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男の子が生まれないなら、アパートを手放しなさい

作者: 熾星
掲載日:2026/06/11

 


 結婚して三年。


 義母から届くLINEは、いつも同じだった。


「水天宮の安産御守は本当にご利益があるのよ」


「男の子を授かるって評判の子宝神社があるの。今度、一緒に行きましょう」


「女は三十を過ぎると、身体が変わるのよ。綾乃さん、そろそろ本気で考えてちょうだい」


 私は夫の佐藤直樹に訴えた。


「お義母さんに、毎日こんなものを送られるのはつらい」


 けれど直樹はスマホから顔も上げず、面倒くさそうに言った。


「母さんは孫の顔が見たいだけだよ。そんなに神経質になるなよ」


 結婚生活を守るため。


 世間体のため。


 佐藤家に嫁いだ女として「気が利かない嫁」だと言われないため。


 私は、ずっと耐えてきた。


 けれど、あの日。


 キッチンの入口に立ったまま、私はリビングから聞こえる義母と義妹の会話を聞いてしまった。


「美緒が結婚したら、綾乃さんのマンションを空けてもらいなさい。新居にちょうどいいわ」


 義妹の美緒が、甘えるような声で尋ねた。


「でも、お母さん。綾乃さんが嫌だって言ったら?」


 義母は、鼻で笑った。


「言えるわけないでしょう。佐藤家に嫁いで三年、子どもひとり産めない女が、あんな立派なマンションを独り占めしているほうがおかしいのよ。直樹と結婚したんだから、あの部屋だっていずれ佐藤家のものよ」


 私はキッチンの入口に立ったまま、洗ったばかりの湯飲みを握りしめていた。


 指先が、少しずつ冷えていった。


 その夜、私は直樹に聞いた。


「お義母さんが、私のマンションを美緒さんの新居にするって話していた。あなた、知っていたの?」


 直樹は顔も上げなかった。


「家族なんだから、そんなに線を引かなくてもいいだろ。お前のものは佐藤家のものでもあるんだから」


 私は彼を見つめて、ふっと笑った。


「そう。佐藤家のものを分けるのがそんなに好きなら、ちょうどいいわ」


「離婚協議書なら、もう用意してある」


「あなたには、この家を出ていってもらうだけ」



 1


 結婚記念日の日、私は会社に半休を取った。


 午後三時、オフィスを出て、帰り道にスーパーへ寄った。


 直樹の好きな牛肉、マグロの刺身、それから少しだけ高い赤ワインを買った。


 マンションに戻ると、エプロンをつけて夕食の支度を始めた。


 肉じゃがを煮込み、鮭を塩焼きにし、味噌汁と茶碗蒸しも作った。


 全部、昔の直樹が「好きだ」と言っていた料理だった。


 結婚して三年。


 恋人だったころの熱は、もうない。


 それでも、せめてこの日だけは、向かい合って静かに食事をしたかった。


 午後七時。


 テーブルには料理が並んでいた。


 そのとき、スマホが鳴った。


 直樹だった。


「綾乃、今夜は帰れない」


 私はスマホを握ったまま固まった。


「どうして?」


 電話の向こうで、彼の声は曖昧だった。


「母さんの具合が悪いらしい。埼玉の実家に戻る」


 湯気を立てる肉じゃがを見ながら、私はできるだけ平静な声で聞いた。


「いつ帰ってくるの?」


「分からない。様子を見てからだな」


 そして彼は、当然のように付け加えた。


「夕飯は一人で食べて。待たなくていい」


 電話が切れると、リビングには冷蔵庫の低い音だけが残った。


 私はテーブルの前に座り、並べた料理を見つめた。


 滑稽だった。


 こんなことは、初めてではない。


 義母から一本電話が入るたび、直樹は私を置いて、あの「本当の家」へ帰っていく。


 では、私は何なのだろう。


 妻であるはずなのに、いつも母親の後ろに置かれる仮住まいの同居人みたいだった。


 料理を冷蔵庫に入れようとしたとき、スマホが震えた。


 義母からのLINEだった。


 一通目は、スクリーンショット。


 タイトルには「男の子を授かりやすくするために注意すべき時期」とあった。


 二通目は、写真。


 着物姿の老婦人が、丸々とした男の赤ん坊を抱いて笑っている。


 三通目は、義母のボイスメッセージだった。


「綾乃さん、見て。あちらは結婚二年目でもう孫を抱いているのよ。あなたと直樹は三年でしょう? まだ何の気配もないなんて。女は年を取ると産みにくくなるの。佐藤家のことも、少しは考えてちょうだい」


