松
爽やかな風がそよぎ、陽の光やわらかな昼下がり。
能好きの将軍家宣の招きを受け
熙子の父 太閤基熙は、能を見ながら優雅な宴。
将軍の住まいである中奥の能舞台の上では
朗朗とした音色が響き、役者達が高砂を舞う。
「太閤殿下には、御機嫌麗しゅう。
さ、一献」
隣に座り、和やかに微笑む将軍家宣が手ずから
太閤が持つ艶やかな朱い杯に酒を注ぐ。
「これは忝うおじゃる」
娘婿の温かい持て成しに、太閤の頬も緩み
美酒を飲み干した。
将軍岳父として、長寿を願われ寿がれ
膳の上の赤い大きな伊勢海老を肴に呑む酒の旨さ。
老人の太閤が食べやすいように、身はほぐしてあり
酒と昆布出汁で味を調えて
伊勢海老の殻に盛られている。
家宣の細やかな気遣いが嬉しい。
家宣に嫁ぐ熙子が京を発った日
見送りに来てくれた友人達と呑んだ酒は
愛娘と今生の別れと覚悟して
我を忘れるまで呑んだ辛い酒だった。
時が経ち、熙子は将軍御台所となり
将軍の夫にこの上なく愛され大切にされている。
このような幸せな日が来ようとは。
熙子は美しく愛らしいから
家宣の気に入るだろうとは思っていたが
これ程愛されているとは予想外。
熙子を溺愛する家宣は
岳父太閤が逗留する旅館を
わざわざ建て直してくれた。
その旅館の麗しさに、太閤は驚いたものだ。
江戸の滞在予定は一月ほどだったが
暑いから、寒いから、と引き留められ
気付けばもう二年近く江戸に滞在して
千代田の城で将軍夫妻に持て成されている。
竜宮城に招かれた浦島太郎の如き江戸の日々。
家宣は、熙子の親戚でもある朝廷にも
心を尽くしてくれる。
「東山天皇さんのたっての御希望やった
閑院宮家を創ってもろうて
大樹(将軍)はんには感謝するばかりや」
熙子の従弟の亡き東山天皇の願いだった
新宮家創設を、家宣は叶えてくれた。
伏見宮、有栖川宮、桂宮の三家しかなく
家宣の側近、新井白石も皇統の行く末を案じ
世襲親王家設立を進言していたので
実現は早かった。
閑院宮家の当主には
東山天皇の皇子の直仁親王を立て
後に熙子の異母妹の脩子が
親王の御息所(正室)になっている。
小姓が注いだ二杯目の杯を空けた太閤は
傍らに静かに控える、越前守 間部詮房に
目線を移す。
家宣に影の如く仕える越前守 。
能役者上がりと聞いたが
浮ついたところなど微塵もなく
寧ろ堅物という印象。
女と見紛うほどの美しさでいながら
裃の外からわかるほど肩や胸に厚みがあり
端正に揃えられた手は逞しい。
いざという時、主君家宣を守るため
忙しい職務の合間に武道に励んでいるのだろう。
家宣が新造してくれた優雅な旅館にも
越前は自ら足を運び、不自由のないよう
采配してくれている。
何時寝ているのかと、疑問に思うほどだ。
太閤が越前に視線を向けたままなので
家宣が声をかけた。
「太閤殿下、越前に何か?」
太閤は、ほっほっほと笑い、扇で口元を隠し
悪戯っ子の目で家宣を見る。
「越前はよう気のつく御仁じゃな。
大樹はんは、ええ家臣をお持ちでお幸せや」
ははは、と家宣は笑い、太閤の意向を汲んだ。
「越前、お褒めに預かったぞ。
御礼に羽衣など舞って、ご覧に入れて進ぜよ」
「御意」
越前は端正に向き直り、一礼すると
能舞台に上がり、見事な舞を太閤に献じた。
能役者に弟子入りし
家宣の元で長年切磋琢磨した技を
一度は観たいと、太閤は思っていたのだ。
松の絵を背に舞う越前は、天女の如く美しく
