始まりのホシ
彼女に名前はなかった。
彼女に、家族と呼べる者はいなかった。
或いは腹を痛め、血の繋がった女はいるかもしれないが。
三つを迎えてすぐ。
自身の金髪とは異なる、くすんだ灰髪と曇った黒瞳。
朧げでさえない記憶の彼方にこびりつくだけの女を家族と呼ぶには、誰も呼ぶことのない名前を名前と扱うには、あまりに希薄が過ぎるだろう。
彼女は、一人だった。
白砂の塔が中央に聳える、迷宮都市デスアイの裏。
命を担保とする生業に就く冒険者と言えど、容易に立ち入ることのない貧民街にて、獣として生きていた。
言葉はなかった。知らなかった。
音や意味を半端に理解すれど、それでも、自らが発する必要がない。
屍に齧り付く野良犬を参考とし。
ボロ布一枚のみをまとい、全身を泥で汚し、それでもなお輝く金の髪と共に。
不幸ではあるが、貧民街であればありふれたと。
誰かが聞けば、同情こそありはするものの、無情にもそう言えてしまうかもしれない。
けれど、嗚呼。
もしも空に、声なき運命に意志があったとするのなら。
或いは、試練と。
普通であればとうに野垂れ死ぬであろう、そう形容する他ない巡りの中を生きていた。……生き延びてしまっていた。
『──やあ。誰も手を付けられない、薄汚れた金の狼とは君のことかな?』
きっかけは、ほんの些細なものだった。
出会いは、月の隠れた夜空の下、実に気軽な挨拶一つからだった。
その男は、貧民街に住むに理知的な顔立ちであり、風貌に合う博識だった。
本を片手に、筆記具が似合うような。
希望も充実もない、飢えるばかりの街にはふさわしくない、夜空を見上げるのが似合う、ベレー帽を被った男だった。
『だったらきみは星だ! 月にさえかき消せない、夜空に瞬く無数の星々! その一つが降りてきたような金の君は、まさしくその名がふさわしい!』
男は、獣に名を与えた。
男は、獣に知を与えた。
男は、獣に理性と恥を与えた。
『僕はね、世界の全てを見たいんだ。いつかまた、世界を旅したいんだよ』
そして男は、獣に心を──夢を与えた。
どうして懐いたのかは、最早獣でさえ知るよしもない。
彼の唄う夢が心地良かったのか、或いは偶然か。
いずれにせよ、既に獣の心を失い人と成り果てた彼女には、遠い忘却の彼方でしかなかった。
そうして。
獣は少女となり、男に貧民街に教育を施され、それから幾年も積み重なった頃。
男は、病を患った。
あまり体の強くなかったであろう男は、今まで罹ってないのが奇跡と言えるほどであった。
少女は、貧民街を飛び出すことを迷わなかった。
走って走って。
多くの者に忌むべき汚物と白眼視されてなお、そうして辿り着いた果て。ネアロ組の事務所を叩き──治療のために、多額の金を借りた。
男は自らの与えた知にて、一人の少女によって負債を背負わせ救われる──はずだった。
『……えっ』
病を治して、数日。
いつものように少女が男の家へと立ち寄ったときにはもう、何もかもが手遅れだった。
家は荒らされた形跡があった。
横たわる男の首──ちょうど喉仏辺りの位置に、赤錆びた短剣が突き刺されていた。
強盗だった。
奇しくも、皮肉なことに。
男は薬を買って癒やせたからこそ、強盗に目を付けられ、財などない家に押し入られたのだ。
少女は、悲観に暮れた。
三日泣いた。三晩叫んだ。
渇こうと。枯れようと。ただひたすらに。獣の遠吠えのように、人の心でいつまでも。
やがて少女は、余ったお金を返済に回すのではなく。
貧民街より離れた見晴らしのいい──夜空の見やすい場所へ、一つの墓を立てた。
決して派手ではないけれど整った、賢い男に似合う墓であった。
そうして彼女は強盗を見つけ出し、報復を終えた後。
貧民街に背を向け、冒険者となった。
身なりを整え、泥を雪ぎ、形見と持ち出したベレー帽を被り、一人の少年として外へ出た。
どうして男が、再び旅を再開しなかったのか。
どれだけ頭を悩ませても、その答えを得られないまま。──つい、最近までは。
「……うん。なんか、分かったような気がするよ。お兄さん」
揺れる馬車の中。
ベレー帽を被った、金髪金眼の美少年──否。
ベレー帽を被った少女──ホシは遠ざかっていくデスアイを見つめ、独りごちる。
彼女が思い浮かべるは、ここ数日の出来事。
どうしようもなく苦しかったはずなのに、不思議と楽しくもあった、かけがえのない日々。
打算でしかない提案を見抜き、クソガキと呼び、ため息を零しながら。
それでも助けてくれた、あの人。
利のための関係でしかないなんて言っていたけれど、それにしては甘く優しい、ぶっきらぼうなあの人。
あの一振りが、鮮烈なほど美しかった。
その背中が、頼もしかった。
その瞳が、ぼくに真っ直ぐ見てくれた。
あの日、ぼくを人にしてくれたお兄さんと同じ。
だけど、お兄さんとは少し違う。
庇護ではなく対等と、幾度も選択を与えてくれた。クソガキと言いながら、クソガキと見なかった。
だから、頑張れた。
実はもう、とっくに無理だと諦めかけていたというのに。
それでも折れずに、ついにはあの膨大に膨れあがった利子まで含め、完済まで漕ぎ着けた。
一生涯懸けても返せない、途方もない大恩。
重いなどと。鬱陶しいなどと。
あの人はきっと、そんな風に顔をしかめて払いのけるだろうけど、ぼくは忘れることはない。
──だから。
「……またね、師匠。次は指導じゃない冒険したい。そのためにぼく、強くなるから」
だから彼女は、自らに誓うのだ。
再会を。そして背中に守られるだけでなく、肩を並べての次の冒険を。
花開き、デスアイより旅立とうとしている少女の名は、ホシ。
一人の友が獣を人に変えた、魔法の光。
次の英雄。
ダンジョンにおける、最大にして最高の秘宝。
いつか『覇王の遺産』を手に入れるに至る伝説のパーティ、『ミーティア』を束ねるリーダー。
純白の短剣携し、閃光が如き速度と鋭さにて。
故に、白流星と。
いつかその名を響かせる冒険者。その原点たる憧れを知る者は、彼女の他にはいないだろう。
そして──。
「……えっへへ」
ベレー帽の下、撫でられた余韻。
腰元に携えた短剣の実感に、口元を綻ばせる彼女は。
その胸に芽吹いた、小さな想い。
温かく、心地良い。
自覚は疎か明確な発露さえ不確かな感情。その正体を知るのは、もう少し後の話。
師匠と呼ぶ男──アロンとの再会を果たしてからである。
読んでくださった方、ありがとうございます。
本作品はここまでとさせていただきます。




