16. 一夜の過ち
しまった。やってしまった。とうとう、してしまった。
カルの隣で目覚めた私が、一番最初に思ったことは、まさにそれだった。
いや、カルに責任は全くない。むしろ、私が誘ったんだから、彼は被害者だと言ってもいい。
こうなるかもしれないとは思っていた。これを避け続けるには、カルは魅力的すぎるし、私はカルに惹かれすぎている。
今までギリギリで理性と欲望の均衡をとっていたから、些細なきっかけでそれが崩れることは想定内だった。
でも、できれば回避したかった!
婚約者と肉体関係がある男を、ヒロインが果たして受け入れてくれるだろうか。私だったら躊躇する。
だって、変でしょう? 他の女と寝てるのに、自分が好きって言われて、それ信じられる?
もちろん、玄人さん相手とか、閨教育指導とか、そういうのは情状酌量の余地ありだけど。
それに、こんなに無防備にしてしまったのも失敗だった。妊娠してしまったら、王位継承がややこしくなる。いや、それよりも、婚約破棄に支障が出る!
孕ませた女とその子どもを捨てるってことで、私に襲われたカルが、逆に悪者みたいに思われてしまう!
そんなの絶対にダメだ。どうしよう。子供を盾にするなんて、昔のメロドラマも真っ青な悪役令嬢だ!
そうなったら、もう全世界から嫌われるくらいに、悪の道を貫くしかない? 誰もが「あれじゃ、愛想尽かされて当然」って思うくらいに。
ああ、前世で見たドロドロ愛憎ドラマを思い出す。ああいうのには、本物の悪役令嬢の姿があった。ううっ! 私に真似できるだろうか。
どうしよう! ずっと悪役令嬢にならないように努力してきたのに、ここに来て最極悪役令嬢に倣おうなんて!
人生設計総崩れ? お先真っ暗? 最大のピンチ?
それでも、こうして自分の体に残るカルの痕跡を感じて、私が幸せじゃないわけがない。
昨夜のカルは、確かに私だけのものだった。私を愛してくれた。
私が一番恐れているのは、自分がこの感覚の虜になってしまうことだった。カルを独り占めできる喜びを知ってしまったら、きっと麻薬のように中毒になってしまう。
カルだって男だし、求められれば私を抱くだろう。そうなったら、私はただ溺れていくだけで、きっとカルから離れられなくなる。
側女でいい……なんて言われたら、カルはきっと同情で私の元へ通ってくれる。私を拒んだりはしないはずだ。
でも、他に愛する人がいるのだから、やがてはそのわずかな逢瀬も途絶えてしまうだろう。ヒロインを悲しませ続けるわけにいかないし、第一、カルはそんなに器用じゃない。
そして、私はまた、ひとりぼっちになる。
いや、待て! とにかく、落ち着こう。暗い考えはダメ!
転生してからは初めてだったけれど、日本人女性だったときには、年齢なりの経験はあった。
転生前の最後の記憶のスペイン旅行。あれは28歳くらいだったから、今の私より10歳は上だ。うんうん、それなりの歳だ。
だから、今回の反応はおぼこかったかもしれないけど、知識とか記憶があるから、さほど大イベントでもなかった。
なんてわけないよね、やっぱり。
すごく大きな出来事だったよ。当たり前に。嬉しくて、幸せで、泣いちゃうぐらいに。
だって、大好きな人と初めて結ばれたんだもん。普通だよね。変じゃないよね?感動するよね?
そう、とても素敵な体験だった。これをいい思い出にしよう!一生に一度だけの幸せな思い出。
元々、誰ともする気はなかったんだから、体験できただけラッキーだと思うんだ!
だから、もうこの先は、こういうことはない。一切なし!二度としない!
問題は、カルにそれをどう理解してもらうかだ。
ヒロインと恋に落ちるまでは、カルは私を愛してくれる。たぶん、こういう関係を続けたがるだろう。
卒業まで清い関係でいてくれとようとしていたカルを、色仕掛けで堕落させたのは私なのだ。
したくないなら、なんで誘ったんだと、反論されるに決まってる。
えーと、よく漫画にある、あれを使う? 『酔っていて何も覚えていません』ってやつ。酒のせいにして、責任逃れをする!
うんうん、ありがちありがち。
いや、どこの世界に水で酔う人間がいるんだ。飲んでいたのはカルだけで、私は一滴のアルコールも摂取していない。
素面であんなことをして、それで覚えてないって、それはもう痴呆症の域だ。いくらなんでも、言い訳がバカすぎる。
じゃあ、あれはどうかな?『媚薬を盛られました』っていうの。だから、あれは治療の一貫ですって。
うんうん、いいね。定番だね。
これもやっぱりダメだ。カル以外に媚薬を盛るチャンスなかったし、盛ってないことは本人が一番知ってる。
それに、私の反応は、お世辞にも媚薬効果があったとは言えない。
しょうがないでしょ、初心者なんだから。慣れてないのに、そんなにいきなり敏感になれるかっ!
