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5あの頃とはもう違うんだよ

芸術とは、生きていくために絶対に必要なものでしょうか?

災害や戦争の悲劇に直面したとき、ほとんどの芸術家が一度は自分に対して投げかけた疑問かもしれません。

こんなものが、なんの役に立つのか?


プロパガンダ、社会問題の提起、教育、もしくは純粋な金儲け。人類の生活に芸術を役立てるとしたらこれらの動機が思い浮かびますが、芸術ってそんなもんですか。


私は芸術は生きるのに必要なものだと思うし、多分こんなありがたみも学びも特にない素人の綴る文章をわざわざ貴重な時間を使って読んでくださっているそこのあなたも、芸術は必要だと考えていらっしゃるのではないでしょうか。私の文章が芸術だと言っているのではありませんよ念のため。


絵画、彫刻、建築、音楽、演劇、舞踏……これらのものって形は今とずいぶん違うものもあるでしょうが、紀元前にはすでに存在していました。対して現代社会を支える電気、水道、車、通信機器、安全な飲食etc.. 紀元前にあったでしょうか?


電気水道が使えなければ間違いなく我々の生活は大変なことになりますが、それが無い時代も人間は生きていました。でも芸術の無い時代に人類が生きていた記録は果たしてあるのか。アウストラロピテクスだって歌って踊ってお絵描きしてたかもしれないじゃないですか。


以前の投稿で私は、芸術を、個人が頭に思い描くストーリーを、何らかの方法を使って自分以外のものに語らせることと定義しました。


お腹が空いた、というだけの事実も、誰にも伝わらなければ無いことと同じです。誰かに認識されなければ、気持ちも出来事も存在も無いことと同じならば、芸術とはまさに、人間がこの世に存在することの意義を証明するための手段なのではないでしょうか。何言ってるか分かりませんか?大丈夫、私も分かりません。それっぽいことを言ってみたかっただけです。


さぁさぁ、さらに話がとっ散らかりますよ。


ロールシャッハテストをご存知ですか?名作『アルジャーノンに花束を』に登場する心理テストなんですが、これは実在する心理テストです。

紙の上に左右対称のインクのシミがあり、クライエントに、そのシミが何に見えるか尋ねます。その答えを分析し、クライエントの心理を探ります。


この心理テスト、心理士の知識と腕が試されるテストで、一人前の心理士になるためには最低でも100例をこなす必要があるそうです。

テストを行うのに数時間、結果を見て分析することにさらに数時間必要で、ロールシャッハテストというトピックだけで分厚い本が一冊出来上がります。


もう一つ、バームテストをご存じですか?

これはやったことがある方は多いでしょう。紙に木の絵を描いて、その絵を見て心理を分析します。テストを行うのにほとんど時間はかからず、分析も難しくありません。素人が自分でできます。


つまり芸術ってそういうことかなって。表現すること。それを見て何かを感じること。それはつまり、自分を知るということではないかと。


自分は何のために生まれてきたのか、という疑問は誰もが一度は考えたことがあると思います。そしてその答えは人類であれば皆同じ、とはなりません。


何のために生きるのか、どんなふうに生きていくのか、それを知るにはまず、自分自身のことを知らなければならない。自分自身のことを知らなければ、それは存在しないことと同じではないか。水色が好き、ということに気付かなければ、水色を好きな自分は存在しないことと同じなんです。そして自分がどういう人間か、ということを知らなければ、その人の人生も存在しないことになってしまうのではないかと。


自己啓発っぽくなってきましたね。せっかくここまで付き合ったんだから最後まで読んでいきません?嫌?


つまり私が言いたいのは、芸術が、人間をこの世に繋ぎ止めているんじゃないかってことです。


言葉を尽くすほど怪しい人っぽくなるのはなぜなのか。


先に進みます。芸術は自分自身を知るための手段であり、そして自分自身を知ることは生きるために不可欠なことだと仮定しましょう。


私の理屈でいくと、自分を知る手段はたくさんあります。絵を描いても音楽を聞いても自分を知ることができます。どんな絵を描くか、音楽を聞いて何を感じるか、ということを分析していけばオンリーワンの自分が完成!というわけです。


そして芸術の分野によって、分析の難易度が違います。

先ほど例に出したロールシャッハテストとバウムテストを思い出して下さい。ロールシャッハテストには専門知識と経験が必要で、バウムテストはそうではありません。私は専門家ではないので今から言うことは全く科学的根拠のない理論ですが、両テストの違いは、情報量が多いか、少ないか、あるいは具体的か、抽象的か、ではないでしょうか。


木を描いてください、と言われて描けない人はそうそういないでしょう。木、と言われて「そんな、人によって大きく解釈の異なる物体を描けというのか!」と思う人は少数派だと思います。対して、インクのシミを見て「なるほど、なんて具体的な形なんだ」「これを見たら誰もが○○に見えると答えるだろう」と感じる人も、少数でしょう。木、という物には多くの共通した知識があり、インクのシミには共通の知識を持ち得ない。


これを芸術に置き換えて考えてみると、例えばクラッシック音楽を聞くのと、小説を読むのとでは、必要な知識や具体性が異なる。つまり自分の感じ方を分析する難易度が異なるのではないかと。


例えば一方は、ゲルニカという絵を見て、それに対して何を感じるかを分析する。

一方は、ゲルニカをテーマにした一本の映画を観て、それに対して何を感じるかを分析する。


前者は情報量が少ないぶん、解釈の幅が広がりますが、個人の知識や経験によって分析の結果は大きく左右されます。

後者は情報量が多いため解釈の幅が狭くなりますが、個人の知識や経験による違いは生まれにくい。


映画という芸術は明らかに、解釈の幅が狭く、その代わりに専門知識を要しない芸術です。


ロールシャッハテストとバウムテストならバウムテスト。

狂言と歌舞伎なら歌舞伎、みたいな。


映画とは庶民のための大衆芸術。ということは、その利点を活かすにはやはり、映画館で映画を観るというシチュエーションが重要ではないか、と思います。次回、その理由を掘り下げてみます。

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