躑躅
家宣は朝の総触れで大奥に御成り中。
中奥では将軍のいない
緩い時間が流れていた。
御小姓の田中と佐々木が
午後の執務の準備をしながら
気の置けないおしゃべりをしている。
田中が墨を磨りながら佐々木に聞く。
「なぁ、上様から御菓子の御申し付けあったか?」
佐々木は御殿火鉢や
脇息などを磨きながら答える。
「いや、まだ。越前様からも何も」
「鍋松君様と左京の方様との
御庭への御成は初めてだろ。
上様は御台様との御成りの準備は
いつもうっきうきなのに。
早くから御菓子や諸々の御指図があるよな」
「庭の場所や御休憩処の御指図もないしな」
「あぁ。上様やる気なさそう」
「御庭への御成りは明後日だろ。
どうすんだろな」
そこに御側用人間部越前守が
部屋の確認に現れた。
田中と佐々木は目を合わせ頷く。
そして田中が恐る恐る越前に質問した。
「あの、越前様…
明後日の御準備はどういたしましょうか?」
越前のその美しく冷静な顔が
微かに翳った。
「わたしも上様からまだ聞いておらぬ。
取敢えず
御召し物の準備をしておくように。
詳しいことは
上様が中奥にお戻りになってから聞く」
暫くすると
総振れを終えた家宣が中奥に戻ってきた。
小姓達の世話で裃から
普段着に着替える家宣に越前が切り出す。
「上様、鍋松君と左京の方様との
吹上御庭への御成りは明後日でございまする。
そろそろ御準備などお申し付けくださりませ」
家宣はやる気のない声で答えた。
「ああ、明後日か。
躑躅のあたりを歩こうと思う。
休憩は近くの東屋。
饅頭でも用意しておけ。
時間は一組あたり小半時を三回だ。
鍋松は幼いから
危ないものをどけておくように」
越前は家宣の意図が分からなかった。
「畏れながら、上様
一組あたり…三回とは?」
家宣は事務的に説明する。
「鍋松と左京だけというのもな。
折角の機会、右近と新典侍も呼んだ。
一の部屋から順に三部制の散歩とする。
御台には今朝伝えた。
後はそなたと豊原とで詰めよ」
投げやりである。
越前はこれまで家宣から
こんな適当かつ良きに計らえ的な
吹上御庭の指示など受けたことがなかった。
御台様との御成りの御準備は
数か月前からなさるのに。
庭を改造したり
船を仕立てたりと凝りに凝られ
事前に必ず御自身で
御検分なさるお力のいれよう。
しかし側室方にはこれほど
御気が乗られぬとは
家宣に長く仕える越前も
初めての出来事。
悪い予感がする。
家宣は憂鬱だった。
側室達は若く世代が違うため話が合わない。
明後日は何の話をすればよいのかと気が重い。
御台との散策ならどんなに楽しいだろう。
御台の願いとはいえ、早く明後日の仕事を
終わらせてしまいたい…
家宣は鬱々と午後の執務の準備に逃げるのだった。
吹上御庭御成の当日
出立の時間の前に
熙子は豊原と中年寄山吹を伴って
鍋松の部屋を訪れた。
病み上がりの鍋松の様子を
確認しに来たのだ。
幸い今日は天気もよく暖かい。
鍋松は父と広い吹上の散歩と聞いて
張り切っている。顔色も良く元気だ。
この様子なら散策も無事終わるだろうと
熙子は安心した。
熙子は鍋松を膝に抱いて
優しく言い聞かせる。
「鍋松、楽しんでいらっしゃいね。
母が御菓子を用意したから
休憩の時に
御父上さまと左京と一緒にお食べ」
鍋松は愛くるしい目を輝かせて
熙子に聞く。
「わぁ、ははうえ なんのおかし?」
「南蛮の卵と
お砂糖の入った甘ーい御菓子。
丸ぼうろというの。
鍋松が手に持って食べられるゆえ。
休憩になったら
豊原に言って出してもらうように」
「はぁい。ははうえはこないの?どうして?」
不思議そうに熙子の顔を見つめる鍋松。
熙子は鍋松の頭をそっと撫でる。
「お散歩が終わったら
お土産話を聞かせてたもれ。
待っていますよ」
そういうと少し寂しい思いを胸に
鍋松の部屋を後にした。
吹上お庭では
第一陣の右近との散策が始まっていた。
大人しい右近は
大人しく家宣の後を歩いている。
ただ淡々と躑躅の花を見ながら歩く一行。
東屋の休憩でやっと会話が。
家宣が右近に話しかけた。
「右近の父母は息災か?」
「はい、お陰様で息災にしております。
今日はお誘いいただき光栄にございまする」
「うむ」
「御台様から今日着るようにと、
この御着物を賜りました。
重ねて御礼申し上げまする」
淡く明るい緑色に小花や草木を描いた
若々しい友禅の打掛。
「そうか。御台の見立か。
よく似合っている」
家宣の顔が和らいだ。
大人しい右近を熙子が気にかけていることを