 手が震えた。


 スマホを投げつけそうになった。


 これが初めてではない。


 結婚二年目に入ったころから、義母は頻繁に「子宝」に関するものを送ってくるようになった。


 迷信じみた食事法。


 神社のリンク。


 よその家の孫の写真。


 ひどいときには、私の排卵日まで尋ねてきた。


 最初は、ただ気まずかった。


 次に、息苦しくなった。


 今はもう、吐き気がする。


 私は直樹に電話をかけた。


 長い呼び出しのあと、ようやく彼が出た。


「何?」


「直樹、お義母さんはどういうつもりなの?」


 声が震えた。


「毎日こんなものを送ってきて、私を追い詰めたいの?」


 電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。


 それから、苛立った声が返ってきた。


「母さんは孫を楽しみにしているだけだろ。年寄りなんだから、大目に見てやれよ」


「年寄り?」


 私は笑ってしまった。


「私を産むための機械みたいに扱うのが、ただの年寄りの楽しみなの?」


「綾乃、いい加減にしろよ。母さんは身体も弱いんだ。少しくらい気遣えないのか」


「三年も気遣ってきた。結果がこれなの?」


 私はもう、止まらなかった。


「あなたは、私を妻だと思っているの? それとも佐藤家の嫁という役割だけ?」


 電話の向こうが静まり返った。


 やがて直樹は言った。


「帰ってから話そう」


「もういい」


 私は窓の外の東京の灯りを見た。


 細かな光が、遠くでぼやけていた。


「話すことなんて、もうない」


 電話を切ると、涙がこぼれた。


 結婚して三年。


 私はようやく分かった。


 結婚は、二人だけのものではなかった。


 二つの家の力関係であり、伝統と世間体と忍耐で編まれた網だった。


 そして私は、その網の中で、いちばん簡単に犠牲にされる存在だった。


 彼らの目に、私は高橋綾乃ではない。


 佐藤家の嫁。


 子どもを産み、従い、譲り、尽くし、できれば家まで差し出す女。


 ただそれだけだった。



 2


 週末の午前、インターホンが鳴った。


 ドアを開けると、義母と美緒が立っていた。


 義母は濃いグレーのニットを着て、髪をきっちりまとめ、布袋を提げていた。


 美緒は上品なコートを羽織り、どこか退屈そうな笑みを浮かべている。


「お義母さん、美緒さん。どうしたんですか」


 驚いたが、不快感を押し込めて二人を中へ入れた。


 義母は玄関に入るなり、部屋を見回した。


 リビング、キッチン、ベランダ。


 まるで、これから自分のものになる品物を査定しているような目だった。


「本当にいい場所ね、このマンション」


 ソファに腰を下ろした義母は、当然のように言った。


「駅にも近いし、日当たりもいい。独身のうちにこんな部屋を買えたなんて、運がよかったわね」


 私は曖昧に笑い、何も言わなかった。


 美緒はスリッパに履き替えると、まっすぐキッチンへ行った。


「綾乃さん、このキッチン広いですね。私も結婚したら、こういう部屋に住みたいな」


 胸の奥が、かすかに沈んだ。


 義母は布袋から、いくつもの御守りと、正体の分からない漢方の包み、それから「妊活のための体質改善」と書かれた冊子を取り出した。


「綾乃さん、今回はあなたの世話をしに来たの」


「世話、ですか?」


「体は大丈夫です。必要ありません」


 義母の顔が、すぐに曇った。


「本当に分かっていないのね。今のあなたにいちばん大切なのは、早く直樹の子を産むことよ。直樹は長男なの。佐藤家を絶やすわけにはいかないでしょう」


 美緒はソファでLINEを見ながら、気だるそうに言った。


「そうですよ、綾乃さん。嫁いでもう三年なのに、お腹は静かなまま。近所の人だって、直樹兄さんたちは子どもを作らないのかって聞いてくるんです」


 私は指を握りしめた。


「子どものことは、私と直樹の問題です」


「まあ、どうして二人だけの問題になるの」


 義母は笑った。


 その笑みは、少しも温かくなかった。


「結婚は家と家のことよ。佐藤家に嫁いだ以上、自分のことだけを考えていては困るわ」


 目の前の二人を見て、私は急に滑稽になった。


 一人は、長老のように親の立場を振りかざし、私に指図する女。


 もう一人は、何も差し出さないくせに、周囲が自分のために動くのを当然だと思っている女。


 現代社会で、「あなたのため」と言いながら人を縛る行為を、何と呼ぶのか。


 精神的な支配。


 少なくとも、愛ではない。


 その日から、私の生活は完全に乱された。


 義母は泊まり込んだ。


 朝六時に起き、キッチンで妙なスープを煮る。


「綾乃さん、これを飲みなさい。身体にいいの」


「夜更かしは駄目よ。妊娠しにくくなるわ」


「今月の排卵日はいつ? 私が計算しておいたから、その日は直樹を早く帰らせなさい」


 とうとう、水天宮の御守りを私の枕の下に入れた。


「ご利益があるのよ。嫌がらないで」


 私はその御守りを見つめ、ただ呆然とした。


 美緒は数日おきにやって来た。


 料理もしない。


 片づけもしない。


 ソファでお菓子を食べ、バラエティ番組を流し、思い出したように刺してくる。


「綾乃さん、身体のどこかに問題があるんじゃないですか? 病院に行ったほうがいいかも」


「女なら子どもを産むのは普通でしょう。そんなに大げさに考えなくても」


「このままずっと産めなかったら、お母さん、直樹兄さんに別の方法を考えさせるかもしれませんよ」


 言い終えると、口元を隠して笑う。


 私のマンションは、私の家ではなくなっていた。


 義母と美緒が私を裁く場所になった。


 私は透明な箱に入れられた実験動物のように、観察され、評価され、触られていた。


 ある夜、眠れずにベッドで横になっていると、リビングから義母と直樹の声が聞こえた。


 私はそっとドアのそばに立った。


「直樹、もっとしっかりしなさい」


 義母の声は低いが、命令そのものだった。


「綾乃さんは三年も何の気配もない。これ以上、だらだらしていては駄目よ」


 直樹がため息をついた。


「分かってるよ」


「分かっているだけでは駄目なの。行動しなさい。女は甘やかすとつけ上がるわ」


 直樹は黙った。


 義母は続けた。


「あの子はマンションも仕事もあるから、あんなに強気なの。子どもさえできれば変わるわ。女は子どもができると、逃げられなくなるのよ」


 その瞬間、胸の奥が冷たく固まった。


 彼らが欲しいのは、子どもだけではない。


 私を佐藤家につなぎとめたいのだ。


 産ませ、黙らせ、財産を差し出させ、逃げ道のない女にしたいのだ。


 私はベッドに戻り、長いこと座っていた。


 そしてスマホを取り、白石真央に電話をかけた。


 真央は大学時代からの友人で、弁護士だった。


 電話がつながった瞬間、私は泣き出していた。


「真央、もう限界かもしれない」



 3


 真央は、私の話を最後まで遮らなかった。


 義母の催促。


 美緒の嫌味。


 直樹の冷たさ。


 さっき聞いてしまった会話。


 全部話し終えると、電話の向こうで真央は少し黙った。


 それから、静かに言った。


「綾乃、あの人たちが本当に欲しいものを考えたことはある?」


 私は苦笑した。


「子どもでしょう?」


「違う」


 真央の声は冷静だった。


「あの人たちは、あなたを支配しようとしている」


「支配?」


「そう。催促は手段にすぎない。長男の家、佐藤家の未来、女の責任。そういう言葉であなたに罪悪感を植えつけて、少しずつ境界線を失わせようとしているの」


 指先が冷たくなった。


「義母が圧をかけ、美緒さんが横から刺し、直樹さんがなだめ役をする。役割分担がはっきりしているわ。あなたが抵抗すると、あなたのほうが悪いと思わせる仕組みになっている」


