第1話「この地図、絶対おかしい」
旅に出て三日目、アリアは盛大に道に迷っていた。
地図なんて最初から持っていなかった。村を出るとき、幼馴染が「せめて地図くらい持って行きなよ」と泣きそうな顔で言ったが、アリアには「とにかく王都方面に行けばなんとかなる」という根拠のない自信があった。
その自信は、鬱蒼とした森の中で完全に砕け散っていた。
「…………どこ、ここ」
木々の隙間から空を見上げると、日が傾き始めている。まずい。このままでは野宿になる。財布の中身はあと銅貨三枚しかない。熊や魔物が出たらどうする。
父親が死んで少し経った頃、取り立て人がやってきた。生前に交わした魔法の借用書を持って。
この王国において、魔法の借用書はさほど珍しいものではない。ただ、普通の紙切れと違うのは、契約条件が魔力で刻まれている点だ。もし条件を破れば、その瞬間に強制的な罰が発動する――逃げ場のない呪縛。それが魔法の借用書だった。
父が借りた額は、金貨三十枚。
数年前、母が重い病に倒れた際、父がその命を救いたい一心で工面した金だった。担保に入れられたのは、家畜と農具。そして、万が一返済が滞った場合は『父自身が取り立て人のもとで労働奉仕に服す』という過酷な条件が添えられていた。
父は借りた金のすべてを治療費に注ぎ込んだが、その甲斐もなく、母は半年後にこの世を去った。父もまた、最愛の妻を追うようにして、一年も経たぬうちに病で後を追ってしまった。
父が息を引き取った瞬間、魔法の契約は残酷にも娘であるアリアへと継承された。
父の闘病中に返済が滞っていたため、家畜も農具もすでに差し押さえられている。今の私に残されたのは、膨大な借金と、自分自身の「自由」を担保にした契約の続きだけだ。もし返済が止まれば、私は取り立て人の所有物として、強制的に働かされることになる。
両親を恨む気持ちなんて、これっぽっちもない。母を助けようと必死だった父の背中を覚えているから。けれど、残された私にあるのは、三十枚の金貨という重すぎる枷と、私の人生を縛り付ける魔法の書面だけだった。
村にいても稼げる仕事は限られている。だから旅に出た。王都で働けば、月に金貨二枚は稼げると聞いていた。何年か真面目に働けば返せる計算だ。
アリアは借用書の写しをポケットに入れて、村を出た。
途方に暮れながら歩いていると、木々の隙間にぼんやりと明かりが見えた。
近づいてみると、森の中にぽつんと小屋があった。煙突から煙が出ていて、窓から温かい光が漏れている。扉には小さな木の看板がかかっていて、「迷い人歓迎」と書いてあった。
「……怪しい」
怪しいと思いながらも、他に選択肢がない。アリアは扉をノックした。
「どうぞ」
返事があったので中に入ると、皺だらけの老婆が椅子に座ってお茶を飲んでいた。小屋の中は物で溢れていて、棚には瓶や本や謎の道具が所狭しと並んでいる。
「あらあら、迷い人かい。まあ座りな」
「あの、ここは……」
「森で迷った人が辿り着く小屋だよ。さて、何が必要かね」
「地図……地図はありますか。道に迷ってしまって」
「地図! あるよ、あるよ。特別なやつがね」
老婆が棚から取り出したのは、古びた地図だった。羊皮紙に金色のインクで模様が描いてあり、端がほつれている。どう見ても普通ではない。
「これはねえ、魔法の地図だよ。行きたい場所を念じると、そこへの道を示してくれる」
「魔法の地図……おいくらですか」
「銅貨三枚でいいよ」
アリアの財布の中身と完全に一致している。
「……買います」
即決だった。
老婆はアリアの癖のある茶色い髪と、きょろきょろと動く緑がかった瞳をしばらく眺めてから、にこにこしながら地図を渡してくれた。受け取る際、皺だらけの手がアリアの手をぽんと叩いた。
「一人旅かい」
「はい。お金を稼ぐために」
「そうかい。……気をつけてね」
なんでもない言葉のはずなのに、胸にじんと染みた。両親が死んでから、こういう言葉をかけてくれる人がいなくなっていた。アリアは少し俯いてから、顔を上げて笑った。
「ありがとうございます」
小屋を出て、さっそく試してみることにした。地図を両手で持ち、目を閉じて念じる。
(一番近い宿を教えてください)
すると地図がぼんやりと光り、金色の線が現れた。アリアはその線を辿りながら森の中を歩いていく。
「おお、本物だ。ちゃんと動いてる」
十五分ほど歩いたところで、線が止まった。
そこにあったのは、苔むした石造りの廃墟だった。
「…………」
窓は割れ、屋根は半分崩れている。人が住んでいる気配はない。どこからか鳥が飛び立ち、アリアはしばらく廃墟とにらみ合った。
「地図、これ宿じゃない」
地図は何も答えない。金色の線だけが、廃墟の入り口を指している。
そこでアリアはふと気づいた。
財布の中身は銅貨三枚だった。全部地図に使った。つまり今、手元にお金が一枚もない。
「……宿代、払えないじゃないですか私」
一人で突っ込んでから、頭を抱えた。地図が動いた嬉しさで、すっかり忘れていた。
「詐欺だこれ。いや、私がおかしいのか」
がっくり肩を落としたとき、廃墟の中から物音がした。アリアは反射的に身構える。魔物か。熊か。幽霊か。
出てきたのは、男だった。
年は二十代後半くらいだろうか。黒いマントを着て、手に分厚いノートを持っている。整った顔をしているが、表情がまったくない。アリアを見て、わずかに眉を上げた。
「……何者だ」
「旅人です。道に迷って、地図を頼りに来たら廃墟に案内されました」
「地図?」
「この地図です。魔法の地図らしいんですけど、たぶん壊れてます」
アリアが地図を見せると、男はちらっと見ただけでため息をついた。
「ここは俺が調査中の廃墟だ。関係者以外立ち入り禁止だ」
「知りませんでした。地図のせいです」
「地図のせいにするな」
「でも地図が案内したんです」
男はしばらくアリアを見つめ、それから空を見上げた。日はもうほとんど沈みかけている。
「……今夜はここを使っていい。廃墟だが雨は凌げる」
「え、いいんですか」
「暗い森を一人で歩かせて、何かあったら面倒だ」
ずいぶんぶっきらぼうな親切だ。でもアリアには断る理由がない。
「ありがとうございます。アリアといいます」
「……エイダンだ」
男はそれだけ言うと、さっさと廃墟の中に戻っていった。
その夜、エイダンが干し肉と堅いパンを分けてくれた。焚き火を挟んで向かい合い、二人は無言で食べた。
アリアはときどき地図をちらちらと見た。金色の線はもう消えている。
(なんでここに案内したの)
もちろん地図は答えない。
「明日はどこへ行く」
不意にエイダンが口を開いた。
「王都を目指してます。借金を返すためにお金を稼がないといけなくて」
「一人でか」
「両親はもういないので」
エイダンは何も言わなかった。ただ少しの間、焚き火を見つめていた。
「王都なら東に五日だ。朝になったら道を教える」
「助かります」
また沈黙が落ちた。焚き火がぱちぱちと音を立てる。
アリアは地図をポケットにしまいながら思った。魔法の地図にしては、ずいぶんと変な場所に連れてきてくれたものだ。廃墟に、無愛想な男。
でもまあ、野宿よりはましか。
(次はちゃんと案内してね)
心の中でそう念じながら、アリアは焚き火の温もりに目を細めた。




