145 また逃げ込む
「〈私は――。あなたは?〉」
ん? あ、名前かな。「エフルシュナ」と聞こえて、知っている単語の組み合わせだったから訳せたのだけれど、日本ではなかなか付けられなさそうな名前になったからこれで合っているだろうかと思ったらアズさんが解説を始めた。
「直訳したら春雨ちゃんだけど」
合ってた。
「春の雨ってわけじゃなくて、春みたいな雨の日のことのはずだ。冬の終わりの方の生まれなんじゃないか?」
字面は春が近付いてきた頃っぽいけれど秋生まれの可能性が大いにある小春ちゃん的な感じか。
「〈私の名前は、ゆかりです〉」
「ゆ?」
「ゆ、か、り」
「ユカリ?」
「〈はい〉」
「――――――。――――」
エフルシュナさんはアズさんにも名前を尋ねた。アズさんはたぶん「アズって呼んで」みたいなことを言った。
アズさんとの短いやりとりの後、エフルシュナさんは私に視線を戻すと気楽な感じで何か言った。
「綺麗な黒髪だね、いいな、って」
「え」
髪の手入れはもちろんしている。昨夜はいつも使っているヘアオイルは無しになってしまったけれど、あのシャンプーとリンスはたぶんまあまあ良い商品で、今日だって別に状態が悪いわけじゃない。でも私ので綺麗なんて言ってたら涼木さん見たらびっくりすると思う。それはそれとして褒めてもらえると嬉しいものではある。
「〈ありがとうございます〉」
「――――?」
「手入れはどうしてるか。ばらの油って答えたらいいな?」
「はい」
アズさんが私の代わりに答えるとエフルシュナさんが自身の髪を触りながら喋った。彼女の髪は見たところ痛んでいる感じはないけれど当人には気になることがあるようだ。
「この子はあんず油使ってるんだってさ。この国だとあんず油が昔からいいとされてるらしい」
「へえ、あんずですか」
私は使ったことがない。
「そんでクリーム使ったり油使ったりしてて、無いよりはましかって感じで、使い方が悪いのかと思ったこともあるけど、そんなにいいものじゃないのかと疑ってたところ。次はばら使ってみようかな」
他のものは使ってみたことはあるのかと尋ねると、椿油はあるとのことだった。あんずとの違いはわからなかったそうだ。
「なんだかんだで高いのが効くってお母さんが言ってました」
お母さんはなんでだか知らないけれど枝毛切れ毛がひどかった時、椿から抽出したものが入ってはいるけれどそれがメインではなくてあれやこれやと入っていて修復すると謳っている安くないものを使ってみたらだいぶ良くなったらしい。改善したい時じゃなくてもっと良くしたい時だってきっと同じだと思う。
私の話を聞いたエフルシュナさんは、いろいろ書いてあってよくわかんない(髪に良い成分なのだろうけれど謎のものが羅列されている)商品に思い切って手を出してみることを考え始めた。
しばし雑談していたら外からポーンポーンポーンという音が聞こえて、それからアナウンスがあった。でもよく聞こえないなと思っていたら、少し遅れて店内でも同じものがスピーカーから流れ出した。
「避難警報解除だ」
じゃあ私の休憩も終わりだ。私はアズさんをしまって手袋をはめた。
座っていた人々が次々と立ち上がる。エフルシュナさんが「行く?」と聞いてきて、私は頷いてフードをかぶった。
私たちはたくさんの人に混じって外に出た。
逃げるために走った道を歩いて戻る。避難していた建物周辺はなんともなかった。サイレンを聞いた地点から少し進むと窓ガラスの割れた店舗があって、エプロン姿の人がガラス片を見下ろして溜め息をついていた。周りの建物はどうもなっていない。ここだけ運悪く魔獣に突っ込まれてしまったんだろう。魔獣の被害が出た時のための保険とかあるといいけど。
そこから一分くらい歩いたエリアでは壊れている物を複数見かけた。
車道で車がひっくり返っていて一車線しか使えなくて車がスムーズに走れず長い列を作っていた。歩道はときどき何かの破片を避ける必要があるくらいで基本自由に歩けた。
あと少しで目的地というところで、
「〈危ない!〉」
エフルシュナさんが叫んだと思ったら私の前にさっと立った。彼女の体越しに暗い赤色の何かが見えて、そして「ギョエッ」という何かの鳴き声と地面に落ちた音がすぐそばから聞こえた。