 私はスマホを握りしめた。


「私、我慢すれば家は壊れないと思っていた」


「綾乃。我慢は、尊重を生まない」


 真央の声が少し柔らかくなった。


「今あなたがするべきことは、自分を守ること」


「どうやって?」


「証拠を集めて」


 真央は続けた。


「LINEはスクリーンショット。音声は保存。侮辱や脅しがある会話は、録音しておくこと。あと、あなたのマンションは結婚前に買ったものよね?」


「うん。頭金も私、ローンも私が払っている。名義も私一人」


「それは大切な線よ。売却、名義変更、抵当設定。何を言われても署名しないで。日本の離婚では、婚前からの個人財産は基本的に財産分与の対象にならない。ただし、購入時の書類、ローンの記録、返済履歴は必ず保管して」


 私は深く息を吸った。


「真央、私って弱いのかな」


「違う」


 真央ははっきり言った。


「長いあいだ、追い詰められていただけ。今気づいたなら、まだ間に合う」


 電話を切ったあと、私は涙を拭いて動き出した。


 義母から届いたLINEをすべて保存した。


 ボイスメッセージを残した。


 神社のリンクも、子宝の写真も、迷信じみた食事法も、すべてフォルダに入れた。


 小型の録音機も買い、本棚の一番下に置いた。


 その日から、私は正面から争うのをやめた。


 義母がスープを出せば、受け取る。


 美緒が嫌味を言えば、笑う。


 直樹が「母さんを分かってやれ」と言えば、うなずく。


 彼らは、私がようやく従順になったと思った。


 義母は満足そうに言った。


「綾乃さん、そういう態度でいいのよ。女は強すぎても幸せになれないわ」


 美緒も笑った。


「綾乃さん、最初からそうしていればよかったんですよ。家族は仲良くしないと」


 私はスープを飲み、何も言わなかった。


 彼女たちは知らない。


 リビングの棚に置いた録音機が、ずっと動いていることを。



 4


 数日後、私はさりげなく美緒の結婚の話を出した。


 夕食の後、テーブルを片づけながら聞いた。


「お義母さん、美緒さんの結婚の準備は進んでいるんですか」


 義母の顔が、わずかに変わった。


「その話はね……」


 彼女はため息をついた。


「相手のご家庭は悪くないけれど、条件は普通なのよ。東京で家を買うとなると、出せても頭金くらいでしょうね」


 ソファに座っていた美緒の顔が曇った。


「お母さん、そんなこと綾乃さんに言わなくても」


「家族なんだから、いいでしょう」


 私は目を伏せ、テーブルを拭き続けた。


「今の若い人にとって、住まいは大切ですよね」


 義母は、待っていたと言わんばかりに身を乗り出した。


「そうなのよ。美緒には、結婚してから苦労させたくないの。狭い賃貸なんて、かわいそうでしょう」


 私は黙っていた。


 義母の視線が、私に向いた。


「綾乃さん、このマンション、二人で住むには少し広いわよね」


 手が止まった。


「あなたたちには、まだ子どももいない。少し小さい部屋に移って、このマンションを美緒にしばらく貸してあげるというのはどう?」


 貸す。


 笑いそうになった。


 美緒はすぐに背筋を伸ばした。


「お母さん、そんなこと言ったら綾乃さんが困るよ」


 口ではそう言いながら、目はもう部屋を測っていた。


 そこへ直樹が部屋から出てきた。


 ソファに座り、スマホをいじりながら、何気ないふりをして言った。


「綾乃、母さんも美緒のためを思って言っているんだ。美緒は俺の妹だし、できる範囲で助けてやってくれないか」


 私は彼を見た。


「助けるって、どうやって?」


 直樹は目をそらした。


「しばらく住ませるとか。あるいは、お前がこのマンションを売る気があるなら、そのお金で美緒の頭金を助けるとか。家族なんだし」


「このマンションは、私の婚前財産よ」


 私は静かに言った。


 義母の顔が沈んだ。


「婚前財産だから何? 佐藤家に嫁いだのだから、あなたのものは佐藤家のものでもあるでしょう。結婚した女が、そんなに細かく分けるなんて冷たいわ」


「法律上は違います」


「法律?」


 義母は笑った。


「私はあなたの義母よ。冷たい法律より、人情のほうが大切でしょう」


 その顔を見て、私はやっとすべてを理解した。


 彼女たちは、最初から私のマンションを見ていた。


 催促は手段。


 侮辱も手段。


 直樹に哀れな顔をさせるのも手段。


 目的は、私を屈服させ、結婚前に必死で手に入れた家を佐藤家の財産に変えることだった。


 私は布巾を置き、まっすぐ立った。


「お義母さん、直樹、美緒さん。もう一度だけ言います」


「このマンションは私のものです。誰にも渡しません」


 義母が勢いよく立ち上がった。


「何なの、その態度は。私は穏やかに相談しているのよ」


 美緒も目を潤ませた。


「綾乃さん、私、絶対に欲しいなんて言ってないのに。どうしてそんなに怖い言い方をするんですか」


 直樹が眉をひそめた。


「綾乃、言いすぎだ。美緒は俺の妹なんだぞ。そんな言い方をしたら傷つくだろ」


 私は、この男を見た。


 三年間、私がどれほど傷ついても、彼は誰かを責めなかった。


 けれど美緒が少し涙ぐむだけで、すぐに私を責める。


 心が、底まで冷えた。


「直樹、あなたは私が佐藤家を出たら生きていけないとでも思っているの?」


 彼は黙った。


 私は笑った。


「間違っているわ」


 それだけ言って寝室に入り、ドアを閉めた。


 外では義母の罵声、美緒のすすり泣き、直樹の小声のなだめる声が聞こえた。


 私はドアにもたれ、深く息を吸った。


 そして真央にメッセージを送った。


「マンションの話をされた」


 すぐに返事が来た。


「これからの会話は全部保存して。何も約束しないで」


 その文字を見て、私はスマホを握りしめた。


 いい。


 彼らが私を追い詰めるなら、私は自分で出口を作る。



 5


 翌朝、義母と直樹がいないあいだに、私は書類を整理した。


 このマンションを買ったとき、手続きはすべて私がした。


 登記書類、ローン契約書、頭金の振込記録、毎月の返済履歴。


