第八話
空を見上げると、雲の形が変わっていることに気付いた。それまではもくもくとした、しっかりとした輪郭のある雲がふよふよと流れていたのに、今では境界のはっきりしない、水に浮かべた絵の具をハケですっと掃いたような形の雲が不揃いに並んでいる。
風もすこし涼しくなって、日差し次第では薄い上着を一枚ひっかけたくなるくらいだ。日陰にいると特にそう思う。
そんな中、我らがマリエッテ様は、これまでなら絶対に言わなかったワガママを言い、使用人たちに命じてハープを中庭に運ばせている。なんという大胆不敵。これには誰もが驚いた。なにごとかと顔を出したお父様や執事も事情を聞き、目を剥く。
あのマリエッテ(様)が、下男にわざわざ命じて、ハープのような大きなものを運ばせている?
小さな頃から内気で、自分の意志をあまり示さなかったのに、まして他者に望んで何かをさせることなど一度もなかったのに、これは一体どういうことだ。
ラーフェンスメール家の使用人たちは、ここ数日戸惑うばかりだ。出て行ったと思った連れ子がひと月も経たない間に戻ってきて、ひとりひとりに頭を下げ、「自分のせいで義姉を始め、みなに多大な迷惑をかけた」と頭を下げて回ったのだ。普通の貴族令嬢はこんなことしないんじゃないかな。いや、そもそも謝罪をするような行動をしないか。
騒がしい妹発の混乱が終わったと思えば、今度は静かな姉発の混乱だ。誰一人聞いたことのないらしいマリエッテ様の、唐突の命令に皆が目を白黒させている。悪いけど、おもしろい。
お母様もぎょっとしていたけど、私の様子を見て納得したようだった。さすが。
「もう少し右側に」
うきうきと指示を出すマリエッテ様を微笑ましく眺める。これからやろうとしていることに興奮を覚えているのか頬が上気してほんのり赤い。身振り手振りしてくるくると回る姿はまるで一足早い秋の紅葉が散りゆくかのようで、上品な華やかさがあった。元々、静かな踊りが上手な方だ。美しさと気品が溢れ出ていて惚れ惚れする。
「一体、何があったの?」
お母様が隣にやってきて、マリエッテ様を眺めたまま私に尋ねる。私も同じくマリエッテ様を見つめたままで答える。
「見つけてもらおうと思って」
「はぁ?」
お母様は驚いてこちらを覗き込んだ.勝った。
「どう見ても見つけてもらってるじゃない。貴方の影響でしょ、あれ」
私は、目を細めてマリエッテ様を見つめ続ける。ところどころぎこちなくて、たどたどしい。それがとても健気で愛おしいのだけど、これは焚き付けた私だからこそ解るものだろう。周囲はいつもと違うマリエッテ様に混乱して演技的な部分が見えなくなっているだけ。じきに、良い方向に変わろうとしているのだと温かく見守ってくれるようになるはず。
「やっと、目に映していただけるようになったの。これから、定められた時間までに見つけてもらわないと、私の負けなのよ」
「ああなるほど。マリエッテ様もご同意の上なのね」
さすがお母様は察しが早かった。
ちょうど、ハープがお望みの場所に設置されたところだった。ならばと私もフルートの用意をするために東屋へと移動する。お母様もついてきて、東屋に設置された椅子に座った。
見計らったかのようにぽろんぽろりんと急かすように調律が始まった。はいはい解っていますよ。うまくいきますように。そんな願いを込めてフルートへ息を送り込む。ハープの音をよく聞き、そこに合わせていこうとしたところ、ハープの方が音を合わせてきたので驚いた。それ自体はまぁ、間違ってはいないと思う。これはフルートが主旋律を奏でる曲なのだから。
でも私としては、音の高さだけでもマリエッテ様に合わせた方が良いと考えていた。曲自体、私の方がメインなのに、音までこちらに合わせてもらっては義姉として顔が立たないのではないか。今からでもそうすべきではないかと思ったけれど、マリエッテ様のお顔を見て、やめた。
ものすごく楽しそうだから。
――まずは、やりたいようにやってみましょう。
私がそう、マリエッテ様に提案したのだ。たくさん我慢した分、やりたいことをやりましょう。やりづらい相手に関してはひとまず現状維持として、わがままを言える人にはどんどん言っていきましょう。特に、私に対しては我慢なさらずに。
その言葉と、マリエッテ様の笑顔を併せて考えると、このフルートに合わせるハープはマリエッテ様がやりたいこと。しかも主旋律に合わせるのは当然だという一般的な感覚にも沿っていて、異論を挟みづらくさせている。わがままを通す武器をしっかり備えているところが周到で愛おしいと思うのはおかしいだろうか。
だってこれは私の意見に、武器を持つというご自身の慎重さ、つまり臆病さを混ぜ合わせたものだ。自身の特徴を捨て去るのではなく、残したままで新しい要素を加えるのは、全く新しいものに入れ替えるよりも勇気がいることだ。なぜなら混ぜる分量によってどうなるのかまるで見当がつかないから。怖がりのマリエッテ様にとって、それはどんなに不安だろう。恐怖で前に進めなくなる可能性だってあるのに、マリエッテ様はしっかりと前を向いて歩いている。
