文化祭準備⑤
そいつは今、俺たちの前で元気に歌おうとしている。
「――ふう、終わったよ」
額に浮かぶ汗を拭って鈴音は歌い終わる。どこか緊張したように、口をきゅっと締め直したのが印象的だった。
しばらくの沈黙。
そして次にあるのは誰からでもない、全員同時に発していた拍手の音。
「鈴音ちゃん! プロみたいだ!」
「びっくり。でも、透き通るみたいに満たされた感じがする」
「あ、あなた本当に人前で歌ったの初めて? 十分、いえ予想を遥かに超えてたわよ……」
拍手と同時に各々感想を述べる。
鈴音の歌は、それほどに完成されたものだった。最初はステップ踏んでたのに、意外としっとり系の選曲なのには驚いたが途中からはそんなこと頭に無い。名前通り鈴の音色のように、心にとけ込んできた。俺の世界にはその瞬間鈴音しか存在しておらず、心を完全に掴まれていたのだ。
「……優作は、どうだった?」
「え、ああ。すごく、綺麗だった」
「きれい!?」
しまった。突然聞かれたから口が滑った。歌の感想にしては恥ずかしい言葉だけどそれが本心なんだろう。
鈴音は人前で歌ったのが初めてで評価して貰えたことが嬉しいのか、顔を真っ赤にして俯いていた。
「うう、その、ありがと」
「照れること無い、みんなも褒めてただろ? 他の人に知られるのは勿体ないくらいだよ。」
「そ、そうなんだ……。嬉しい」
あれ、なんだこれ?
なんか、甘酸っぱい匂いがするような……。
「すごくよかったよ鈴音。山元そこどいて」
突然俺と鈴音の間にアリスが入ってくる。こいつがここまで身を乗り出して褒めるなんて、いよいよ鈴音の歌は本物だな。
「ねえ友華ちゃん」
「何かしら孝宏」
「僕さあ、あいつ殺したい」
「落ち着きなさい。そのうちお前にも来るはずよ、そういう時期は」
「その内っていつさ」
「えーと、七十年後くらい?」
「ちくしょお!」
「落ち着きなさい。ほらこれ、幸福になれるシャーペンよ」
「んなもんあるかあ! 急にオカルトっぽいこと言うなよお!」
学校行事を控えて、いつもよりも少しだけ浮足立った日常。みんなでワイワイ騒いで馬鹿みたいなことをする日々。
このような状況が続いているせいで、順調に事が運びすぎている違和感なんて感じなかった。
部活の廃部問題はこのままいくと確実に回避できる。
そう、このときの俺は考えていた。
アリスの件で学んだのにな。
世の中は人間が苦しむように出来ているってことを。
だから燃えるような夕焼けが部室を怪しく照らし、俺たちの事を嘲笑っていることに、誰も気付くはずもなかった。
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「へいらっしゃい!」
喫茶店の挨拶ではない声が開口一番放たれる。
「ラーメン屋? って、のわあ!」
「んまあ、かわええなあ! アリスの友達やんな! 頬スリスリ!」
「お母さん! 怒るよ!」
「ええ、アリスちゃんのお母さん? この人が……」
「似てなさすぎというか、姉のようね」
「あらーこの子もかわええなあ」
「マスター、落ち着けって。アリスが顔抑えてうずくまってるぞ」
放課後、訪れたアリスの家。喫茶店【司】でひと悶着あったのはまた別の話だ。