 全部、別のファイルに入れてあった。


 金庫を開け、所有者欄の「高橋綾乃」という名前を見たとき、少しだけ呼吸が楽になった。


 ここは私の家だ。


 佐藤家のものではない。


 美緒への結婚祝いでもない。


 そのとき真央から電話が来た。


「綾乃、どう?」


「やっぱりマンションの話だった。しかも当然みたいに言うの。私が断るほうが非常識みたいに」


 真央は驚かなかった。


「今後、売却や抵当を求めてくる可能性がある。絶対に書類へサインしないで」


「分かっている」


「それから、直樹さんにも気をつけて。彼はただ弱いだけではないわ。義母が何をしているか分かっていて、自分に都合のいいほうを選んでいる」


 その言葉は、針のように刺さった。


 私はずっと、直樹に言い訳を用意してきた。


 親孝行なだけ。


 板挟みで苦しいだけ。


 家庭の問題を処理するのが苦手なだけ。


 でも違った。


 彼はできないのではない。


 私を守るつもりがなかったのだ。


 電話を切ったあと、私は書類をスキャンしてクラウドに保存し、紙の書類は真央に預けた。


 数日後、私はわざと義母の前でため息をついた。


「最近、会社の業績が悪くて。ボーナスも減りそうなんです。ローンが少しきつくて」


 お茶を飲んでいた義母の目が光った。


「それなら、なおさらマンションを売ることを考えなさい。今なら高く売れるでしょう。小さな部屋に移れば、あなたたちも楽になるわ」


 私は迷うふりをした。


「でも、ここは私と直樹の住まいですし」


「賃貸でも住まいは住まいよ。それに、売ったお金が少し残れば、美緒のほうも助けられるでしょう」


 やっと本音が出た。


 私は目を伏せ、冷えた笑いを隠した。


「直樹と相談します」


 義母は不満そうに眉を寄せた。


「佐藤家の嫁なら、長い者の意見を聞くものよ」


 その夜、直樹が帰ってきてから、私は同じ話をした。


「直樹、最近仕事が不安定で、ローンが重いの。いっそマンションを売って、小さい部屋に移るのはどうかな」


 彼の箸が止まった。


「売る?」


「うん。あなたはどう思う?」


 彼は茶碗を見たまま、目を泳がせた。


「それは……あまりよくないんじゃないか。ここは、俺たちの家だし」


「俺たちの?」


 私は静かに繰り返した。


 彼は慌てて言い直した。


「いや、俺たちが住んでいる家という意味だよ」


「売ったら、お金はどうするの?」


 彼は少し黙った。


「美緒の新居の問題を、少し助けてもいいんじゃないか。俺の妹なんだから」


 私は箸を置いた。


「直樹、あなたも最初からそう思っていたの?」


 彼の顔が変わった。


「綾乃、誤解するな」


「何を誤解するの? あなたもお義母さんと同じで、私があなたと結婚したら、私の家は佐藤家のものになると思っていたってこと?」


 彼は口を開いたが、何も言えなかった。


 その瞬間、完全に分かった。


 彼は母親に押されているのではない。


 同意していたのだ。


 私は立ち上がり、寝室へ戻った。


 泣かなかった。


 騒がなかった。


 この瞬間から、この結婚に残っていた最後の幻想が死んだからだ。



 6


 私は本格的に離婚の準備を始めた。


 給与振込の口座を変え、個人の預金を直樹の知らない口座へ移した。


 貴金属、重要書類、価値のあるものは一時的に真央へ預けた。


 離婚調停の流れを調べ、家庭裁判所の手続きについても確認した。


 真央は言った。


「協議離婚が無理なら、まず家庭裁判所で離婚調停。そこでまとまらなければ訴訟になる」


「焦らなくていい。証拠をつなげることが大切よ」


 私は証拠を集め続けた。


 義母のLINE。


 美緒の音声。


 面と向かって言われた侮辱。


 直樹が私のマンションを美緒のために使うことを当然のように話した会話。


 そして、彼が「助けてやれ」と言った録音。


 冷静すぎて残酷に見えるかもしれない。


 でも、私がそうしなければ、彼らはきっと言うだろう。


 私がヒステリックだった。


 私が精神的に不安定だった。


 佐藤家の嫁としての務めを果たさなかった。


 彼らは、私の身体にナイフを刺しておいて、流れる血を見ながら「自分で転んだ」と言う人たちだ。


 ある夜、義母はまたマンションのことで私を責めた。


「綾乃さん、あなたは自分勝手すぎるわ。こんな広い部屋を、子どももいない女が占めてどうするの。美緒が結婚するのよ。義姉として助けるのが当然でしょう」


 私はソファに座ったまま、静かに見上げた。


「お義母さん。義妹のために婚前の個人財産を差し出さなければならないという法律は、どこにありますか」


 義母の顔が赤くなった。


「法律、法律って。私はあなたよりずっと長く生きているのよ」


 美緒が横で目を潤ませた。


「綾乃さんが、そんなに冷たい人だと思いませんでした。私は家族だと思っていたのに」


 私は笑った。


「家族だと思っていた? 私に身体の問題があるんじゃないかと言ったり、お兄さんが別の方法を考えるかもと言ったりするのが、家族なの?」


 美緒の顔が白くなった。


 直樹が寝室から出てきて、眉をひそめた。


「綾乃、少し黙れよ。母さんは年なんだ。体も弱い。わざわざ怒らせるな」


「また、それ?」


 私は彼を見た。


 この男が急に、遠い他人に見えた。


「直樹。今でも、誰が誰を傷つけているのか分からないの?」


 彼は視線をそらした。


 義母は胸を押さえ、大げさにうめいた。


「私は何の罰でこんな嫁を迎えたのかしら。三年も子どもを産めないうえに、年寄りを死ぬほど怒らせるなんて」


 美緒はすぐに義母を支えた。


「お母さん、身体に障るよ」


 そして私を睨んだ。


「高橋綾乃さん、良心はないんですか」


「良心?」


 私は立ち上がり、寝室から録音機を持ってきた。


「そんなに良心の話が好きなら、一緒に聞きましょう」


 再生ボタンを押した。


 リビングに、義母の声が響いた。


「子どもさえできれば変わるわ。女は子どもができると、逃げられなくなるのよ」


 次に、美緒の声。