だから私は、マリエッテ様の選択を心から尊敬する。世界中に向けて叫びたい。これが、自分のあり方を変えようとする強さを持った、私の愛する人なのだと。
そんな邪念が入ったからか、変な音が響いた。じろりと睨まれて手招きを受け、私は肩をすくめながら東屋から日の当たる場所へと出ていった。
「真面目にしないと駄目でしょ?」
「ごめんなさい。考えごとをしてしまいました」
めっ、とされるのは職員室で叱られているような気分だった。でも、マリエッテ様が頬を膨らませる理由も充分に解る。今日、ふたりが合奏するのは、ふたりの間に何のわだかまりもないことを示すため。それは誰のためでもなく私のためだ。それなのに私が締まらない姿を見せていては格好がつかない。そう思って動いて下さるのは本当にありがたい。素直に謝り頭を下げる。
「ちょっとしゃがんで」
「? はい、こうですか?」
ハープを演奏するための椅子に座っているマリエッテ様の前に跪く。あれ? これって女神とその信者の図では……。
どうしたものかと首を傾げていると、急にマリエッテ様のが近付いてきた。具体的には胸元が、目の前に。
「えっ、ちょ……」
言っている間に私の頭はマリエッテの胸に抱きしめられていた。甘い香りと柔らかさが余計に混乱を招く。これはまずい。
「落ち着いた?」
落ち着けるわけがない。鼻息が荒くなっていないだろうか。心配に思ったけど、それすらも判断できないほど頭の回転が止まっているのだから、何も答えられるはずがない。
「もう。しっかりしなさい」
慈しむような声とともに髪を撫でられた。何度も、何度も優しく。不思議と安らかな気持ちに覆われ、気持ちが自然と鎮まってゆく。
「じゃあ、そろそろ」
「はい」
解放されて、頭を上げる。大丈夫です。いけます。気持ちを乗せた笑顔で立ち上がる。元の位置に戻り、フルートを口元に当てる。ハープがゆっくりとした旋律を爪弾いて、曲が始まった。
――春。全てを凍えさせる冬が去り、春が大地に命を芽吹かせてゆく。ぴょこんと萌え出た若葉が目に鮮やかで、いつしか鳥たちのさえずりが聞こえるようになった。暖かな空気はゆるやかで、それまでの身を切るような寒さを癒やすかのように人々を優しく包み込む。
大人たちが農作業など、活動を始める中、子どもたちは服をどろどろにして野を駆け回る。どこか遠い記憶。春の花を愛で、蜜を吸う蝶に目を細める。全てが優しくて、未来は明るい希望に満ちている。笑い声が、空に吸い込まれていった。そんなイメージの曲だ。
最後の一音を吹き切り、大きく息を吸う。使用人たちの拍手が嬉しい。いきなりハープ運びをさせたそのお礼代わりの特等席は楽しんで貰えたようだった。
ぶっつけ本番だったけど、それなりに上手くやれたと思う。失敗もなく、吹いていて楽しかった。ハープが下でしっかりと受け止めてくれたからこそ、存分に吹けた。考えなしに走り回る私を、優しく見守って下さるマリエッテ様。まさにそんな関係性が良く表れていたんじゃないだろうか。左側を向き、ハープ越しにマリエッテ様へどうだったでしょうかの視線を送ると、満面の笑みを下さった。そんな私たちを見て、使用人たちは何度も頷いていた。これなら私たちの関係が口だけではなく、本当に良好であるということを広めてくれるだろう。
庭木の向こうにも観客はいる。窓を開けて二階席から見ている観客や、東屋の観客も私たちの仲が良いという証人になってくれるはずだ。
こうして、お母様の再婚に始まった私のどたばた劇は終わりを迎え、伯爵邸にも平和が帰ってきた。
今回の件で、私はたくさんの人に迷惑を掛けた。うじうじと悩まずさっさと決めていればこんな事にはならなかった。
思春期だからこんなもの、とお母様は笑ってくれたけど、それにしては迷惑を掛けた規模が大きすぎる。しかも格上の家の方々だ。
幸い、この家の方々はみなが優しかった。私のモジモジ君を理解して下さり――“憧れ”と説明してある――、笑い話にして下さった。
しかし、この件に関しては自分が自分で許せない。なのでこれからもっと勉強して、お義父様の役に立つことで償おうと思う。許すと言ってくれたけど、例え独りよがりだと思われたとしても私は償いたいし、今の私に思いつく償い方はこれだ。勉強は苦手だけど、マリエッテ様もいるし、サーラという強い味方もいるからどうにかなるだろう。
その過程で、マリエッテ様が楽に生きられるようになれば良いなと思う。
「小さい頃、お父様は仕事に行く前、いつも私に言っていたの。使用人たちを困らせるな、って」
学園が休みの前日など、私たちは都合に応じて誘い合い、夜をともにしている。話すことは次から次に湧いて出て、尽きることはないのだ。できなかったこと、やりたかったことを取り戻すかのように。新しく積み重ねていくかのように。
