遠い昔の願い事
「ハッピーエンド、というやつで満足?」
二人の、ぎこちない歩み寄りを見ながら魔族の彼女がそう笑った。
「もちろん。これを見るのに何十年かかったと思うんだ」
マルス・ゴードンは僕の親友だった。
僕の、と言っても前世の僕の、だ。
前世の僕ーージャン・アルノベルは今と寸分違わない姿形と能力を持つ、どれをとってもそこそこの男だった。
そんな男の親友がなぜあの完璧人間マルスだったのは些か疑問だけれど。
金色の髪、爽やかな青の瞳、微笑む口元。
そのどれもが女性を魅力し、彼に紡がれる優しい言葉に女性は酔いしれた。
仕事に関して言えば、デスクワークも実戦についても文句なし。
本当に完璧だった。
ーーただ時折、仄暗い一面が顔を見せる以外は。
彼は建国直後の幼少期に魔族に親を殺されたらしく、心底魔族を憎み、嫌っていた。
見せしめに彼らを殺す度、彼の口元が愉悦を含んで歪んでいたのはきっと気のせいではない。
そして、マルスが魔族取締隊副隊長(ちなみに僕は彼に面倒なデスクワークの多い隊長を押し付けられた)に就任して二年が経った頃、ある変化があった。
「えっ、彼女⁉︎ついにお前も年貢を納める気になったのか⁉︎」
お茶を吹いたが、今はそんなことを気にしている暇はない。
あの、あのマルスが恋人を作ったと言うのだ。
僕は期待した。
マルスがついに心の拠り所を得たのだと思ったから。
しかしーー
「そんなわけないだろう、ジャン」
彼の顔に浮かんだのは冷たい笑顔だった。
その冷たさに背筋に冷たいものが這う様な感覚が沸き起こる。
「あいつは魔族だよ」
「ーーっ、お前、魔族嫌いじゃ…」
「そうさ、だから次の見せしめはあいつだ」
なんて酷い話だろう、とそう思った。
「金髪に髪を染めて人間に混じっているなんておぞましい」
「でも、証拠はーー魔族だという証拠はあるのか?証拠がなければどうにも出来ないという決まりだ」
僕の言葉に、彼は愉快そうに笑った。
ゾッとする程美しいものだった。
「証拠?ーーそれを集め、果てには自白させるためにわざわざ恋人になったんだ」
その時、僕は彼になんと声をかけるべきかわからなかった。
浮かぶ言葉は多いのに、どれも今の彼に響かない気がして。
虚しく言葉が朽ちていく。
悪い予感はしていたのに、この時僕は何も出来なかった。
彼の気持ちが徐々に傾いていくのがわかった。
「あの女」と僕の前で呼んでいた恋人を「マリア」と呼ぶ様になったのは彼らが付き合い始めて三ヶ月の頃だった。
「あの女、なかなか自白しない」
と、愚痴を言っていたのが
「またマリアが人混みに連れ出して」
と、どこか惚気気味に話す様になったのだ。
魔族の判別のための白い花を手土産にしていた彼が、たまにだけれど、甘いものや髪飾りを手にして行く。
隊員の中でも「副隊長は変わった」と密かに言われていた。
それくらい、彼は幸せそうに見えた。
だから僕も、きっとあの悪い予感は気のせいだったんだと思った。
ーー彼が頑固で鈍くて、救い様もなく不器用だと、僕は知っていたのに。
「ーー…今、なんと?」
「だから、あいつがようやく自白したから地下牢に投獄した。処分の日程は未定だが」
ーー絶句した。
なぜ彼は気づかないのだろう。
自分が彼女に惹かれていたことに。
今も、手柄を手にしたにもかかわらずその表情は硬いのに。
「馬鹿なことを……」
「何を言う?」
「今なら間に合う。彼女を釈放できる」
彼が投獄した時刻はつい数時間前だ。
誤解による投獄だったとし、彼女に些かの謝礼を払い、報告書を書き直せば、きっとーー
なのに、彼は不思議そうに首を傾げた。
「なぜ釈放する?」
嗚呼、彼はどうして気付けない。
どうして愛した者を裏切った事に気付けないんだ。