「綾乃さん、身体のどこかに問題があるんじゃないですか?」


 続いて、直樹の声。


「美緒の新居の問題を、少し助けてもいいんじゃないか。俺の妹なんだから」


 最後に、また義母。


「婚前財産だから何? 佐藤家に嫁いだのだから、あなたのものは佐藤家のものでもあるでしょう」


 一つ一つの言葉が、部屋に落ちた。


 空気が凍ったようだった。


 義母の顔は白くなり、赤くなり、最後には青くなった。


 美緒は目を見開き、唇を震わせていた。


 直樹が私を見た。


「綾乃、お前、録音していたのか」


 私は静かに見返した。


「そうしなかったら、あなたたちは私を追い詰めたあと、私が壊れたと言うでしょう?」


「それはプライバシーの侵害だ!」


 私は笑った。


「直樹。私の家で、私を妊娠で縛る方法や、私のマンションを奪う方法を話しておいて、今さらプライバシー?」


 彼は何も言えなかった。


 義母が震える声で叫んだ。


「あなた、本当に恐ろしい女ね」


「お義母さんには、まだ及びません」


 私は録音を止めた。


「佐藤直樹。離婚しましょう」


 直樹が顔を上げた。


「何だって?」


「離婚するの」


 私は真央が用意してくれた離婚協議書をテーブルに置いた。


「内容は明確です。このマンションは私の特有財産。あなたに分けるものはない。私の預金と私物も私のもの。あなたには出ていってもらいます」


 直樹の顔から血の気が引いた。


「綾乃、そんなことできるわけないだろ。俺たちにはまだ情がある」


「情?」


 私は笑った。


 涙が出そうだった。


「あなたが母親と妹に私を傷つけさせた時点で、そんなものは終わっている」


 義母が甲高い声を上げた。


「私は認めません! 佐藤家に離婚した嫁なんていないのよ。そんなことをされたら、うちの顔はどうなるの」


「それは佐藤家の顔でしょう」


 私は彼女を見た。


「私の人生ではありません」



 7


 直樹は署名しなかった。


 予想どおりだった。


 翌日、私は証拠を整理して真央に渡した。


 真央はそれを見て、表情を固くした。


「十分よ。離婚調停を申し立てましょう」


 私はうなずいた。


「お願い」


 けれど、私が法律の手続きを進める一方で、義母は親族の前で被害者を演じ始めた。


 私が親不孝だと。


 子どもを産まないと。


 佐藤家を見下していると。


 マンションを持っているから夫や婚家を馬鹿にしていると。


 数日後、佐藤家のLINE親族グループに、ある親戚が半分冗談のように書き込んだ。


「直樹の奥さん、節子さんと揉めているんだって? 家族なんだから、あまり意地を張らないほうがいいよ」


 別の親戚も続けた。


「女は結婚したら家庭を大事にしないと。強すぎると損をするよ」


 私はその文字を見て、冷たく笑った。


 始まった。


 家の恥を外に出すな、という言葉の本質は、私に黙れという命令でしかない。


 その夜、私は録音を短く整理した。


 そして佐藤家のLINE親族グループを開いた。


「皆さま。私と佐藤家のことをご心配いただいているようなので、この三年間、私がどんな扱いを受けてきたのか、聞いていただきたいと思います」


 私は録音を一つずつ送った。


 義母が子どもを急かす音声。


 美緒が私の身体を嘲る音声。


 私のマンションを美緒に渡す相談。


 直樹が「お前のものは佐藤家のもの」と言った会話。


 グループは、しばらく死んだように静かだった。


 数分後、メッセージが爆発した。


「これ、本当に節子さんの声?」


「ひどすぎる。今どき男の子を産めなんて」


「美緒ちゃん、妹の立場でどうしてこんなことを言えるの」


「直樹、お前は自分の妻がここまで言われて黙っていたのか」


「節子さん、普段は嫁を大切にしていると言っていたのに、裏ではこれ?」


 義母はすぐに書き込んだ。


「録音は偽物です! 編集されています!」


 すぐに誰かが返した。


「節子さん、あなたの声くらい分かりますよ」


「言い訳は見苦しい」


 美緒は何も言わなかった。


 普段は甘えた絵文字ばかり送る彼女が、その夜は完全に消えた。


 直樹から電話が来た。


 私は出なかった。


 すぐにメッセージが届いた。


「綾乃、ここまでやる必要があるのか」


 私は返した。


「私がひどいのではありません。あなたたちが私をそこまで追い詰めたのです」


 返事はなかった。


 その夜、義母と美緒は親族の前で完全に面目を失った。


 けれど、それが目的ではない。


 私は彼女たちに恥をかかせたいのではなかった。


 私は、ただ生き延びたかった。



 8


 大学時代の友人に、小林陽子という女性がいる。


 卒業後、彼女は東京の女性誌編集部に入り、その後は地方ニュースサイトで、結婚、職場、女性の権利に関する記事を書いていた。


 私は陽子に電話をかけた。


「陽子。話したいことがあるの。記事になるかもしれない」


 私の話を聞き終えると、彼女は長く沈黙した。


 そして言った。


「綾乃、それはただの家庭内トラブルじゃない。婚姻関係の中での精神的な支配と、財産を取り込もうとする行為だよ」


 私は小さく笑った。


「書いてくれる?」


「書く。ただし、あなたの個人情報は守る。証拠も確認したうえで使う」


 数日後、記事が公開された。


 タイトルはこうだった。


「長男の家に嫁いで三年。催促、侮辱、そして婚前マンションまで狙われた女性の告白」


 記事に私の実名はなかった。


 それでも、佐藤家の人間には分かったはずだ。


 公開後、記事は大きく広がった。


 コメント欄には、たくさんの女性が書き込んだ。


「リアルすぎる。私も義母に子どもを急かされた」


「日本の家庭って、表面は礼儀正しいのに、嫁への圧力は本当に陰湿」


「一番怖いのは夫。悪人ではないふりをして、何もしない」


「この人に家と証拠と友人があって本当によかった」


 直樹を批判する声も多かった。


「典型的なマザコン夫」


「母親の言いなりなら、結婚なんてするな」


「妻の財産を家族共有の資源みたいに扱うのが気持ち悪い」


