど、差は縮まらない。それもそのはず、足が速いから。カンナ並みの速さ。どんなに必死になっても、こちらをからかっているのか――。
「はい」
廊下を曲がった先に呉羽が待ち構えていて、スリッパでタッチされる。五秒ストップすなければならない。五秒過ぎて、捜しに行き始めたかと思えば、またしてもタッチ。何度もタッチしてくる。あまつさえ、ストップしている自分の眼前にいる。そこで五秒、わざと数えるのだ。
完全に挑発していた。これに空のイライラは収まりきれない。
「何がしたいんですか」
これ以上、やっていられるかとでも言うように、空はタッチしようとする構えを解いて訊ねた。理由がわからない。呉羽の目的が。
「そんなの、どーだってよくない?」
答えなど、教えるものかとして最後にスリッパでタッチをすると、逃げてしまった。もう自身が持っているスリッパを投げつけても届かないようなところに逃げられた。
「あのおじさんでも探すべきか?」
呉羽が逃げた方向とは逆の方向へと駆け出す。確率が低いものよりも、まだ確率が高そうなものを狙った方がいい。スマートフォンを取り出して、時間を見た。制限時間まで残り十分弱。
◆
「待ちやがれっ!」
サングラスとマスクをした中年男性を追いかけるは本気走りの大地である。血眼同然で狙った獲物は逃すまい、と自身のスリッパを投げつけた。壁に当たったらば、痛いような音がそのフロアに炸裂する。これでは鬼がここにいると教えているようなものであり――。
実際に、その音を聞きつけて空が、呉羽がやって来た。一階の廊下で鉢合わせをする四人。すぐさま呉羽が二人に対してスリッパを投げつけてきた。
当たるものか。避ける二人はチャンスだとして呉羽に向かって叩きのめそうとスリッパを振りかざすが――。
軽快な音が空たちから聞こえてきた。二人に向かって、男性が叩くようにしてタッチをしたのである。大地の方だけ、少し強く叩いたのはここだけの話。
五秒間硬直しなければならない二人は歯噛みしながら既定の時間を心の中で数え出す。その隙に手持ちのない呉羽は自身のスリッパを素早く拾い上げて、彼らにもう一度タッチを与えた。
「クソッ」
思った以上に、自分たちのペースへと引きずり込めないのか、大地は硬直状態を解いて舌打ちをする。
「しゃーねぇ。夏斐、オレは桜を相手するから、あのおっさんを頼む」
「わかりました」
空は頷くと、中年男性が走っていった方向へと向かった。その場に取り残された大地は学ランの上を脱ぐと、審判役の翼に投げ渡す。
「ホンキ出す?」
「たりめーって、最初っからホンキに決まってんだろ」
大地は両手にスリッパを握りしめると、大きく深呼吸をした。こういうお遊び競技にここまで苛立ちさせるとは思わなんだ。床に着けた足に力を込めて一階の廊下を疾走し始める。
呉羽という人物は、自分が予想するよりも姑息な手立てをしようと試みているはず。こういういやらしいやり方をするのは誠一も同様。彼は曲がり角のすぐそこで立ち止まりながら、鬼役を待つ。来たところでタッチか投げつけだ。
そういうやり方をする者に勝つためには、相手より素早くタッチをすべし。曲がり角を曲がった瞬間――スリッパ同士がぶつかり合った。
「むっ!?」
予想外だったらしい。呉羽は少しばかり驚いた様子で体勢を整え直すと、大地が来た場所の方へと逃げ出した。全力疾走というものは急には止まれない、として彼は素足で廊下に踏ん張りを利かせて方向転換をした。逃がしてたまるものか、だ。
「コノヤロー!」
逃げ見える呉羽の背中に向けてスリッパを投げつけるが、当たらなかった。こういうときだけ、空のコントロール力が欲しいと思うのだった。
◆
範囲は校舎内とは聞いていたが――これはありなのか、と思う空がいた。中年男性を追いかけてやって来た場所は三階の窓から飛び降りた渡り廊下の屋根であった。そこから校舎内へと入るにはそのままそこから飛び降りなければならないのである。
「……なんで?」
それでも、とその人物は余裕のある様子でこちらを見ていた。一応審判である美奈が心配そうに窓から顔を覗かせている。
危険はあったが、ここで鬼交替して、逃げよう。時間は残り五分ぐらいなのだから。
空は右手に持つスリッパを握りしめるが、ふと我に戻る。タッチしたとしても、どこへ逃げろと? このまま素足のままで飛び降りろと? 靴すらも履いていないのに?
飛び降りることにおいて、怖けついた空を見ていた男は嘲笑してきた。それが煩わしい。睨むようにして顔を向けた途端――。
「夏斐空クン」
呼びかけられて、動揺は隠せない。なぜに自分の名前を知っているのだろうか。名字は分からなくもない、が――自分の名前を呼ぶのはカンナぐらいだ。彼女が言っているのを聞いていたのか?
なんて空が考えているときだった。男は小さく笑うと――。
「八月後半辺りで冬野製薬工場に入っただろ。しかも、地下までな」
その言葉に空は完全に硬直するしかなかった。