「お前は、いつか後悔するぞ」
彼は本当に不思議そうだった。
まるで言葉を知らない子供に学識を与えているような無意味さだった。
聡いくせに、彼は気付けない。
ーーそして、僕は諦めた。
彼女が殺される前日、彼は政界に席を置く方のご令嬢と婚約した。
とは言っても、婚約することが決定した段階であり、正式な婚約者となったわけではなかったが。
「婚約おめでとう」
「…ああ」
「これでお前は軍だけでなく政治をも牛耳る可能性が出てきたわけだ」
茶化す僕に彼は少し微笑むだけだった。
「具合が悪いのか?」
「いや……なんでもないんだ」
彼は立ち上がり部屋を出ようとした。
いつもならもっと軽口が飛び出すのに。
「ーーあの女は…、」
「え?」
掠れた音がして、それが彼の声だと気づくのに少し時間が必要だった。
背を向けた彼の表情は見えなかったが、恐らく普段の彼らしいものではないだろう。
「……なんでもない」
「お前、明日は非番だろう?ゆっくり休めよ」
扉が静かに閉まった。
彼を非番にしたのは自分だった。
司令部の中には彼女の執行人を、彼女を捕らえた彼にさせる案もあったが、自分が止めた。
明日彼女は、彼の部下によって殺される。
ーー私は忘れない…‼︎‼︎彼を許さない…‼︎‼︎
彼女の吐いた呪いの言葉は、僕の中に深く刻まれた。
振り下ろされる刃が彼女の首を掻き切った時、僕はひどく汚れた気分だった。
飛び散る紅が黒く黒く変色していく様が、僕らの未来を表していた。
彼女の死から三ヶ月もすると、彼の周りはいよいよ件のご令嬢と正式な婚約を結ぶ準備で忙しくなった。
彼の人生はこのまま順調に進むと思った。
時折、耳に届く不思議な噂が心残りだったが。
「魔族嫌いの副隊長が、また魔族と親しくしているらしい」
「今回はあの、時の魔女だろ?」
「おっかねーことするよなぁ」
隊員達がそう噂するのをよく耳にした。
時の魔女とは、魔術の中でも高等な、時を渡り歩く術式を持つと言われ、その存在はもはや伝説染みていた。
彼女は時を操るゆえに不老不死であるとか。
彼女の爪を粉にして飲めば延命できるとか。
彼女に関わると、時空の合間に飛ばされるとかなんとかーー
そんな魔女は髪色を誤魔化し人に溶け込んでいるという噂だ。
ーーでも、噂は噂だ。
彼はただ次の目標を時の魔女に定めているだけかもしれない。
彼はこの所変わった所もなかった。
おかしかったのはあの、処分前日だけだったから。
僕は安心していた。
しかし、忙しい彼と久しぶりに顔を合わせた時、その安堵は間違いだったと気付いた。
「隣国がね、魔族の一部を味方につけてこちらに責めて来ているんだ。歴史も浅く内政もまだ危うい内に叩いてしまおうと言う訳でね」
「ーー…」
「婚約前に悪いが、我が隊も出動することになる」
「ーー……」
「マルス?」
彼はぼんやりとしていた。
僕の声に俯いたまま、動かない。
「それはーーいつ出発なんだ?」
「恐らく三日以内には。まぁ、お前だけ遅らせる事も出来ると思うぞ?婚約を済ませてから、」
「俺、は…婚約しない」
彼の言葉の意味を、一瞬わかりかねた。
滅多にない良縁だ。
才能だけでのし上がった軍人が、末席ではあるが爵位の持つ家と繋がりを持てるのだ。
「どうし、て」
そう言った瞬間、彼女が頭を過った。
金と黒の入り乱れた首を垂れて死んだ、あの。
「この戦いを理由に婚約をしないと伝えれば美談になるだろう?」
死を覚悟する軍人が麗しい令嬢を思って身を引く。
まるでお芝居だ。
彼は悪戯っぽく笑った。
細められた瞳は、少し淀んでいたけれど、口調だけは明るかった。
僕は何も言わなかった。
ーー勿体無いことするなよ
なんて無責任な言葉も、
ーー彼女が原因?
