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第六十六話 出産へ

 第六十六話    出産へ



 「おはようございます♪」 朝、撫子が出勤すると

 「おはよう! 撫子、早くない?」



 「うん…… なんだか眠れなくて」 


 小坂は早く出社して予約のプリントなどを壁に貼っているが、この日は小坂が出社してスグに撫子が出社してきた。



 「ふふふ……」 小坂が不気味な笑いを出すと 「何よ、どうしたの?」 撫子はキョトンとする。



 「そんなに早起きなら掃除してから出勤したらいいのに……」


 「うっ……」 


 そんな会話をしながら予約のクライアントを待っていると

  “ピンポーン”


 クライアントの予約の時間がやってくる。


 「おはようございます。 こちらへどうぞ」 小坂が対応して、撫子のブースへ案内をした。



 「おはようございます。 今日はよろしくお願いいたします……」

 クライアントは女性である。 表情が暗く、お腹が大きかった。



 「ようこそ、てのひらへ…… こちらが問診表になります。 書き終わってからのカウンセリングですので、ゆっくりお書きくださいね」 撫子は問診表と鉛筆を置いて席を外す。


 (これは温かいものがいいかな) 小坂はクライアントが妊婦であることから、冷たい飲み物より温かい物を選びテーブルの上に置いた。



 小林こばやし 奈央なお 二十六歳の主婦。



 「それでは始めさせて頂きます。 カウンセラーの久坂です」 

 撫子は資格者証を見せて頭を下げる。



 小林は下を向き、何を話そうか悩んでいると

 「小林さん、思ったことを話していいんですよ。 言葉の順列など気にせずに……」


 撫子が小林の背中をそっと押すような語り口で囁くと


 「すみません…… こうして話そうとすると、なんか馬鹿みたいだなって……」


 小林の言葉で撫子は理解してしまった。

 (マタニティーブルーか)



 小林は来月に出産を控え、近づくにつれて気分が不安定になっていたとのこと。


 「大変な時期ですものね…… 私は結婚も出産も経験していませんが、いずれその時が来たら同じように悩んだりするのだと思います」


 撫子は小林の雰囲気を汲み取り、経験がないからという理由で激高させるのを防いでいく。


 マタニティーブルーは感情のコントロールが難しくなり、撫子には経験がないことから怒り出すのを予想しての相槌である。


 「小林さん、今の心境をお話してもらえますか?」

 これは撫子の独特な言い方である。 聞き手にわざと答えるのが難しい質問をする。 そして、次に簡単な質問に換えて返答をさせるという技術である。



 「あの…… 心境と言われましても……」


 「そうですね。 言い方が悪かったですね、申し訳ございません……」

 撫子が、このような入り方をすると


 「そうですね…… 出産が楽しみだとか、不安が大きいとか…… こう言えば良かったですね」 撫子は笑って見せる。 これは入りに難しい質問をして緊張をさせる。 そして答えやすい質問にしてから緊張をほぐしていくのである。



 「そうですね…… 両方ともそうなのですが、初めてですので不安の方が勝っていると思います」 小林が答えると撫子はメモを始める。


 「きっと、私もそうなるのだと思います」 



 「先生は結婚されていないのですか?」 小林が質問すると、撫子が渋い表情を見せて


 「すみません、なかなか縁がなくて……」



 こうして緊張がほぐれた状態になり、カウンセリングの核心に入っていくのだ。



 「小林さんは結婚されて何年になりますか?」

 撫子が情報を集めていく。 緊張が無くなると小林は笑顔さえ見せるようになっていき


 「お仕事はされていましたか?」

 「はい。産休に入りました」


 小林はOLをしていて先月から産休に入ったとのこと。



 「もしかして、ずっとお家に入っています?」 撫子は気づきがあったようだ。



 マタニティーブルー。 妊娠や出産を経て幸せな状態のはずなのに、いつからか急に気持ちが落ち着かずに落ち込んでしまう症状。



 『妊娠や出産に対して強い不安を感じてしまう』『幸せなはずなのに涙が止まらない』などということが起きたりしてしまう。


 撫子は勉強してきた事を思い出していく。


 正式名称は『マタニティーブルーズ』と言い、妊娠中や出産直後に起きる不安障害である。


 近年では産前後の不安症を統合させて『マタニティーブルー』と呼ぶようになっている。



 マタニティーブルーの症状には、不安定な心理状態や自律神経の不調が存在する。


 ・気持ちが落ちる ・不安感に襲われる ・急に泣きたくなる ・イライラする ・感情をコントロールできない


 こう言った精神状態になっていく。 また、自律神経の不調により起きる症状として


 ・動悸 ・めまい ・息切れ ・不眠 ・過食 ・拒食 ・頭痛 ・倦怠感などがあげられる。


 撫子は小林の言葉から該当するものを書き写していった。



 (マタニティーブルーの原因は未だに解明されていない…… 経験もないからアドバイスが難しいな……)



