13.
それからさらに数日をかけて、第一層の状態が調べ抜かれた。人工水路へ流した濁液は、さらに下方にある大きな空洞へ誘導され、そこで安全に処理できることがわかった。〈巣〉だった窪地には、もう新しい魔物は生まれることはなかった。
一日。
二日。
三日。
時間が経ってゆくが、何も事件は起こらない。
「まだ出ないね」
ゼスフィが窪地を覗き込む。その泥はすでに表面から乾き始め、何か灰色の膜が張っていた。
「出なくていい」
エネオラが答える。
「でも、何かちょっと寂しくない?」
「ぜんぜん」
「冒険者としてどうなの、その感想?」
が、何も出てこない。これまでなら、そろそろ魔物の幼体が泥のなかから這い出してくる頃だ。それでも、何も出てこなかった。第一層の最奥が、初めて完全に静かになった。
そして――そうなったことで、いままで採ることができなかったものが採れるようになった。窪地のさらに奥に走る、青白い鉱脈である。
以前からその存在そのものは知られていた。だが、魔物が延々と再発生しつづける場所へ、採掘人を常駐させることはできない。冒険者が見つけたとしても、せいぜい両手と背中に載る量しか持ち帰ることはできない。
そう、持ち帰れる量に限界があったのだ――いままでは。しかし、魔物たちの発生源が止まれば、その制約は消える。採掘人が入り、工具を置き、荷車を通す。置きっぱなしにできるということが、それだけで意味を持つ。
「きのうまでだれもいなかったのにな」
ジョヒアはその場を行き交う人々を眺めた。見知らぬ顔ばかりが、荷を担いで横を通り過ぎていく。
「ずいぶん賑やかになりやがった」
「嫌なの?」
ゼスフィが訊くと、かれは首を横に振った。
「いや、そうじゃない。ただ変な感じがするだけだ」
採掘された鉱石が次々と箱に詰められ、地上へ運ばれていく。
そして、その日の夕暮れ。天幕の前の机には、いつものように帳面がひらかれていた。ロザリンドが椅子へ腰かける。
「じゃあ、今回の遠征費」
「聞きたくない」
ジョヒアが即座に口を突っ込んだ。
「わたしも読みたくないわ」
ロザリンドは数字を読み上げる。石工の日当。資材。工具の損耗。追加の油。大きかった。あれほど赤字だと大さわぎした前回よりもさらに大きいのだ。
「ほら見ろ」
「まだ続きがあるわよ」
彼女はページをめくった。
「こっちが、あしたから入るはずの見込み」
一日に採掘できる量、人件費、運搬費、維持費、それらを差し引いた数字。エルドリックは頭のなかで一度計算した。もういちど検算した。答えは変わらなかったが、それでも三度目を行う。やはり、数字に変化はなかった。
「――黒字だ」
「そう」
彼女はしばらく目の前の帳面を見つめた。羽根ペンを指さきで持ったまま、動かそうとしない。それから、初めてほんの少しだけ口元を緩めた。
「これなら回るかもしれないわ」
アラリオンが黙ったまま何もいおうとしないので、ロザリンドは睨みつけた。
「何かいうことはないの?」
「予定通りだ」
「そうじゃないでしょう! ほんとうに可愛げがないわね」
ゼスフィがほろ苦い微笑を浮かべた。
「わたし、ロザリンドさんの気持ちわかるなあ。男の人って、女の子の気持ちをぜんぜんわかってくれないものだよね」
迷宮の入口にはその日のうちにも荷車が増えていった。鉱石を積む箱、採掘用の工具、あたらしく雇われた人間たち。丘へ上がってくる道に朝と夕方だけ二本のわだちが深く残るようになった。
ほんの何日かまえ、〈冒険者ギルド〉の受付は、あんな廃迷宮を買われてももうだれも困らないといった。冒険者たちはろくに使い道もない枯れた迷宮だと笑い飛ばした。しかし、ほんとうに価値がなかったわけではない。その価値を取り出す方法がなかっただけなのだ。
エルドリックはそのことをようやく理解した。アラリオンはべつだん特別な宝を見つけたわけではない。だれも知らなかった鉱脈を掘り当てたわけでもない。すでにそこにあったものを、毎日、そして来月も来年も取り出せるようにしたのである。
それこそが、この男がいうところの〈制覇〉なのだろう。
「エルドリック」
アラリオンが呼びつけた。
「はい」