 やがて、直樹の会社にも影響が出始めた。


 取引先の中に記事を読んだ人がいて、親戚づたいに話が伝わったらしい。


 契約がいくつか取り消された。


 社内でも噂になった。


「佐藤課長って、妻を離婚調停まで追い込んだ人でしょう?」


「妻の婚前マンションを妹に使わせようとしたらしいよ」


「そんな人に顧客対応や経理を任せて大丈夫なのか」


 直樹は追い詰められた。


 電話が何度も来た。


 私は出なかった。


 彼がマンションの下で待っていたときは、すぐに警察へ相談した。


 メッセージも届いた。


「綾乃、話そう」


「本当に反省している」


「記事を消してもらえないか」


「会社にまで影響している。俺は死ぬかもしれない」


 その文字を見ても、心は動かなかった。


 彼らが私を傷つけていたとき、私が壊れるかもしれないとは考えなかった。


 私のマンションを狙ったとき、私が行き場を失うとは考えなかった。


 今、自分たちに返ってきて、ようやく痛みを訴える。


 遅すぎる。



 9


 離婚調停が始まる前、直樹は義母と美緒を連れてマンションへ来た。


 その日、私は会社から戻ったばかりだった。


 玄関前に立つ三人を見て、足が止まった。


 直樹は憔悴していた。


 目は赤く、髪も乱れている。


 義母も以前のような勢いはなく、古い上着を着て、ずいぶん老けて見えた。


 美緒は後ろでうつむき、目を腫らしていた。


 直樹は私を見るなり、その場に膝をついた。


「綾乃、悪かった」


 私は玄関に立ったまま動かなかった。


 彼は私の足にすがり、涙声で言った。


「本当に分かったんだ。母さんの言うことばかり聞いて、お前を傷つけた。マンションを当てにしたことも間違っていた。頼む、許してくれ。これからは何でもお前の言うとおりにする」


 義母も近寄ってきて、私の手を握った。


「綾乃さん、昔のことは全部私が悪かったの。年を取って、分からなくなっていたのよ。子どもを急かしたことも、マンションのことも、本当に悪かったわ。これからは実の娘のように大切にするから」


 美緒も泣きながら言った。


「綾乃さん、ごめんなさい。私、わがままでした。ひどいことを言って、本当にごめんなさい。兄に免じて、もう一度だけ許してください」


 三人の涙を見ても、心は少しも揺れなかった。


 私は、もう何度も鰐の涙を見ている。


 そっと手を引いた。


「急にそんなに優しくなるなんて、何かあったんですか」


 三人が同時に固まった。


 私は直樹を見た。


「会社、もう持たないの?」


 直樹の顔が一瞬で白くなった。


「どうして……知っているんだ」


 私は笑った。


「私が、何も知らない高橋綾乃のままだと思っていたの?」


 スマホを取り出し、別の録音を再生した。


 数日前、直樹と義母がリビングで話していたものだった。


「会社の資金繰りがまずい。綾乃に助けてもらえなければ終わる」


「まずはあの子を落ち着かせなさい。マンションを担保に入れるか、預金を出してくれれば、会社はまだ助かるわ」


「乗り切ったら、あとはまた考えればいい」


 録音が終わると、直樹は石のように固まった。


 義母の顔は灰色になった。


 美緒は顔を上げられなかった。


「つまり、今日の謝罪はこれが理由なのね」


 私は三人を見た。


「本当に反省したからではない。直樹の会社にお金が必要だから。私のマンションを担保にして、穴埋めをさせたいから」


 直樹が慌てて言った。


「綾乃、確かに俺は間違えた。でも今は本当にどうしようもないんだ。会社が潰れたら、俺は全部失う」


「それが私に何の関係があるの?」


 彼は固まった。


 私は一語ずつ言った。


「佐藤直樹。私たちはもう離婚調停に進むところよ。あなたの会社が潰れるかどうかは、私には関係ない」


「夫婦だっただろう!」


「夫婦?」


 私は笑った。


「あなたは私を妻として扱った? 佐藤家の子どもを産む道具、感情のゴミ箱、金を出す財布、最後の救命ボート。あなたにとって私は、それだけだった」


 直樹の顔が歪んだ。


 彼は立ち上がり、目つきを変えた。


「綾乃、そんなに冷たくするな。お前が助けてくれなければ、俺は本当に終わる」


「それはあなたの問題よ」


「俺を追い詰める気か!」


 彼は突然、私のスマホを奪おうとした。


 私は準備していたように一歩下がり、すぐに警察へ電話をかけた。


「すみません。自宅の前で脅され、携帯を奪われそうになっています」


 直樹は呆然とした。


 数分後、警察が来た。


 私は今の脅しの録音を渡し、以前からマンションの下で待ち伏せされていたことも説明した。


 直樹は事情聴取のため連れていかれた。


 義母と美緒は青ざめ、何も言えなかった。


 私は玄関で二人を見た。


「今日から、二度とこのマンションに来ないでください。来たら、また警察を呼びます」


 義母は唇を震わせたが、もう罵らなかった。


 美緒は彼女を支え、逃げるように去っていった。


 ドアが閉まった瞬間、私は玄関にもたれて長く息を吐いた。


 この茶番も、ようやく終わりに近づいていた。



 10


 離婚調停は、簡単には進まなかった。


 直樹は最初、離婚に同意しなかった。


 まだ愛情があると言った。


 一時的に間違えただけだと言った。


 母は年を取っているから、言葉を真に受けるなと言った。


 私がネットに話を出したせいで、自分が傷ついたとも言った。


 真央は冷たく尋ねた。


「佐藤さん。傷つけられたのはあなたですか。それとも、長期間にわたって出産を迫られ、侮辱され、婚前財産まで狙われた高橋さんですか」


 直樹は黙った。


 義母は調停委員の前で、慈悲深い姑を演じようとした。


「私はただ孫が見たかっただけなんです。親なら誰でもそう思うでしょう。悪気はなかったんです」


 真央はLINEのスクリーンショット、音声データ、録音の文字起こし、マンションの書類を並べた。


「悪気がなかった、というのは、私の依頼者に長期間にわたり男児を授かる方法を送り、排卵日を尋ね、娘さんと一緒に婚前マンションを使わせる相談をしていたことを指すのでしょうか」