 ただ、解明されていなくても大きな要素を占めているものがある。


 【妊娠や出産に伴い、大きな女性ホルモンの変動】 女性ホルモンは気持ちを落ち着けたり、多幸感を感じたりする作用がある。 妊娠や出産で女性ホルモンが急激に低下することで感情のコントロールが難しくなったりする。



 【妊娠、出産を経て起こる環境や心身の変化】 つわり、お腹が大きくなるなどの身体に起こる変化。将来的な金銭に対する不安。「良い親にならなければ」という固定観念などの強いプレッシャー。



 【妊娠、出産に伴う体力低下や睡眠不足】 妊娠、出産に伴う筋力や体力の低下。赤ちゃんのお世話による睡眠不足。



 「こう言ったものが上げられます……」 撫子が説明すると、小林は下を向き

 「最初は良かったんです…… 段々と出産が近づき、怖さとか覚悟とかが一気に押し寄せてしまって……」



 「そうですよね…… 実際、ご主人は何と仰っていますか?」


 「大丈夫だとしか……」 小林が涙を拭うと、撫子はそっとティッシュの箱を横に置く。


 「こればかりは本人じゃないと分からないことですよね……」 撫子は少しトーンを落とした相槌を打つ。


 「先生は子供が欲しいと思いますか?」 小林が顔をあげ、撫子を見ると


 「はい。 せっかく女として生まれたのですから…… それに、私は母親が好きでしたので同じような母親になりたいとも思っています」

 撫子は目を細める。



 「そうですよね…… 私も同じです。 ただ、怖くもなったりするのです……」



 マタニティーブルーは誰もがなりうるものである。 その中でも


 ・PMS(月経前症候群)やPMDD(月経前不快症候群) これは妊娠前に生理にまつわるトラブルを抱えていた人を指す。


 ・責任感が強い人 ・真面目な人 ・悩みを相談するのが苦手なひとがあげられる。


 「それ、私かも……」 小林がキョトンとすると


 「どんなことですか?」


 「いい母親になれるだろうか…… などと、一人で抱え込んでいました。 主人にも相談したかったのですが、こんなことを言っていいのかも悩んでしまって……」



 「確かに、私でも話せないと思います。 やっぱり旦那さんでも男の方ですから、分かってもらえない事もありますしね……」


 撫子は同じ女性としての悩みを受け入れていく。 これは、自分でもいつか来るだろうという感覚を秘めながら……



 「それで治療というのはあるのでしょうか……?」 小林が訊くと


 「特別な治療というのは聞いたことがありません。 女性ホルモンの変動が落ち着けば姿は見せないと思ったのですが……」


 撫子が説明すると、小林は複雑な表情を浮かべる。 安心と心配が入り交じったような顔をしていると



 「近年は女性だけじゃないんですよ。 男性だってなるそうなんです」

 「男性も??」


 「はい。 『パタニティーブルー』というのも存在します。 慣れない育児や将来の経済的な不安から来ると言われていますね」



 「男性でもあるんですね……」 


 ある研究では、赤ちゃんの出産の時に男性にも女性ホルモンの分泌が増えると言われている。 ママと同じく、一時的に増えた女性ホルモンが減少する時にパタニティーブルーが起きると考えられている。



 「その苦しみが、幸せなママを作っていくと私は思うのです……」 撫子は少しの笑みを見せると


 「苦しみが幸せ……?」


 「はい。 旦那さんがいて、幸せの形が妊娠に繋がった訳ですから…… 『生みの苦しみ……』なんて言葉がありますよね。 幸せになるための儀式と思っていればいいと思います。 それでも不安や言い表せないなら、感情を『てのひら』で紛らわせてくださいね」



 「久坂先生……」


 「そして、無事に出産して元気になったら見せてください。 そして、私に勇気をくれたらと思います」


 撫子は優しい声で言葉を締めた。



 「今日はありがとうございました」 小林が頭を下げ、てのひらを出ていくと


 (出産、頑張って……)

 撫子は玄関から見送ると



 「ほほ~う…… 撫子がママになるとこ、待ってるからね~」

 小坂は、撫子の後ろで微笑んでいたのであった。



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