4.サロディニア海戦
「……失礼します。」
一礼と共に、若い声が暗い船団長室に入ってきた。
そして、声に等しく若い騎士は、ゆっくりと顔をあげ、頭頂から爪先まで、まさに直立して見せた。
「来たか……。」
ギギィ………
暗い部屋の中、木製の椅子は音を上げ、白髪の老騎士はゆっくりと立ち上がる。
そのわずかな沈黙の間に、静かな波の音が室内を満たし…
そして、老騎士は口を開く。
「………周囲の状況は?」
「…………。」
若い騎士の困った表情は声を伴わなかった。
室内には再び波の音が満ちて、老騎士はふぅとひとつ息を吐く。
窓から覗く海上はすっぽりと黒い霧に全体を覆われ、その暗さは夜と形容されても不自然ではないほどだった。
「フッ、この霧は光だけでなく、声までも奪っていくようだな。」
「……い、いえ……」
「ああ、言うまでもない。
聞いたこっちが悪かったな。
……この霧の中、まともに目がきく奴なんて、そうそういない。」
老騎士は窓の外を覗き、思い馳せるように瞳を閉じる。
机上の頼りない蝋燭の火は揺らぎ、直立を崩さないまま、若い騎士は言った。
「先程から……隣の友軍船も見えません。
一部の者は動揺して……」
「ああ、わかってる。
この霧は異常そのものだ。」
老騎士は再び室内に視線を戻し、机上の蝋燭から、ランタンに灯をもらった。
「………どこへ?」
「上だ。
霧は濃いが、この目で一度、確かめないとならないからな。」
「…………私も行きます。」
二人の騎士は甲板へ上がる。
しかしそこには、船内と何ら代わりのない、暗く静かな空間が広がるだけであり、夜と昼の区別すら、その霧の中においては意味を成さないように思えた。
もはや、この船が霧中に浮いているのか、水に浮いているのか、ということの判断もつかない。
ギシィ………ギシィ……
………ギシィ………ギシィ
老騎士は霧の中を躊躇なく進み、若い騎士はそれに続く。
「……船団長様。
見てみたいものとは……いったい?」
「上だと言っただろう?
……上だ……上を見てみろ。」
老騎士が顔を真っ黒な空に向けたので、若い騎士もそうした。
そして、にわかに言葉を失った。
「……あれ……は………。」
そこにあったのは太陽……それも普段と何ら代わりのない輝きを放っていた。
その眩しさに思わず若い騎士は日差しを手で遮ってしまう。
「…不思議だろう?
霧のなかは宵闇のように暗く静まり返っているのに、陽の光は遮られることもなく確かにここまで届いている。」
老騎士は案外、落ち着いた口調だった。
そして口調を崩さずに続ける。
「…黒霧の夜……だ。」
「……黒霧の夜?」
「……ああ、20年前と同じ
黒い霧がもたらす暗闇。
太陽すら明かせない夜だ。」
「………。」
「20年前に我らがエルメスト王国の勝利で終結した北東諸国戦争、私がこの霧を見たのはその最終戦、ジェフリアでのことだった。
そう……あれは……………」
だが、老騎士は突然、口を止めた。
いや、止めざるを得なかった。
その瞬間、彼の体は勢いよく空中に投げ出されたのだ。
宙に浮いている時間が長く感じられ、彼はその間に爆散した巨大な火球と、吹き飛ぶ船の木片とを目撃した。
そして、その名を思い出すのだった。
「霧の……魔女。」
どこまでも暗い霧の中に、鈍く轟音が響く。
大きく破損し炎上する船が、悲鳴を上げるように軋む船体を傾け、暗闇にゆっくりと沈んで行く。
多くの者は、すでに絶命したか、中途半端に焦げた木片と共に海に投げ出されていた。
沈み行く船体の、破損し露出した船室から、僅かに残った者は必死に声を上げる。
「……東だ!敵船影!」
が、それをまともに聞いている者はいなかった。
誰もがこの動乱の渦中に溺れて、正気を失っていた。
ある者は迫り来る死を嘆き、ある者は驚愕に思考を失い、そしてまたある者は、騎士の捨てざるべきその剣を足元に落とした。
その様はまさに、黒雲の中に稲妻が走ったかのごとき衝撃と混乱を表していた。
しかし、それとはまるで対称に、凄惨なサロディニアの海は大小の木片と、海に投げ出され生き死にすら知れない者共を浮かべてもなお、静かな波の音を奏でているばかりである。
やがて、一命をとりとめた若い騎士は目を覚ました。
しかし彼は、ひどい勢いで甲板に打ち付けられた身であり、右腕の痛みはその事を訴え続けていた。
この日、エルメスト王国軍は、来たるパルフェリア王国軍迎撃のため、サロディニア海に展開させていた船団の8割以上を失った。