 義母の顔が固まった。


 美緒は調停に来なかった。


 聞いたところによると、婚約話はなくなったらしい。


 相手側が記事と親族グループの騒動を知り、佐藤家との縁談は面倒だと判断したのだという。


 美緒は家で泣き叫び、私のせいで結婚できなくなったと罵っているらしい。


 でも、それはもう私と関係ない。


 一回目の調停はまとまらなかった。


 二回目で直樹はようやく離婚に傾いたが、今度は私のマンションの値上がり分を分けろと言い出した。


 真央は準備していた。


 婚前の購入証明、ローンの契約書、私個人の返済履歴、直樹が住宅ローンを負担していなかった記録。


 直樹の主張は通らなかった。


 やがて調停は不成立となり、私たちは離婚訴訟へ進んだ。


 裁判の日、天気はよかった。


 私は濃紺のスーツを着て、真央と一緒に裁判所へ入った。


 直樹は被告席に座っていた。


 顔はやつれ、以前のような自信はなかった。


 直樹の弁護士は、これを「普通の家庭内の行き違い」と説明しようとした。


 しかし真央は、一つずつ事実を並べた。


 長期間の出産の強要。


 言葉による侮辱。


 夫の不作為。


 義母と義妹による婚前財産への干渉。


 さらに会社の危機を理由に、私のマンションを担保に入れさせようとしたこと。


 録音、スクリーンショット、証言。


 証拠が一つずつ提出された。


 直樹は何度も説明しようとしたが、言葉は弱かった。


「虐待なんてしていません。ただ、母と妻の間でどうしたらいいか分からなかったんです」


 真央が問う。


「分からなかったから、妻にすべての圧力を受けさせたのですか」


 直樹は黙った。


「あなたの母親が男児の出産を求めたとき、止めましたか」


 沈黙。


「あなたの妹が高橋さんの身体を侮辱したとき、守りましたか」


 沈黙。


「高橋さんの婚前マンションを、妹さんのために使えると発言しましたか」


 直樹の顔が白くなった。


「家族だから……と思っただけです」


 真央は冷たく言った。


「家族とは、妻の個人財産を佐藤家の共有資源として扱うことなのですか」


 直樹は、もう何も言えなかった。


 裁判の終わりに、彼は私を見た。


 すがるような目だった。


「綾乃、本当にやり直せないのか」


 私は静かに見返した。


「無理です」


「本当に反省している」


「では、その反省を抱えて、あなた自身の人生を生きてください」


 私は言った。


「二度と私に関わらないで」


 最終的に、裁判所は離婚を認めた。


 マンション、婚前財産、私個人の預金はすべて私のもの。


 直樹に分けるものはない。


 判決を聞いたとき、私は泣かなかった。


 ただ目を閉じ、深く息を吸った。


 三年の結婚が、ようやく終わった。



 11


 裁判所を出ると、階段に陽が落ちていた。


 真央が隣で笑った。


「どう?」


 私は少し考えた。


「窓のない部屋から、ようやく外に出たみたい」


 真央は私の肩を軽く叩いた。


「綾乃、おめでとう」


 遠くの空を見上げると、東京の空気が今までになく澄んでいる気がした。


 その後、直樹の会社は結局倒れた。


 取引先が離れ、資金繰りが詰まり、彼はあちこちに頭を下げたが、助ける人はいなかったという。


 かつての彼は、体面を大事にした。


 自分は佐藤家の長男だと信じ、周囲が自分を立てるのは当然だと思っていた。


 けれど、いざ落ちると、面子など薄い紙だった。


 義母と美緒も埼玉の実家へ戻った。


 親戚の間では噂が絶えなかったらしい。


 義母は買い物に出るたび、近所の人に見られるのを気にするようになったという。


 美緒は縁談が壊れ、家で義母と何度も口論し、やがて友人と部屋を借りて出ていったらしい。


 誰かがそんな話を伝えてくれた。


 私は淡々と聞いた。


 同情はなかった。


 かといって、落ちていく彼らを見て喜ぶ気持ちもなかった。


 今日の結果は、彼らが自分たちで選び続けた道の先にあっただけだ。


 私はかつて、彼らを家族だと思おうとした。


 直樹と一緒に家を作っていきたいと、本気で考えたこともあった。


 けれど、人があなたを道具としてしか見ないなら、どれだけ努力しても愛にはならない。


 離婚後、私はマンションをリフォームした。


 リビングのダイニングテーブルを捨てた。


 結婚したとき、義母が「濃い木目の家具は落ち着いていて家庭らしい」と言って買わせたものだった。


 見るたびに、あの息苦しい食卓を思い出した。


 代わりに、明るい色の丸テーブルを置いた。


 ソファはアイボリーの布張りに替えた。


 寝室の暗いベッドも処分した。


 カーテンは淡いブルー。


 ベランダにはミントと紫陽花を植えた。


 部屋全体が、息を吹き返したようだった。


 私自身も、同じだった。


 仕事も変えた。


 銀座近くの、将来性のあるデザイン会社へ転職した。


 新しい同僚たちは親切で、プロフェッショナルで、人との距離を分かっていた。


 誰も、私に子どもの予定を聞かない。


 誰も、女の年齢で私を測らない。


 私は生活を組み直した。


 火曜の夜はヨガ。


 週末は水彩画教室。


 ときどき真央と映画を見て、代官山で本屋を回り、表参道でコーヒーを飲んだ。


 一人でも、暮らしは十分に満ちていた。


 義母の小言はない。


 義妹の嫌味もない。


 夫の冷たさと計算もない。


 この家は、やっと私だけのものになった。


 私はもう、家庭の平和のために自分を削らなくていい。


 傷つけられたあと、傷つけた相手を慰めなくていい。


 私は高橋綾乃でいられる。


 ただ、高橋綾乃で。



 12


 数か月後、真央と代官山のカフェで会った。


 窓の外には初夏の緑があり、通りには風鈴の音がかすかに響いていた。


 真央は私を見て笑った。


「最近、本当に顔色がいいね」


 私はコーヒーをかき混ぜながら笑った。


「そうかも。昔は、いつも誰かの期待の中で生きていた気がする。義母を怒らせないように、直樹を困らせないように、周りに『気が利かない嫁』だと言われないように。でも、あれは私の期待じゃなかったんだよね」