太閤は夢幻の舞に酔いしれたのだった。
「上様とおもうさんだけで
越前の羽衣を観たなんて、ずるうございます。
わたくしだって観とうございました!」
太閤が旅館に帰った後
家宣は熙子と夕餉のために大奥に来たのだが
中奥の能舞台で越前が羽衣を舞ったと聞き
熙子は品やかな指先で箸を膳に置くと
拗ねて外方を向いてしまった。
家宣は拗ねた熙子も可愛いくて
口にしていたお吸物の椀を止め、ふ、と笑った。
「御台の望みとあらば、観せてやろう。
そなたは世だけ見ておれば良い」
そう言いニヤリと笑うと、徐に立ち上がり
羽衣を舞い始めた。
「もう、上様ったら」
熙子もくすっと笑って、機嫌を直すしかなかった。
将軍である夫が、自分のためだけに羽衣を
舞い始めたのだから。
「越前殿が、太閤様に中奥で
羽衣を御披露なさったそうです」
左京の部屋で、お年寄りの江島が心配そうに
小声で伝えた。
「そう。
越前殿の舞う羽衣は、さぞ見事だったでしょう」
「はい、そのようでございます」
左京の美しい顔が曇った。
越前に密かに思いを寄せている左京だが
大奥の局にいる今、越前には滅多に会えない。
羽衣を舞う越前を観るなど、夢。
左京の胸に、越前に初めて会った頃が浮かぶ。
側室候補の女中として、甲府御殿に上がった時に
気に掛けてくれたのは越前だった。
左京は踊り子として
幾つかの大名屋敷に勤めていたが
大名屋敷の若い藩士に、左京が淡い恋心を抱いても
皆、許嫁がいて、実家の弱い踊り子の左京など
相手になどしてくれなかった。
でも、越前は違った。能役者上がりで
家宣の能の練習相手を務める越前とは
音楽や舞の話が楽しくて、心が時めいた。
甲府御殿の家宣とは
奉公に上がった時に挨拶を述べたくらいで
その後は会うことも稀。
家宣は西の丸に入っても
側室達の世話を越前に丸投げ。
甲府御殿に長く勤めた医者の娘の右近が
側室に抜擢され、産んだ家千代が
二カ月で夭折した後
家宣と熙子は慌てて相談して
次の徳川の世継ぎを儲けるべく
健康な公家のお須免と左京を側室に選んだ。
左京が鍋松を身籠もり、出産近くになり
西の丸の山里の庭にある御茶屋を
産屋に充て移った時も
手配をして、様子を見に来てくれたのは
越前だった。
慣れない御城での生活、初めてのお産…
左京が不安な気持ちを打ち明けたら
越前は静かに話を聞いて
優しい言葉をかけてくれた。
頼れる男性は越前だけだった。
美しく優しく頼りになり、細やかに心を込めて
世話をしてくれるのだ。
何時しか、左京は越前に思いを
寄せるようになった。
実るはずのない思い。
左京の気持ちに、越前は気付いていると思う。
けれど、越前から必要以上の接触はない。
左京は夫のはずの家宣から
妻として愛情をかけられた事はない。
鍋松の様子を見に来る時も熙子と現れる。
家宣にとって左京は子供の、鍋松の母。
家宣に愛されていないからこそ
越前への恋心が募る。
越前に会いたい。
恋心は千々に乱れ、狂おしくなっていく。
その越前は、恐らく
御台所熙子に密かな、憧れの気持ちを抱いている。
越前に恋い焦がれる左京だから
越前の熙子への憧れを見破った。
熙子は越前の思いなど
露ほども気づかないだろう。
将軍の夫の溺愛、高貴な父親の溺愛
左京が恋焦がれる越前の思い…
熙子への嫉妬と劣等感と、越前への恋心が
左京を蝕み、苦しめる。




