41. 愛しき世界の貴方へ
王宮に到着したときには、すでにバルコニーでの式典が始まっていた。
禁忌の森の出口から、鹿毛の子は普通の馬に戻って、私を乗せたまま王宮の裏口まで走ってくれた。
「ありがとう。ここで降ろして。今、王宮は危ないの。貴方は逃げて」
私の言葉が分かったのか、危険を感じ取ったのか、鹿毛の子は禁忌の森へと、逃げるように走り去った。
裏口を守っていた衛兵は私を見るとひどく驚いた顔をしたけれど、そのまま中へ通してくれた。私はバルコニーのある部屋まで走った。
その部屋の前にいた衛兵も、同じような反応だった。つまり、サラちゃんの変装は完璧だということだ。それならそれでいい。
私はカルの婚約者としてここに戻ったんじゃない。大聖女の務めを果たすために、この国の平和を守るために戻ったのだから。
私に気がついたのは、部屋の出口に一番近い場所にいた養護教諭の先生だった。
「アリシア!なぜここに?君は国を出たはずじゃ……」
「先生!バルコニーに出られる窓は?あそこだけですか?」
王族が立つバルコニーまでは、多くの重臣で埋め尽くされている。誰にも気が付かれずに近づくことは難しい。
「隣の部屋の窓からも出られる。だが、今はダメだ。危険だ」
「先生、お願いします!このままだと、カルが危ないの」
「君も危ないんだよ! カルロスの願いを踏みじる気か」
「カルは生きるべき人です。この国のために! 国民の命を守るために! ここで王族に何かあれば、国が根底から揺らぎます。国全体が危険に晒されるんです! 」
「アリシア、君は......」
「私は大聖女です。国民を守る義務があります。この国を見捨てて逃げたりしません。それに、先生は私の意志を尊重すると、いつでも味方だと、そう言いましたよね?あれは嘘ですか?」
先生は少しだけ迷ったようだった。それでも、すぐに私を、誰にも見つからないように隣の部屋のドアへと導いてくれた。
「ありがとう!先生、このご恩は一生忘れません」
「そうだね、一生かけて恩返しをしてもらおう。ほら、手を貸して。窓によじ登るんだ」
窓は少し高い位置にあるけれど、外からは死角になっていて、その姿を見られることはない。先生の手を借りて、私はなんとかバルコニーに出た。
カルは最前列に出て、民衆に語りかけている。これは私のこと?カルは私のことを話しているんだ。
「……彼女を少しでも解放したいと思った。普通の17歳の女の子が望むようなことを、普通にさせてやりたいと思った」
私が望んだのは、貴方の側にいることだよ。そして、貴方はそれを叶えてくれた。私は普通の女の子よりも、ずっと幸せで甘やかされてきたよ。
「それは王子ではなく、私個人の望みだ。愛する女性を守りたかった。絶対に死なせたくなかった!」
私の望みも同じなの。愛する貴方を守りたい。絶対に死なせたくない。その思いは何があっても変わらないよ。
「すべての責任は私にある!言ってくれ。君たちは私に何を望む。彼女を守れるなら、私はこの命ですら惜しくない」
ありがとう、カル。でもね、貴方は死んではいけないの。貴方を生かすために、私はいるのよ。大好きなこの国を、この世界を守るために。
命の護符。カルの命を守る代わりに、私の命を対価に捧げる。何が起こっても、これでカルが死ぬことはない。
「その代わり、残った皆が彼女を守ってほしい。彼女の聖女の力を悪用せず、彼女に幸せな人生を送らせてくれ。頼む」
ごめんね、カル。ありがとう。そして、さようなら。永遠に貴方を愛しています。
どうか、私が愛したこの世界に平和を。そして、貴方も幸せに。
民衆に向けてお辞儀をするカルと、青空に吸い込まれるように消えた一発の銃声。
目の前が暗くなって、誰かの叫び声が聞こえる。体は動かないのに、暗い穴の中へと落ちてような感覚。そして、私は眠るように目を閉じた。
それが、私が覚えている最後の光景だった。
どのくらい時間が経ったのか。永遠か一瞬か。そして、それに続いたのは長い長い闇。どこまで行っても光が見えなくて、歩いても歩いても同じ闇だった。
『長い暗闇の世界から太陽の光の下に出た蝉は、七日で死んでしまうんだったわね』
その声はお母様?貴方はお母様ですか?
いつのまにか、私は小さな子どもに戻っていて、誰かに手を引かれて歩いていた。ほっそりとした冷たい手。それでも、決して私を離さないと確信できる、優しい手。
『それなら、ずっと暗闇の中にいたほうがよかったわね。永遠に生きられたのに』
いいえ、お母様。たった七日の間でも、蝉は幸せだったんです。だって、恋を知ることができたから。愛する相手に巡り会えたから。
私もカルに出会えて幸運だった。カルを愛せて、誰よりも幸せだった。
『そうなの?じゃあ、暗闇の中では蝉は不幸だったのかしら?』
愛する人の幸せのために、闇を生き抜くこと。婚約破棄を恐れていたときですら、私はカルの幸せを望んでいた。
それほど愛せる人に巡り会えたのなら、たとえ、光のその先が見えなくても、その人生は不幸じゃなかった。
『幸せだったのね。よかった』
お母様。ずっと私を心配してくださっていたんですか?私の声は届いていたんですね。私の人生を見ていてくれたんですね。
これからは、ずっと一緒にいられますか?私はこの闇の中で、カルの声を聞くことができますか?