 真央はうなずいた。


「あなたの人生は、最初からあなたのものよ」


 そして、少し目を細めた。


「ところで、最近ちょっと雰囲気が違うけど」


 私は固まった。


「どこが?」


「恋している顔」


 コーヒーを吹き出しそうになった。


「やめてよ」


 真央はさらに笑った。


「やっぱり。誰?」


 私は下を向いた。


「新しい会社の同僚。桐谷蓮さん」


「聞かせて」


 蓮は私より二歳年上で、会社の技術責任者だった。


 初めてきちんと話したのは、プロジェクト会議のあとだった。


 入社したばかりの私は、社内システムの流れが分からず、会議室に残って資料を整理していた。


 通りかかった彼が、足を止めた。


「手伝いましょうか」


 私は断ろうとした。


 けれど彼の態度には、上から目線も、過剰な親切もなかった。


 ただそこに立って、私の返事を待っていた。


 結局、彼は流れを整理してくれ、注意点を付箋に書いて残してくれた。


 踏み込みすぎない。


 押しつけない。


 ちょうどいい優しさだった。


 会社の飲み会の日、私は少し飲みすぎた。


 彼は周りのようにからかわず、「女の人が酔うと面倒だ」とも言わなかった。


 水を差し出し、低い声で聞いた。


「タクシー、呼びましょうか」


 それから、少しずつ親しくなった。


 残業の日には温かいお茶を置いてくれる。


 仕事の悩みを、最後まで聞いてくれる。


 展覧会に誘ってくれることもあれば、私が「今日は外に出たくない」と言うと、それも尊重してくれる。


 彼といると、初めて楽だと思えた。


 相手が怒っているのかを探らなくていい。


 言葉を間違えたかと怯えなくていい。


 関係の中で、自分の価値を証明し続けなくていい。


 真央は聞き終えると、嬉しそうに笑った。


「いい人そうね」


 私は照れながら笑った。


「まだ付き合っているわけじゃない。ただ、一緒にいると楽なの」


「それでいいよ。焦らなくていい。綾乃が楽しくて、安全で、尊重されていると思えること。それだけで十分」


 私はうなずいた。


「分かってる」


 佐藤家を離れてから、私はすぐに恋愛を信じられたわけではない。


 結婚というものは、牢獄なのかもしれないと思った時期もあった。


 でも蓮と出会って、少しずつ分かってきた。


 本当にいい関係は、消耗ではない。


 誰かが誰かに犠牲を強いるものではない。


 親しさの名で縛るものでもない。


「あなたのため」と言いながら、相手の生活を奪うものでもない。


 いい関係とは、二人がどちらも呼吸できることだ。


 二人がどちらも、自分でいられることだ。



 13


 直樹の消息は、たまに以前の同僚から届いた。


 ある日、山口さんからメッセージが来た。


「綾乃さん、聞いた? 佐藤直樹の会社、完全に潰れたらしいよ」


 私は画面を見て、静かに返した。


「そうなんですね」


「かなり借金があるみたい。取引先も離れたし、今は仕事を探しているけど、業界では噂が回っていて、どこも採りたがらないらしい」


 私はそれ以上、深く聞かなかった。


 山口さんは続けた。


「お母さんと妹さんも実家に戻ったらしいよ。近所でいろいろ言われているみたい。美緒さんの結婚もなくなったとか」


 私はその文字を見ても、心が動かなかった。


 かつては、彼らが不幸になったと聞いたら胸がすっとすると思っていた。


 でも実際には、遠いニュースを聞いているような気分だった。


 善悪には報いがある。


 その言葉がいつも正しいとは思わない。


 それでも、人は自分の選択の結果から逃げられない。


 直樹の弱さと身勝手さ。


 義母の支配欲と欲深さ。


 美緒の幼さと残酷さ。


 それらは、最初から彼らの生活を壊す種だった。


 私は救わない。


 嘲笑もしない。


 ただ、二度と私の人生に入ってこないでほしい。


 それだけだった。


 私の人生は、もう次のページに進んでいる。


 振り返るつもりはなかった。


 すべてが終わったことを祝うため、私は真央と沖縄へ行くことにした。


 離婚後、初めての遠出だった。


 海沿いのホテルに泊まり、毎日自然に目が覚めるまで眠った。


 海辺を歩き、泳ぎ、日差しを浴びた。


 沖縄そば、海ぶどう、ゴーヤーチャンプルー、青い海塩アイス。


 首里城の近くを歩き、国際通りで、役には立たないけれど可愛いものをたくさん買った。


 夕方、私たちは浜辺に座り、夕日が海へ沈んでいくのを見ていた。


 オレンジ色の光が空一面に広がる。


 海風が髪を揺らした。


 真央が隣でぽつりと聞いた。


「綾乃、本当に手放せた?」


 私は遠い海を見つめ、長く考えた。


 それから、うなずいた。


「うん。手放せた」


 許したわけではない。


 忘れたわけでもない。


 ただ、あの人たちを、これ以上私の人生の中に住まわせないと決めただけだ。


 過去は、私の身体に傷跡として残っている。


 けれど、その傷はもう血を流していない。


 かつて痛かったことを教えてくれる。


 それでも私は生き延びたのだと、教えてくれる。


 真央がそっと私の肩に触れた。


「なら、よかった」


 私は笑った。


「真央、ありがとう」


「何よ、急に」


 彼女も笑った。


「私はあなたの実家みたいなものなんだから」


 私は声を出して笑った。


 夕日が沈み、海はやわらかな濃紺へ変わった。


 裸足の足元に、波が寄せては返る。


 そのとき、結婚の日に義母が言った言葉を思い出した。


「佐藤家に嫁いだ以上、あなたは佐藤家の人間よ」


 あのとき私は、それを受け入れの言葉だと思った。


 けれど、本当は違った。


 あれは、私を飲み込むための言葉だった。


 彼女たちは、私の名前を飲み込み、境界線を飲み込み、家を飲み込み、人生そのものを飲み込もうとした。


 でも今、私は少しずつ自分を取り戻した。


 もう佐藤家の嫁ではない。


 直樹の妻でもない。


 義母の目に映る、子どもを産む道具でもない。


 美緒が当然のように踏みつける義姉でもない。


 私は高橋綾乃だ。


 自分の家がある。


 仕事がある。


 友人がいる。


 未来がある。


 海風が吹いた。


 私は目を閉じ、過去に向かって小さく言った。


「さようなら」


 そして目を開け、遠くを見た。


「こんにちは、未来」


 これからの道が長いことは分かっている。


 私はいつも強くいられるわけではない。


 ふとした夜に、あの息苦しい日々を思い出し、怖くなることもあるだろう。


 けれど、もう怯えない。


 私は出てきた。


 これから何があっても、自分の人生を他人の手に預けたりしない。


 私は、自分の人生をしっかり握って生きていく。


 今度こそ、もう譲らない。


 もう見失わない。


 私はきっと、幸せになる。


 彼らが想像するよりもずっと。


 そして、かつての私が想像していたよりも、ずっと。





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