ダメだ。思考が不毛な堂々巡りをしている。こんなときは、まず頭を冷やすべきだ。
私は音を立てないようにベッドから出て、床に脱ぎ散らかされた服を拾った。そして、それらを畳んだあと、クローゼットをそっと開けた。
そこには、簡素なワンピースや、真新しい女性用の下着が入っていた。
うーん、これはどういうことなんだろう。王族が情婦を連れ込むための部屋?
むくむくと沸いてくる妄想に、私は慌てて蓋をした。余計なことは考えない方がいい。
とりあえず、無難なパステルオレンジのワンピースを身に着けて、私は部屋の外に出た。
こんな情事の匂いが濃い場所で、冷静に物事が考えられるわけがない。カルは気持ち良さそうに眠っているし、当分は起きないだろう。
外の空気は清々しくて、朝は夜とは違う美しさがあった。
特に、朝焼けと朝靄の中庭は、この世のものとも思えなかった。
南国風の花たちが一斉に花びらを開き、噴水のある水路には、雀が水浴びに来ていた。庭園の木からは小鳥の鳴き声が聞こえる。
「きれい……」
思わずそう口に出したところで、私は奥の泉のそばに、一頭の黒い馬がいることに気がついた。
鞍を付けていないので、たぶん野生だろう。泉の水を飲んでいる。目が合っても逃げないので、そっと近づいてみた。
大丈夫、怖くないよ。私は友達だよ。ねえ、あなたとお話しさせて。
私の気持ちが通じたのか、その馬はそのままそこにとどまっていた。
そして、私がそっとその頬を撫でると、気持ちよさそうに頭を擦り寄せてきた。
「賢い子ね。とてもきれいな毛並みだわ。カルの髪の色みたい」
そう言ってたてがみを撫でると、その馬は嬉しそうに小さく嘶いた。
その漆黒の目は、水を含むように濡れていて、カルの瞳を思い出させた。
「ねえ、君は好きな子はいる?私には大好きな人がいるの。その人はね、君みたいな漆黒の髪の毛を持ってるんだよ。そしてね、君みたいにきれいな黒い瞳なの」
馬はますます嬉しそうに、体を寄せてきた。私はその首に顔を寄せて、その鼻づらをゆっくりと撫でてあげた。
この子は私が好きなんだ。
「君が私の好きな人だったらよかったのにな。そうしたら、ずっと一緒にいてくれる?どこにもいかないで。私をひとりぼっちにしないでくれるかな」
その馬は、もちろんだと言うかのように、優しく顔を寄せてきた。そして、まるで涙を堪えるかのように濡れてキラキラした目で、何度も瞬きを繰り返した。
「優しい子ね。ありがとう。私は大丈夫。心配しないで」
私はほんの少しだけ、聖女の力を使った。この子が幸せになるように。ささやかな祝福の力を、手から直接この子に流した。
拒絶されなかったので、きっと、私の気持ちを分かってくれたんだろう。
不思議な子。本当に私と話してくれているみたい。なんだか、とても癒やされる。
「シア!ダメだっ!そっちに行っちゃいけないっ」
ずいぶんと必死なカルの声に振り向くと、その馬はちょっと驚いてから、ゆっくりと走り去ってしまった。あら、お邪魔だと思ったのかな。
カルはたぶん、私を心配して探しに来てくれたんだ。
大好きなカル。大丈夫、私はあなたの幸せのためになら、なんだって諦めてみせる。それが私の命であったとしても。
だから、安心していいよ。あなたの前では、絶対に泣かないから。私のことを心配せずに、あなたが選んだ道を進めるように。
「しーっ、黙って。大きな声を出しちゃダメよ。野生の馬が来ていたの」
私はカルの胸に飛び込んで、そして、人差し指をその唇にそっと押し当てた。
「水を飲みに来たのよ。あの森に棲息しているんじゃないかな?きれいな黒毛の子よ」
そして、あなたにとても似ているの。外見だけじゃなくて、中身もよ。とても優しいの。
だから、私は大丈夫。あなたがいなくなっても、きっと私は、ひとりぼっちにはならないから。
真剣に、カルから離れることを考えよう。カルが、なんの憂いもなく幸せになれるように。
それが、私が大好きなカルにしてあげられる、唯一のことだから。
大丈夫、カルは私が守る。それが私の愛のかたち。だから、どうか私を解放してください。
温かいカルの胸の中で、私は祈るように目を閉じた。本当はこのまま、空気に溶けて消えてしまいたかった。




