15. 初恋の女の子 (カルの視点)
俺がシアに初めて会ったのは、8歳のときだった。
王宮の裏にある「禁忌の森」の前に一人で立っていた彼女を見たとき、本当に人間じゃないと思った。
白いワンピースを着た女の子は、その白磁の肌と銀髪も手伝って、まるで森に住む精霊のように見えた。
その森は聖獣の住処で、危険というよりはその神聖さによって、人間の立ち入りが禁止されていた。
遭遇したことはないけれど、ユニコーンを見たものがいるらしい。森で迷った人間を助けて、道案内をするという。
「君、ダメだよ。そっちに行っちゃいけないんだ!」
森の中へ入っていこうとするシアの腕を引いた。驚くほど細くて、少し力を入れると折れてしまいそうだった。
こちらを振り向いたシアは、見たことがないような美少女で、やっぱり人間じゃないと思った。
彼女は、俺の唇に人差し指を押し付けて、にっこりと笑ってこう言った。
「しーっ、黙って。大きな音を立てちゃダメよ。木が鳴いているの」
木が鳴いている?耳を澄ましてみたけれど、蝉の鳴き声しか聞こえない。
「聞こえないよ。どんな声?」
「ほら、ジジジジーって。木が鳴くなんて、すごいわ。さっきはね、妖精もいたのよ!」
それを聞いて思わず吹き出した。そのまま笑い続ける俺を、シアは不思議そうに見ていた。
「それはね、蝉だよ。昆虫。待ってて、見せてあげるよ」
木の根元に見つけた抜け殻を取って戻ると、シアは目をキラキラ輝かせた。
女の子はこういうものを嫌がると思っていたのに、それは意外で新鮮な反応だった。
「わあっ!これが鳴くの?」
「これは鳴かないよ、この中に入っていた虫が鳴くんだよ」
「そうなの?すごいね。物知りなのね!よくお勉強してるの?」
「そうでもないけど。ここから出た蝉って虫はね、羽があって空を飛ぶんだよ。だから、捕まえるのが難しいんだ。それが妖精の正体だよ」
「そうなんだ!面白いね。虫が鳴くなんて、知らなかった!」
「君は……、この国の子じゃないの?それとも、ハコイリってやつ?」
「さあ?ハコなんとかは分からないけど、もっと寒い国から来たの」
「そうなんだ。じゃあ、その国に蝉はいないんだね」
「うん。森はとっても静か。でも、鳥や動物の鳴き声はするよ」
「図書館に行こうよ、この国にいる虫の本を見せてあげる」
「本当?嬉しい!ありがとう。あなた、とっても親切なのね!」
「僕はカルっていうんだ。君は?」
「シアよ」
図書館の床に二人で寝転がって虫の図鑑を見ながら、たわいもないおしゃべりをした。
彼女は、北の大国に派遣されていた駐在大使の娘だった。長い任期を終えて、帰国の挨拶をするために王宮に来たのだった。
「じゃあ、これからはずっと、この国に住むんだね」
「そうね。そうだと思う」
「嬉しくなさそうだね。この国は嫌い?」
「嫌いじゃないわ!パパの国だもん。でも、友達がいないの」
「僕が友達になってあげるよ!僕も友達がいないんだ」
「ええっ!カルも一人ぼっちなの?」
「別に、ぼっちじゃないけど……」
第一王子なんてものには、自動的に優秀な学友が充てがわれる。それは友達ではなく、ある意味でライバルだし、別の意味では臣下だった。
「私は、一人になっちゃったの。大事な親友が死んじゃったから。お友達は一人しかいなかったのに」
「ええっ!どうして?事故?」
「病気。ずっと寝たきりだったの」
「そうなんだ。辛かったね」
「うん。でもね、悪いことばかりじゃないのよ」
「どういう意味?」
「だってね、生きているときは、会ったらお話しようって思うでしょ?だから、色々と話したいことがあっても黙ってて、それで会うまでについ忘れてしまうの」
「うん、そうだね。それはあるね」
「でもね、今はいつでも話しかけられるのよ。さっきもね、蝉のことを話してたの。それでね、今はカルが友達になってくれたって話したの!」
「ふーん。でも、相手からの返事はないでしょ?」
「もちろん、ないわ。幽霊はお話できないもの。でも、生きているときもずっと眠っていたから、お返事はなかったの」
寝たきりの友達のそばで、一生懸命に話しかけるシアの様子が目に浮かんだ。
それはとても悲しい光景だった。
「よかったら、なんでも僕に話してよ。ちゃんと返事するから」
「うんっ!カルは本当にいい人ね。友達になってくれて、ありがとう! お返事はないけど、私の親友もとっても喜んでくれてると思うの」
シアは輝くような笑顔を向けて、そう言った。