「次も数えて記録に残せ」
「それだけですか」
「何かもっとほしいものがあるのか?」
「いえ、べつに」
「それなら、これで終わりだ」
そういってかれは立ち去っていった。杖と義足の音が、あくまで規則正しく遠ざかる。エルドリックは少しだけ口を尖らせた。
「不満そう」
ゼスフィがにやにやしている。
「褒めてほしかったの?」
「違うよ」
「世界一の冒険者さまは、褒められなくても平気だよね」
「だから違うって!」
だが、その日の夜には街のほうで勝手にエルドリックの不満は補われはじめた。かれが酒場へ入っていくと、扉が閉まるより早く、見ず知らずの冒険者から名前を呼ばれたのだ。
「おまえがエルドリックか?」
「そうだけれど」
「第一層の〈巣〉を潰したって?」
「いや、おれが潰したわけじゃ――」
「最後に魔物の群れを止めたんだろ?」
「それは、まあ」
「やっぱりこいつだ!」
べつのテーブルからも声が飛ぶ。杯が持ち上がり、店の奥まで顔が向いた。
「十匹以上いたって聞いたぞ」
「いや、もっといたって話だ」
「百匹以上だろ」
「増えすぎだよ!」
エルドリックは思わずさけんでいた。その場で笑声が湧きおこり、かれはさらに困惑させられた。
「ほんとうに、おれだけじゃないんです。水路のことを考えたのはアラリオンさんで、場所を決めたのは測量士さんで、掘ったのは石工さんで――」
「また始まった。だれも聞いていないよ」
ゼスフィが横で笑う。
その通りだった。エルドリックが訂正する途中でもうべつの話題が始まっている。
人の噂とは妙なものだった。水路の勾配や交代制の話よりも、ひとりの若者が魔物の群れの前に立ったという話のほうが、ずっと簡単に広がっていくのだ。
前者は複雑で憶えるのに手間がかかるのに対し、後者はいちど聞けば憶えられるからだっただろうか。その夜が終わるころには、第一層を攻略したのはエルドリックだという話になっていた。
「英雄エルドリック」
エネオラが葡萄酒の杯をかかげながらいった。
「やめてくれよ」
「夢まであと少し」
「ぜんぜんだよ」
「エルドリック、顔が嬉しそう」
「嬉しくなんかないよ」
「でも、ちょっとだけ嬉しい?」
エルドリックは答えなかった。困ったし、恥ずかしかった。間違っているとも思った。それでも、心のどこかで、ほんの少しだけ嬉しく感じる気持ちがあることも否定できなかった。そのことのほうが、もっと恥ずかしかった。
翌朝、迷宮の入口には、さらに人が増えていた。
荷車。
採掘人。
石工。
荷運び。
治療師。
測量士。
だれかがだれかに何かを訊ねている声が、丘の斜面のあちこちから聞こえてくる。
〈この迷宮一帯は私有地なり〉。
エルドリックはその看板の前で足を止めた。板はもうまあたらしくない。雨に打たれ、字のふちが滲みはじめていた。
初めて目にしたとき、それは彼らを迷宮から締め出すための言葉だった。だが、いまは少し違って見える。
その向こうには、人が作った道がある。物資を置く場所がある。危険な地点には印がある。入口から第一層の奥まで、灯が点々と続いている。迷宮そのものは、最初からアラリオンの土地である。権利書にもそう書かれている。
だが、あのくらやみまでほんとうに人間のものだったかと訊かれれば、数日前までは違ったような気がした。
「何を見ている」
となりから声がした。アラリオンだった。いつのまにか、エルドリックと同じ方向を向いて佇んでいる。
「灯です」
「そうか」
「ずっと奥まで続いていますね」
「まだ第一層だけだ」
アラリオンは入口から奥へ連なる灯をしばらく眺めていた。その数を数えているようにも見えた。
「だが、これで第一層はおれたちのものだ」
おれたち――複数形だった。
エルドリックはその言葉を耳にしてから、灯の列のさらに先へ目を向けた。最後の灯のところで光は途切れ、そこから先は何もない。そして、そのはるか奥、第二層へ下りる階段の向こうには、深く、暗い闇が垂れ込めたままだ。
「次は第二層ですか」
「そうなるな」
アラリオンが答えた。
エルドリックは、しばらくのあいだ、迷宮の入口から目を離すことができなかった。