家宣は知っていた。
右近が熙子に感謝していることも。
新典侍を絵巻物の会に呼んだので
右近には着物を与えたのだろう。
左京には今日の散策。
御台所として
側室に分け隔てなく気を配る熙子。
家宣の心をとらえて離さない。
あっという間に小半時が過ぎた。
家宣はひとつ仕事が片付きホッとした。
あと二つ。
第二陣の新典侍とも
滞りなく穏やかに散歩が終わった。
家宣はまた胸をなで下ろす。
あとひとつ。
新典侍と入れ違いに
鍋松と左京が御庭にやってきた。
今日も濃い色の派手な柄の打掛の左京。
美しいが、似合ってはいるが、
家宣の好みの装いではない。
躑躅の傍の広い芝生のうえで
田中と佐々木を遊び相手に走り回る鍋松。
それを東屋で見守る家宣と左京。
頃合いを見て田中が鍋松に話しかけた。
「若君様、
そろそろ休憩されては如何でしょうか。
御父上様の元に参りましょう」
走ってお腹がすいた鍋松は
「うん」と可愛く答えると
素直に田中と佐々木に連れられて
東屋に向かった。
そして熙子に言われた通りに
豊原に御菓子を用意させた。
賢い鍋松である。
鍋松は可愛らしい声で家宣にお菓子を勧める。
「ははうえがくれたの
ちちうえ ごいっしょに
さきょうも」
熙子の差入れに家宣の顔が綻んだ。
「熙子が持たせたのか。
南蛮由来の丸ぼうろだな。
美味ゆえ食すがよい」
「はぁい」
鍋松が小さな手に丸ぼうろを持って
美味しそうに食べる。
左京は見たことのない御菓子に胸が痛んた。
また、わたしの知らないもの…
鍋松が食べ終わる頃に
お開きの時間となった。
家宣が戻ろうと立ち上がると
左京が鍋松に駆け寄り囁いた。
「鍋松君、こんな日は滅多にござりませぬ。
もう少し父上様に
御散歩をお願いなさりませ」
後ろに控えている越前や豊原たちは
眉をひそめた。
将軍の決めた予定に口を出すなど
あり得ないことである。
幼く素直な鍋松はまだ御庭で遊びたい。
そう実母に言われれば散歩をねだる。
「ちちうえ もうすこしおさんぽ」
折角の熙子の提案、
可愛い鍋松を叱るのは忍びなかった。
家宣は病み上がりの鍋松が疲れないよう
腕に抱いて駕籠まで歩くことにした。
道すがら躑躅の花の近くを通ると
鍋松が美しい白い躑躅の花を
その小さな手で指さした。
「鍋松、どうしたのだ」
家宣が優しく鍋松に理由を聞いた。
「ははうえに
このきれいなおはなを あげたいの。
おかし おいしかったから」
家宣は嬉しそうに笑った。
「はは、そうか。母上に御土産か。
誰ぞ一枝手折って
鍋松に持たせるように」
それを聞いた左京の顔が曇る。
「御免」
越前が進み出た。
脇差しを少し抜いて枝を切り
鍋松の指を痛めないよう枝を懐紙で包む。
そして美しく白い躑躅の花の咲いた枝を
鍋松に献上した。
鍋松は、はにかみながら
小さな手で大事に花を持っている。
「このまま父と母上の部屋に
その躑躅の花を届けに参ろう。
どれほど母上が喜ぶであろう」
「はぁい!」
「上様、わたくしも御一緒に。
御台様に今日の御礼を
申し上げとうございまする」
左京がまた口を挟んだ。
家宣の周りに
白い炎のような殺気が立ちのぼった。
「ならぬ。そなたは局に下がるがよい」
そう告げると
左京を置いてその場を足早に離れた。
鍋松を抱いたまま駕籠に乗り
熙子の部屋に向かう。
もう少し上様と鍋松と
親子三人で一緒に居たかっただけなのに。
なぜ上様は振り向いてくださらないの?
一人取り残された左京は
荒涼とした、寂しさ悲しさに襲われた。
越前も家宣の後に続いて左京から遠ざかる。
やっと久しぶりに越前に会えたのに…
「ははうえー、きれいな おはな あげる」
家宣に抱かれたままの鍋松が
少し得意げに白い躑躅の花を熙子に手渡した。
「まぁ、なんて美しい躑躅」
熙子の顔があまりの嬉しさに輝く。
「鍋松が自らこの躑躅を
そなたにと所望したのだ」
家宣も嬉しさを隠さない。
「ははうえと おやくそくしたよ。
ははうえ おかし おいしかった」
「鍋松ありがとう。
覚えていてくれたのですね。
母は嬉しくてなりませぬ。
御庭は楽しかった?」
「たのしかったー。あのね、ははうえ
ちちうえ しろかったの。おこ」
「おこ?」
熙子が目を丸くする。
「おこー」
鍋松は楽しそうに
熙子の部屋を走り回った。
「上様、どうかなさいましたの?」
熙子が不思議そうに問う。
家宣は眉間にしわを寄せた。
「若い側室の相手は疲れる。
もう懲り懲りだ」
苦々しくそう言うとおもむろに横になり
熙子の膝枕で昼寝を始めたのだった。