後になって知ったことだけれど、亡くなったのはシアの母親だった。この国の気候が体に合わず、シアを産んですぐに体調を崩したらしい。
療養のために母親の祖国の大使になった父親の願いも虚しく、最後の数年は眠ったまま、魔法で命をつないでいるだけの状態だったと聞いた。
シアは大使公邸の中で、ずっと一人で育ったそうだ。もちろん、使用人や家庭教師はいたけれど、他人の大人しかいない世界で、なんでも話せる友達は母親しかいなかったのだろう。たとえ、返事は返ってこなくとも。
「ずっと友達でいてね。カル、どこにもいかないで」
「ずっと一緒にいるよ。どこにもいかない」
探しにきた衛兵に連れられて去るときに、シアは涙目になってそう言った。だから、安心させてあげたくて、そう約束した。
シアは、ともすると消えてしまいそうな、線の細い子供だった。その姿を目にしないかぎり、この世には存在しないような。手を離したら、あっという間にどこかへ連れていかれてしまうような。
まるで羽化したばかりの蝉のようだった。何年もを暗闇で過ごし、やっと殻から出た真っ白な幼生は、やがて地上の大気に汚されて、七日で死ぬ。
捕まえようとしても、どうしても捕まえられない。
シアは俺にとっても、初めての友達だった。彼女は自分が守るんだ、絶対に死なせたりしない。そう幼心に誓うまで、それほどの時間は要さなかった。
それまで誰にも、そんな気持ちになったことはない。初恋だったと思う。
たぶん、初めて見たときから、俺はシアに恋をしていた。身も心も彼女に捕らわれてしまったんだ。
「シア?泣いてるのか」
「……幸せだから」
腕の中のシアは、静かに泣いていた。
さっきまで、確かに俺のものだと、やっと手に入れたと思っていたのに。
まるで指の間から砂がこぼれ落ちてしまうように、シアはいつも俺の腕をすり抜けていってしまう。
その不安をかき消そうと、俺はシアの華奢な体を抱きしめた。あれほど火照っていた彼女の肢体は、今はもうひんやりと冷たい。
シアは本当に人間なのだろうか。人の姿を借りた、精霊じゃないのか。
「愛してる。誰にも渡さない」
「……うん。カル、どこにもいかないで」
そう言って、シアは俺の背中に腕を回して、俺の胸に頬を寄せた。それでも、その涙は止まらないようだった。
なぜなんだ。一体何が、シアを不安にさせてるんだ。言葉でも体でも、全身全霊で愛を伝えても、シアはいつも悲しそうだ。
こんなふうに初めて体を重ねた後ですら、シアを泣かせている。彼女が落ち着いて眠るまで、頭を撫でてやるくらいしか、俺にはできない。
そして、早朝に目覚めたとき、シアは隣にいなかった。俺がどれだけ心配したか、たぶんシアには想像もできないと思う。
もう二度と会えないような、そんな気がしてしかたがなかった。
だから、中庭の泉のそばに佇む彼女の姿を見つけたとき、俺は安堵のあまりにその場に崩れ落ちそうだった。
それでも、また会えたという喜びに満たされて、俺はシアに駆け寄った。
そして、その瞬間、目の前の光景に息を呑むことになった。
シアのそばには、真っ白な馬がいた。ただの馬ではない。一角獣。ユニコーンだった。
見事なたてがみはシアの髪と同じ銀色で、その姿は白濁した朝もやに溶けて、いまにも消えてしまいそうだった。
そして、シアの姿も銀色の光に包まれて、少し霞んで見えた。
純潔の乙女にだけ、その心を許すと言われる聖獣。シアに撫でられて、気持ちよさそうに目を細める様は、俗世の欲に汚されてもなお、清浄な魂を宿すシアに魅了されているかのようだった。
「シア!ダメだっ!そっちに行っちゃいけないっ」
俺の言葉にシアが振り返った瞬間、聖獣は静かに走り去り、シアの姿に色がさした。
そうだった。シアにはまだ俺の魔法がかかっているんだ。今の彼女は、黒髪に黒い瞳、すこし褐色の肌をしている。俺が見た光景はなんだったんだ?
俺の困惑をよそに、シアは嬉しそうに俺の腕の中に飛び込んできた。その笑顔は日の光のようで、急に周囲のモヤが晴れた気がした。
そして、シアは俺の唇に人差し指を押し付けて、こう言った。
「しーっ、黙って。大きな声を出しちゃダメよ。野生の馬が来ていたの」
目を凝らして森のほうを見ると、確かに黒い馬が走り去っていくところだった。俺は夢を見ていたのだろうか。
「水を飲みに来たのよ。あの森に棲息しているんじゃないかな?きれいな黒毛の子よ」
そう言って微笑んだシアは温かくて柔らかく、間違いなく幻ではない、血の通った人間だった。