と、問いかける言葉も、今の彼を追い詰めるとわかったからだ。
ーー彼を許さない‼︎‼︎
彼女の悲鳴がこだまする。
彼は今まさに、彼女の裁きを受けているような、そんな気がしたのだ。
戦いは、予想以上に苦しいものになった。
数は五分五分だが、魔族を率いる相手軍を突破するのになかなか骨が折れる。
それでもなんとか立ち向かって、戦況がようやくこちらに有利になって来た頃。
彼の目の前に、金髪の兵士。
金髪の髪ーーでも中には少しだけ黒髪が混じっている。
瞳は彼女と同じ、透き通ったグリーンの。
華奢な体つきから、まだ幼い兵士。
ーー少年兵を哀れに思った。
彼と少年兵では恐らく彼に軍杯が上がるだろうと。
けれど、貫かれたのは彼の方だった。
少年はまるで驚いたように顔を歪めて、走り去った。
恐らく殺される覚悟で彼に挑んだのだろう。
まさか彼が無抵抗だとは思わなかったのだろう。
「マルス‼︎‼︎お前は馬鹿か‼︎」
急いで軍医の元に向かい、簡易ベッドに寝かせる。
彼は幸せそうに微笑んだ。
「…はっ、そうかもな…」
「動くな、ついでに喋るな」
「いいや、遺言だ…っ」
ーー後悔していたんだ。
彼は嗤った。
マリアを捕らえた時、俺は確かに満足していたのに。
両親を殺した魔族とそっくりだったマリアを手にかけて、ようやく復讐出来たと思った。
なのに、どうしても寂しいんだ。
彼女の笑顔がなくて、俺を呼ぶ声がしなくて。
自分で殺したのにーー
だから、時の魔女に会ったんだ。
彼女に会わせて欲しいと頼んだ。
ーーでも、あいつ嫌な奴だよ。
わざわざ、あの処刑の日に、処刑場に、時間を遡ったんだ。
嗚呼、もちろん、もちろん後悔したよ。
泣いて俺を恨む彼女を見て。
この時間をなかった事にしたいと願った。
けれど魔女は嫌だと言った。
自分の罪は自分で背負えと嗤った。
そう話す間にも、彼の血液は流れて、ついに軍医も首を振った。
「いいんだ…、ようやく、彼女の、元に行け、る」
謝るんだ、そして次こそ幸せになるんだ。
そう微笑む彼に情けなくも涙が溢れた。
死に行く親友の最期の言葉はこんなにも重く、辛く、切ない。
「ーーあの様子じゃあ天に行かずにいつまでもこの世を彷徨っているかもしれないぞ」
そう言えば、彼は笑った。
「じゃあ、その時は、伝えて、くれ。『すまなかった、愛してた』と。そしたら、きっと、」
「あぁ、あぁ、もちろんだ。伝えよう」
彼が息を引き取ったのはこの直後だった。
戦いは勝利に終わり、都に帰った後、すぐに彼を埋葬した。
それから二十年が経った。
僕は病に倒れ、いよいよとなった。
彼女は彷徨っているのかいないのか、一度も現れず、彼の遺言を伝える事もなかった。
そして、僕は時の魔女を探した。
「もし、僕が死んだ後、彼女が現れたらどうか彼の言葉を伝えて欲しい」
そう伝えると、彼女は愉快そうに口元を緩めた。
「あの哀れな男の最期の言葉がそれ?いいわよ、私、時間だけはたっぷりあるの。気長に待つわ」
金髪の髪を揺らして、彼女は笑った。
それを見ながら、もしかしたら不老不死という噂は本当だったのかもしれないと思った。
それから暫くして僕の体はついに終わりの時を迎えた。
ああ、もう終わりの時だ。
妻と、娘と、息子とそれから部下と。
多くの者に見守られながら、幸せな人生だったと思えた。
心残りはもうない。
ーーいや、一つだけ。
一つだけある。
彼と彼女が幸せになるのを見れなかった。
きっと穏やかな幸福が、そこにはあるだろうに。
手を取り合う二人を後ろから僕が見守ってそして冷やかしてやるんだ。
次に目を覚ました時、そんな幸福があればいい。
彼が、彼女が、今度こそ幸せになればいい。
微笑み合う二人はきっと美しいことだろう。