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けれど、長部には一つの転機があった。瑞穂との出会いだ。
瑞穂が長部に求めたのは、何もかも整った恋人ではなかった。ただ、不安な思いを分かち合ってくれる相手、お互いに弱い一人の人間として、一緒にいようということだけだった。
だが、長部にはそれは伝わらなかった。瑞穂にも長部の焦りと不安は伝わらなかった。
お互いの傷が深すぎて、癒したりわかりあったりするには、自分達の傷に立ち向かう必要があったから、きっと瑞穂もまた、長部の傷を見ないふりをしていたのだ。
なぜなら、そこに映っているのは、自分の無力さへの怒りそのものだったから。
(もし、そこで別の物語を紡げたなら。せめてあたしが自分の無力さを受け入れて、違う物語を紡いでいたなら)
この悲劇は防げただろうか。
ベッドルームの扉の向こうに黄色とオレンジに弾ける炎が踊っている。煙がずるずると生き物のように扉を越えて天井を這っていく。
せき込むだけで激しいめまいと吐き気がして、瑞穂は目を閉じた。
体が重く動けない。このまま奈落に転がっていきそうだ。
(三津子さんは、物語を紡ぎ直したんだなあ)
あのバーガーショップで、真実を確かめないまま、後悔に浸りながらパンをちぎるより、彼女は非情であっても現実の運命と向かい合う道を選んだ。
それがよかったのか悪かったのか、今の瑞穂にはまだわからないけれど、きっと三津子は次にたじろいだときにとおるのことを思い出すだろう。許さない、と叫んだ声を思い出すだろう。自分が果たせたはずだった役割を、今度こそ自分で果たそうとするだろう。
彼女は傷を抱えて生きる道を選び、確かにとおるという一つの物語を自分の中に飲み込むことで、現実に生き残る。そして、いつか新しい物語を作り上げていくに違いない。
ならば瑞穂は?
自分の傷に向かいきれなかった代償を、今こうして炎の中で果てていくことで支払うということなのだろうか?
(あたし、『グリーン・アイズ』に生き残らせてあげるって約束したのに)
初めて瑞穂の鼻の奥につんとする痛みが広がった。
ここで目覚めるまでに見ていた夢のリアルさは信じられないほどだった。晃久が瑞穂を失う恐怖に震えて泣き叫んでいる、それを自分のもののように感じた。
(『グリーン・アイズ』がいつもあんなふうに、誰かを感じていたら、本当に生きて行けないよね)
だから、晃久が人と距離を保つのは無理もないことなのだ。
けれど、それでは、晃久は自分の人生さえ生きられなくなってしまう。
(生きることは、人と関わること、だもんね)
長部と晃久はきっと似ているのだ。
二人とも、他の人間の望みや願いを自分のものと勘違いしてしまう。受け入れられる居場所を確保するために、孤独に一人落ち込まないために、自分を日々殺して、そうしてある日、空っぽで虚ろで何もない人生にふいに気がついてしまう。
底の見えない穴が自分の人生だとわかってしまう。
(でも、その埋め方も知らないから)
誰かにすがったり、誰かを殺したり、それでも穴が埋まらないから、自分を殺すしかなくなってしまう。
そうするしか知らないから。
(あたしも、きっとおんなじ、だ)
『気配』で人と関わっても、自分の傷を癒せない。
『気配』で人の問題を読み取っても、自分の問題に向かえない。
(不器用で、情けない、あたし達みんな)
瑞穂はもう一度目を開けた。
呼吸が苦しい。煙のせいばかりではなく、何だか息をするのが難しい感じだ。空気がうまく吸い込めない。顔にフィルターがかかってきているような気がする。
(白い、布)
そのイメージがぼんやりと瑞穂の意識を横切った。
死者の顔にかけられる、白くてそっけない布の感触。
家族の遺体は見せてもらえなかった。白い布に包まれて、あれじゃあ息ができないじゃないかとつぶやき、伯父にぎょっとされたのを覚えている。
(死ぬ、のかな)
ベッドルームを炎がゆっくりと包みつつあった。思っていたよりずっと遅い。もっとも、瑞穂の感覚が、死を目の前にして間延びしてしまっているのかもしれないが。
(あれ?)
音をたてて燃え広がりつつある炎の海を見ながら、体を打つ熱を感じながら、熱い空気が肺を焼くのを味わいながら、瑞穂はぼんやりと揺れる泉の『気配』を感じて驚いた。
(ここには誰もいないのに、どうして『気配』が反応してる?)
目を閉じる、泉の『気配』に同調する。
外界の炎の世界に比べると、そこは泣きたくなるほど静謐だ。
(死ぬんだな)
瑞穂は思った。
頭の痛みが全体に広がっている。割れて砕けた方がましみたいに。けれど、その痛みさえ、ただ『ある』だけの感覚にすり替わっていくような。
(ここで死ぬんだ、やっぱり、炎の夢にのまれて)