人のアズさんが外に出た。エフルシュナさんと赤いものの向こうに。
「ほわっ!?」
急に人が現れてエフルシュナさんはかなり驚いたし自分が見た現象をなかなか飲み込めなかったようで、固まったのが後ろからでもわかった。
「――――」
おそらくはエフルシュナさんを褒めつつアズさんは赤い魔獣を踏みつけた。そして、何かに気付いて素早く刀を投げた。
「おひゃあああっ!?」
自分が鳥の形の魔獣に狙われていることに気付いた通行人が悲鳴を上げるのと同時に、空中にいるその魔獣に刀が刺さった。魔獣は地面に落ちた。
アズさんが早口で何か言うとエフルシュナさんが慌てた様子で先の尖った魔力の塊を出して屈んで、踏まれている魔獣にとどめを刺した。
「主、本体回収してくれ」
「はい」
魔獣の存在に気付いた周囲の人たちがさーっと逃げていく。指示が無いから逃げる方向はいろいろだ。近くの建物に駆け込んでいく人もいる。
走ることをエフルシュナさんに伝えるとアズさんは私を抱えた。アズさんとエフルシュナさんはあっという間にファルメミア大使館に到着した。
大使館の敷地は、出入り口以外は一.五メートルはあるブロック塀とその上に取り付けられた高い柵に囲まれている。柵のデザインがおしゃれなおかげか閉塞感はそこまでない。
敷地内には元から用があって来ていたであろう人たちと、私たちと同じく魔獣から逃げてきた人たちがいる。それと、軍服らしきものを着たなんだか強そうな人たちが辺りを見回している。
「さっきの魔獣、エフルシュナさんが落としたんですか?」
私の小声での質問をアズさんが訳すとエフルシュナさんはこくこくと頷いた。本人が言っていたとおり魔術はできる方であるようだ。
「〈助けてくださって、ありがとうございます〉」
私がお礼を言ったらアズさんも一緒に頭を下げた。どういたしましてと言ったエフルシュナさんの声には困惑が含まれていた。私のリグゼ語がすごく変だったわけではないと思いたい。
「――――」
またアズさんが喋って、そこでエフルシュナさんは刀から聞こえていた声と目の前の人の声が同じであると気付いたようだ。
エフルシュナさんへの説明がアズさんから再び行われる間、私は先程の魔獣のことを考えた。
……ひょっとして、あの鳥もどきたち、私のせいでは?
あの二匹は大群の残党だったわけじゃないと思う。前に見たのろのろ亀もどきなら残ることもあるだろうけれど、飛べるあの鳥もどきがそうなるとは考えにくい。飛ぶ魔獣は大勢いる軍人をすぐ見つけるはずだ。魔獣は人間がいれば攻撃に向かう。連携する程度には考える力があるようだから即突撃ばかりではないと思うけれど何分も潜伏することはたぶんない。あったらあっちでの侵入者退治がもっと時間のかかるものになっているはずだ。
それにあの色。あずき色の男の子が放ったものかもしれない。
私がこの国で頼れるものは限られている。私が向かいそうな施設付近で待ち構えられていてもおかしくはない。魔獣の数が少なかったのは街中では他の人に襲いかかってしまうから。あずき色の男の子たちは本当に迷惑な集団だけれど、さすがにレゼラレム王国の領土内で無関係の国民や観光客が大勢傷つくような行動は控えるだろう。ひどければ多くの被害者を出したのに魔獣が肝心の標的に全く行かないなんてこともありえるし。確実に私を殴りたいなら魔獣より人がやるべきだけれどやっぱり街中だからやりづらい。だからまるで討ち漏らしたのがあったみたいな感じでちょっとだけやってみたんじゃないだろうか。たぶんちゃんとした作戦じゃなくて「むかつくからちょっとやっとくか」くらいのもの。
エフルシュナさんが魔獣にとっさに対応できる人でよかった。本当に本当によかった。
アズさんが戦えるまでに直ってくれたのもよかった。そうじゃなかったら、悲鳴を上げていたあの人がどうなっていたことか……。
……少し息苦しい。嫌な想像と見つかったという恐ろしさのせい。ここはファルメミア共和国みたいなものだし、敷地の外にいるより襲ってくるものが減るよね……?
俯いていたら頭にアズさんの手が乗せられた。アズさんのことだから私がここで考えたことは大体わかっているんだろう。
「ここにいるうちは、きっと大丈夫だ」
「そうだといいですけど……」