その問いに答えはなかった。いつのまにか、私は元の姿に戻っていた。そう感じたのは、繋いでた手がお母様のものじゃなくて、小さな子どものものになったから。
『ずっと一緒にいるよ。どこにもいかない』
カル?この声はカルなの?前にもそう言ってくれたよね。初めて会った日に。
『僕が守るよ。だから、何も心配しなくていいんだ』
ああ、そうか。君は、私とカルの赤ちゃんなのね。ママのせいで、君をここに連れてきてしまったんだね。ごめんね、許してね。でも、どうしてもカルに生きてほしかったの。
『ずっと一緒にいられるなら、どこだっていいよ。だって、大好きだから』
君には、守護なる聖獣がついているんだよ。だから、この手を離して生まれ変わって。カルの子供として、次代の王として。サラちゃんは、私よりもずっといいお母さんになるわ。
『誰にも代わりになんてなれないよ。僕が好きな人は一人だけだもん』
ありがとう。その気持ちだけで十分よ。君はカルによく似ているね。だから、カルに伝えてほしいの。ママはパパを愛していたって。いつまでも愛し続けるって。幸せを祈っているって。
『それは自分で言って。僕は伝言なんかしないよ。あんな情けないやつなんか、僕は嫌いだよ。守るって言って、守れなかったじゃないか』
違うよ。それは違う。カルは私を守ってくれたんだよ。それこそ捨て身で。それなのに、その気持ちを踏みにじって、勝手なことをしたのは私なの。悪いのは私なのよ。だから、カルを嫌わないで。君のパパなの。ママの愛する人なの。
男の子はもう何も答えてくれなかった。いつのまにか、握っていた手も消えていて、私は一人だった。
どこまで行っても闇ならば、もう歩かなくてもいいのかもしれない。
それとも、死んだ人間はどこかに辿り着くまで、永遠に歩き続けなくちゃいけないんだろうか。
『なぜ戻った。迷ったのか? 』
誰?どこかで聞いたことのある声なのに、よく思い出せない。
『復活祭の事故で死ぬのは、お前ではなく別の人間だった。間違って刈ってしまった魂の代償として、お前の望む世界に力を授けて転生させた。だが、それがお前を迷走させたのか』
イースター……前世の!そうだ、最期の審判で、私は転生を願ったんだ!大好きだった乙女ゲームの推しのいる世界に行きたいと。カルのいる、あの美しい世界で生きたいと。
『お前に救われた魂も望んだ。今度は自分がお前を救いたいから、同じ世界に転生したいと。だが、そちらの願いも叶えられなかったようだ』
サラちゃんだ。サラちゃんがあのときの女の子だったんだ!
前世で私が死んだのは、小さなスペイン人の女の子をかばったから。パソと呼ばれる山車が崩れてきて、その下敷きになった。
サラちゃんは『私の命を救った』と言っていた。それは、お母様の病を聖女の力で治癒したことだと思っていたけれど、実際にそのままの意味だったんだ!
彼女にも前世の記憶があった。だから、ゲームのような展開にはならなかった。
最初から、サラちゃんはヒロインじゃなかった。ずっと私を見守ってくれていたんだ。
遠くに光が見えた。あれが出口?あそこに出たら、私は別の人間に生まれ変わってしまうんだろうか。
それなら、ここに留まろう。カルの人生を見届けて、カルにここでもう一度会えるまで、私はどこにも行きたくない。行かない。
『もう一度、最初から別の人間としてやり直す気はないのか?』
転生の繰り返しはしない。たとえ今度は、ヒロインに生まれ変われるとしても。
そこにいるのはカルだけど、それは私が愛したカルじゃない。それは全く別の世界。私が愛して守り抜きたかったあの世界じゃない。
私は、私のいない人生を生き抜く彼を、ここでずっと待っていたい。だって、約束したから。必ず迎えに来てくれるって。その日が来るまで、私は諦めないでカルを待つって。
『お前を殺した世界を、それでも愛しているというのか』
はい。前世に生きた世界も、私は愛していました。だから、間違えて死なせたというのは、もうチャラにしてください。どちらの人生も光で満ちていて、私はとても幸せでした。
『罪を赦し全てを慈しむその魂こそ、お前が聖女としてあの世界に求められた理由だ。その判断は正しかった。お前はあの世界に愛されし者だ』
では、ここにいて、いいですね。このまま、この闇の中で。
私は歩くのを止めて、その場に横になった。とても眠くて、体が地面に沈み込みそうだ。
今にも消えてしまいそうな意識の中で、私はあのひまわり畑を見た。私はあの美しい国の土となって、永遠にその繁栄を祈っていくんだ。
そのとき、急に眩しい光が満ちて、太陽の匂いがした。体を包む温かさに、まるでカルに抱かれているような気がする。
そして、体の内側から力が満ちるような、不思議な感覚に揺り起こされるように、私はゆっくりと目を開けたのだった。




