帰還
決戦から一月が経った。世界は、まだ元の形を取り戻せずにいた。
ヴァンダールの城下には、他国から流れてきた避難民のための仮設の家々が、所狭しと立ち並んでいた。城壁の修復どころか、押し寄せる人の波を受け止めるだけで、街は精一杯だった。それでも、リゼルは連日、各地の商人や旧臣たちと交渉に飛び回り、疲れた顔の中にも、確かな芯の強さを見せていた。
炊き出しの列に並ぶ人々の中に、見覚えのある顔があった。ネスラとの一件で世話になった、あの国境の村の老人だった。
「――お前様は」
老人は、杖を突きながら、リゼルの前に進み出た。とっさに身構えたリゼルに、しかし老人は深々と頭を下げた。
「村を毒から救ってくれた、あの時の礼を、まだ言えていなかった」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「当然、か」
老人は、乾いた声で笑った。
「城の水を、儂らの村にも分けてくれと、若い頃に何度も陳情に上がったことがある。……返事は、いつも同じだった。『順番を待て』とな。待っているうちに、儂の妻は死んだ」
リゼルの顔から、血の気が引いていく。
「……知りませんでした」
「知らんでいい身分だったんだろうさ、お前様は」
皮肉ではなく、ただ事実を述べるような声だった。
「だが、この炊き出しの列に、お前様が自分で立っているのを見て、少しは変わったのかもしれんと思ってな」
老人は、それだけ言うと、杖を突きながら去っていった。リゼルは、しばらくその背中を見送っていた。
(――水を分けてもらえない村で、何十人も看取った、と、ネスラは言った)
その言葉の意味が、今更のように、重く胸に沈んでいく。故郷を取り戻すということは、ただ城壁を直し、旧臣を集めることではないのかもしれない。リゼルは、拳を強く握りしめた。
「――今日で、東の避難区画の炊き出しの目処が立ったわ」
「早いな、もう」
「早くなんてないわよ。何年分の遅れを取り戻していると思ってるの……なんて、今言うのは違うわね。まずは、今日を生き延びること」
軽口も、以前より僅かに硬さを帯びていた。フィアは相変わらず街の子供たちに芸を披露しては小遣いを稼ぎつつ、時折、北方第三施設の消息を追う情報屋に通っていたが、色よい返事は一向に得られずにいた。
ゼロは、というと。
「――また、これか」
自室で一人、掌に小さな氷の刃を生み出そうとして、思い通りの形にならず、苦い顔をしていた。決戦の夜に見せた、あの武器の変化は、平静な今ではどうしても再現できない。焦れば焦るほど、氷は歪な塊のまま砕けて消えていく。
(あの力は、本当に俺のものなのか)
イグナートの最後の言葉が、ふとした瞬間に蘇る。――お前はまだ、その先には至っていない。あの言葉の意味を、今もまだ、掴みきれずにいた。あの夜、力及ばず世界に走った罅のことを思うと、なおさら。
夜、井戸端で涼んでいると、リゼルが隣にやってきた。
「浮かない顔ね」
「覚醒の時の力、あれから一度も、ちゃんと出せてないんだ」
「そう」
「あの時だって、結局、世界の傷を防げなかった。中途半端に力を使えたところで、何になるのか……最近、そう思うことがある」
リゼルはしばらく黙って、赤黒い光がまだ薄く滲む夜空を見上げていた。
「――止めきれなかったのは事実。でも、あなたが何もしなかったら、もっと酷いことになっていた。それも事実よ」
「……分かってる。頭では」
「だったら、探しましょう。今度こそ、間に合わせるために」
その言葉に、ゼロは小さく頷いた。
ふと、リゼルが思い出したように口を開いた。
「――そういえば、あなたとの契約、とっくに期限切れよ」
「え」
「ヴァンダール国内までの護衛、って話だった。もう何ヶ月も前に、その範囲は超えてる」
ゼロは、少し面食らった。
「今更、それ言うのか?」
「言っておかないと、けじめがつかないでしょう」
リゼルは、まっすぐにゼロを見た。
「だから、聞くわ。――あなたは、なぜ、まだここにいるの」
問われて、ゼロはしばらく考えた。答えは、思ったよりも早く見つかった。
「報酬のためじゃない。行くところが他にないから、でもない」
「じゃあ、何」
「――まだ、終わってないことがあるからだ。あの夜、止めきれなかった世界の傷のこと。《終環》のこと。それに」
少し言い淀んでから、ゼロは続けた。
「リゼルが、どうなるのか。ちゃんと、見届けたい」
リゼルは、しばらく黙っていた。それから、ふっと、小さく笑った。
「――随分、遠回りな言い方するのね」
「柄じゃないんだ」
「いいわよ、それで」
リゼルは、夜空を見上げながら、静かに続けた。
「私も、もう、あなたを『護衛』だなんて思ってない。とっくに、そんな言葉じゃ足りなくなってる」
それ以上、二人とも、何も言わなかった。ただ、隣に並んで、まだ消えない赤黒い光の帯を、しばらく見上げていた。
数日後、街道の向こうから、土埃を上げて一頭の早馬が駆け込んできた。乗っていたのは、以前ネスラの一件で世話になった村の若者だった。
「大変だ! 東の空に、見たこともない飛空艇が……! それに、あの紋様が――」
差し出された報告書には、見覚えのある、蛇が尾を飲み込む紋様が描かれていた。
リゼルとゼロは、思わず顔を見合わせた。
「――終わってなかった、ってことね」
「みたいだな」
窓の外、まだ消えない赤黒い光の帯が走る北の空を見上げながら、ゼロは静かに拳を握った。
(次は、逃げない。今度こそ、ちゃんと使いこなす)
旅は、まだ終わっていなかった。




