1.灼熱の吹雪~後編
グリアスの作る料理はどれも美味い。あの腕っぷしの男が作るには少し繊細すぎるくらいに。そして隠し味にはまだ少し未熟さもある。イシュルームがそこを褒めてやると、サラが照れくさそうにする。年相応の反応だろうか。それは傍目に見れば家族同然。居心地の良い空気の中でバヒムは淡々と皿を片付けていた。グリアスとイシュルームの昔馴染のような軽い会話。グリアスとサラは親子のにこやかなやり取り。そしてイシュルームとサラの孫と祖父のような空気。水を差してやるような気分にはなれなかった。だが水を差されるのはバヒムのほうだった。皆を遠目に眺めるような態度だったバヒムを輪に引き込もうと動くのはいつもグリアスだ。
「なんか今日元気ないんじゃないかバヒム?手伝うぞ?」
「たのむ。…さっき夢を見たんだ」
「あぁ…いつものな…」
ぼやけた光と熱の景色。それがいったい何のイメージなのか、バヒムには分からなかった。しかしグリアスには予測がついている。イシュルームが連れてきた孤児。初めてみたバヒムは痛々しかった。この世の醜い部分、つらい現実を見すぎた瞳。彼の中に希望はなかった。生きる意味を失った少年は夢の話をしてくれた。火傷しそうな熱とドロリとしたオレンジ色の光。ぼやけたイメージ。何かの象徴か?いや違う?だがそれはバヒムの中に残る決定的な心の傷だとわかった。ただ、イシュルームはこうも言っていた。記憶。それは見ないことを決めた記憶の断片だと。
「あんまり気にしすぎんなよバヒム。人生楽しんだ方がいいだろ?」
「まあな…」
二人が食器を片付ける間、サラはイシュルームに捕まっていた。仕方ないことだ。彼にとってサラはちょうどかわいい年頃だ。本当に孫と祖父が戯れるように。上機嫌のイシュルームがリズミカルに手拍子すると、サラは踊ってみせた。器用なステップが小刻みにサラの質素なドレスを揺らした。タタン…タン…タタン。首元にはお土産の緑色の宝飾が輝いていた。
「今回の土産は随分奮発したいんじゃないのかバヒム?」
「さぁ…。毎回選んでるのは爺さんだからな」
バヒムはそのまま視線を窓に移す。さっきよりも日が傾いていた。昼食を取ったのも少し遅めだった気がする。時間が経つのは早かった。あっという間だ。いつの間にか勝手に体は大きくなる。サラだってそのうち大人になるだろう。あの様子なら踊り子にでもなるだろうか。この酒場に踊り子が居たのならもっと繁盛するだろう。でもそれはグリアスが止めるかもしれない。爺さんはなんて言うだろうか。
…そこに俺はいるだろうか…。
風が窓を叩き鳴らす。ステップが止む。外のラクダが騒ぎ出す。先ほどまで見えていた日は、いつの間にか暗雲に隠れてしまった。砂漠に似つかわしくもない。
「時化だな…」
爺さんはそう言うとラクダを中に入れるために外に向かう。バヒムもそれにおとなしく続く。サラは首元の宝飾をギュッと握りしめていた。
「この辺りで時化るのは久しぶりだな爺さん」
「そうだな…嫌なタイミングだ。これじゃあ今日の酒場はすっからかんだろうな」
手際よく外に繋いであった手綱を解き、小屋の方へ誘導していく。その間もラクダたちは、不穏な風に吹かれると不安そうに唸りを上げた。重く纏わりつくような、或いは生ぬるく撫でていくような空気。いつまで経っても慣れない嫌な感覚。爺さんは慣れたとか言っていたが、いつになればこの息苦しさに慣れるのだろうか?
ラクダを中に繋ぎ直し、二人は再び酒場の方へ向かう。
「急げよバヒム。もうそろそろヤバそうだ。こんなところで死にたくはないだろう?」
「爺さんさっきと言ってること違わないか?」
「はて…?いつの話だ?」
二人は小走りで急いだが、その行く手には先客がいた。背の高い男。この吹雪を乗り切るためのローブで全身を覆い、強まる風の中に抗うようにして立っている。知り合いではない。この酒場に来る人物なら恐らくバヒムはほとんどと顔なじみだ。イシュルームならなおのこと。しかし、その風貌は誰の記憶とも被っていない。顔こそ見えないが、風を伴うそれは異質な空気を醸していた。不気味だ。この時化をやり過ごすために来たのか。或いは何か目的が?
ローブの男は2人を一瞥する。顔は見えなかった。だが二人は暗く深いフードの先に鋭い眼光を感じ取っていた。彼はそのまま暗く風に紛れるように酒場に入っていく。
「なんだあれ?爺さんどう思う?」
「いや、どうもこうも…」
イシュルームの額に汗が伝った。彼自身、カンは鋭い方だったと自負している。そのカンがなぜか騒いでいる。数年ぶりに感じる微かな焦りが指先をひりつかせる。
「バヒム、部屋に剣を取りに戻れ」
イシュルームの声はいつもより低い。強まる風を裂いて伝わる凄みを久々に感じる。バヒムは短く返事して自分の部屋に戻った。扉を開いて閉じる動作。それにすら緊張を感じる。嵐の足音は一歩一歩と迫っていた。ガタガタと震える窓、壁をたたき始める細かい砂塵。昼間の暗がりは、夜のそれより息苦しい。バヒムは机に置かれた剣を手に取る。思えばそれが、爺さんから最初に与えられた物だった。愛情よりも、知識よりも先。生きること。深く息を吸い、吐く。散逸する意識を整える。
いつもの調子が戻ってきた。バヒムは自覚するが、それは一歩遅かった。
外の空気が白い粒を連れてくる。砂漠を焦がす激しい熱の嵐。灼熱の吹雪だった。
「始まった…のか」
部屋の中にまでじんわりと効いてくる熱の予感。こうなってはもう、外には出られない。どうすることもできない。グリアスやサラ、爺さんはどうなっただろう。あの男は何者だったか。今やすべては手の届かない向こう側の出来事になっていた。嫌な思考がよぎる。ここで待っていて本当にいいのか?不安はやがて動きとなって表れる。指先は無意識にも扉に伸びていく。止められない。指先がゆっくりとそこに触れ、力が込められる。瞬間、わずかな隙間から灼熱の砂粒が部屋に入り込む。不気味に白く淀んだ空気は部屋の半分を焼き焦がすように回り込みバヒムに迫る。その時である。
「やめろ!」
吹雪の中でも伝わる低い声。バヒムは驚き、扉を閉めた。風を失った砂粒は温度をも失い、冷たくパラパラとまばらに落ちた。間一髪バヒムを巻き込むその手前で。だが、手に握られた剣は鞘ごとその熱に持ち去られた。オレンジ色の光と熱。嫌な景色。溶けて滴る刀身がその恐ろしさを物語っていた。