同じ布団に入り、マリエッテ様はぽつりと、呟くように教えて下さった。
一般的に、貴族令嬢や令息が使用人に無理難題を言って、困らせることは良くある話だし、良識が備わっていればそもそも困らせるようなことなんてしないだろう。おそらくお義父様はご公務に忙殺されていたから、トラブルが起きてもすぐに対処ができないので、控えるように、といった意味合いで言ったのだと思う。それを幼き日のマリエッテ様は、過大に受け取り、ご自分の意思を封じ込めたのだ。だって正しく意味を伝えるべき方は周囲にいないから。そしてそこから解釈が広がって、トラブル自体を収めるようになった。
たったひとりで。
助けや協力の求め方なんて知らない。そんなことは屋敷で学ばなかった。だって何も言わずに過ごしてきたから。
だから、ひとりで面倒ごとをこなすようになった。それは学園でも現れていて、それを見た私は何となくシンパシーを感じた。私も、最初はひとりでやらなきゃけいけないって思ったから。お母様に負担をかけてはいけないと。ただ、私の場合は残ったのが同性だから話をしやすかっただけだ。できるだけ一緒にいてくれたのも大きかったいつでも、気軽にいつでも、気軽に相談できたから、何でも抱え込む必要はないと知っただけ。もし、それを教えてもらわなかったら、私もそうなっていたんじゃないかとマリエッテ様を見ていて思ったのだ。
もちろん、別にひとり親だったら絶対にそうなるとは思っていないし、両親がともに健在でもそうなるかもしれない。そんなことはどうでもよくて、ひとりで何でもしようとするところに私は儚さや悲しさ、寂しさなんかを感じたから。こんなに頑張っているのに得られるものがつらさであるなら、そんな人生は許せなかった。もっと楽に生きていいんだって、笑顔になってもいいんだって教えて差し上げたかった。
でもそれは、他者の人生に手を出すことは傲慢だ。だから私は、マリエッテ様を好きになった。恋愛という甘い言葉で醜い心をコーティングしたのだ。
そうなると、この恋は絶対に叶えなければならないものになる。
だから、急に家族になると言われて、いや待って困るとなり、マリエッテ様と義姉妹になることを受け入れられずにモジモジ君を召喚してしまったのだろう。
そしてこのざまだ。
と、いうのが自分なりに自分の心を分析した最新のものだ。夜、ふたりでベッドにもぐっている時にこれをマリエッテ様に話したら、真面目すぎだと笑われてしまった。
「言葉遊びかもしれないけど、ティネが傲慢だとは思わないわ。だって、救ってやろうって感じじゃなかったんでしょう?」
「あ、はい。どちらかというと、真っ暗なところから明るいところに引っ張り出す感じですね」
「そうよね。傲慢なら引っ張り上げてやる、にならないかしら。地獄から天国へ助け上げる、みたいな?」
「ああ……」
そんなことができるのは神様くらいのものだろう。それを人間がしようとするから傲慢なのだ。なら、私がしようとしたことは?
「誘導……?」
「あ、それいい。ぜひ、道を教えて頂戴ね?」
私の左側に寝そべるマリエッテ様は楽しそうに頬を緩ませ、そっと私の頭に手を置いた。そして、小鳥を包み込むくらいの力加減でゆっくりと頭を撫でる。ほのかに伝わる暖かさが心地よくて眠気を誘う。このまま寝てしまっても良いかな、と急速に落ち行く意識の中で思う。
そうだ。明日は休みだし、お昼間にいっぱい話をすればいい。そうしよう。決めた瞬間、マリエッテ様が呟いた言葉に意識を引き戻された。
「私のひまわり……」
「えっ?」
「貴方の髪の色がね。ひまわりみたいだなって」
私の? というところにかっと目を見開いてしまう。胸が高まるけれど、それに反してマリエッテ様はとても柔らかい、春の陽だまりのような顔をしていた。そういう意味ではなかったらしい。恥ずかしさに顔が熱くなる。それでも私は閃いた言葉を、場にはそぐわないと思いつつも、言わずにはいられなかった。
「じゃあ、マリエッテ様は太陽です。ひまわりは、太陽をずっと見ています」
「そう……なら、私も輝きを失わないよう、頑張らないとね」
案の定それは、何の効果を示さなかったようだ。そよ風のような微笑みを残して、マリエッテ様は向こうを向いてしまう。そしてそのまま「おやすみなさい」と告げ、すぐに寝息を立ててしまった。やっぱり無理だったとひとり反省会をして、私も眠ることにした。密着はしないけど、マリエッテ様の背を見ながら。
まぁ、急ぐこともない。義姉妹でも、一緒に生活をするならやれることはたくさんある。
もちろん、欲を言えばキリがない。でも、それがマリエッテ様のためになるのかどうか。今はそこだけを考えてやっていこう。目的地だけは忘れずに。
その先のことは、その先に。




