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越前の憂鬱

「けしからん!!

 まことけしからん!!!」


烈火のごとく怒る新井白石が

どすどすと足音を立てながら

書き物をしている

越前守(えちぜんのかみ)の私室に入ってきた。


そして

越前の前にドスンと座るなり

怒りを爆発させた。


「上様はまた

 御浜御殿で舟遊びに興じておられたと聞く。

 名君であらせられるのに

 遊興に(うつつ)を抜かされるなど

 後世になんと言われることか!!!」


荒ぶる白石の怒りが火を噴いたのである。


またか…

越前は内心呆れながらも

白石の方に向き直り

冷静に和やかに白石を(なだ)める。


「まぁまぁ、

 そのようにお怒りになられずとも。

 上様には上様のお考えあってのことゆえ」


白石はギリギリと歯ぎしりをし

畳に拳を叩きつけた。


「わしは上様に

 この日ノ本の国に燦然と輝く名君に

 なっていただきたいのだ。

 そのためにはこの命など惜しくはない。

 上様ほど

 学問に真摯で徳の高い君主はおられぬ。

 その正しいお姿が後世の人々に伝わらず、

 暗君とそしられることがあっては 

 ならぬではないかっ!!!」


火之児(ひのこ)と異名を取る白石の眉間には、

今まさに文字通り火の皺が深く刻まれている。


越前はその眉間の皺をチラリと見た。

ーまことに

 火の字の皺が浮かびあがっているー


越前は

いつものように白石の噴火のなすがまま

噴石と火の粉を浴びながら静かに聞いている。

やがてその怒りがプスプスと燃え滓になるまで。


思いの丈をぶつけ気が済んだ白石に

越前は優しい声で再び宥めた。


「白石殿の上様への御期待を

 (それがし)はようわかっておりまする。

 折を見てそれとなく 

 白石殿のお気持ちを

 お伝えいたしますゆえご安心を」


そう言うと

にっこりと微笑んだ。

美しい越前の笑みは

人の心を穏やかにする

魔法があるかもしれない。


がしっ

感動に打ち震えながら

白石は越前の右手を両手でつかんだ。


「おお、越前殿

 そなただけがわしの心をわかってくれる」


これが

家宣が舟遊びや能を催す度に

繰り返される

白石と越前の儀式であった。


儀式を終え

気持ちがすっきりしたのか

白石は別人のように

落ち着いて帰って行った。


新井白石は

家宣がまだ甲府宰相であった

若い頃からの学問の師である。


以来、

毎日のように

御前に上がっては講義をしている。


家宣の学問への情熱

身分低い白石を師と仰ぎ

講義に正装で臨む謙虚な姿に

白石は心を打たれ惚れ込んでいる。


将軍就任後は

政策の右腕として幕府に迎えられた。


長く浪々の身にあった白石には

思いがけない光栄。

家宣に心酔するのも無理はない。


白石の

家宣を思う気持ちは理解できる。


白石も越前も

一度は武家の社会から打ち捨てられた身の上を

家宣によって日の当たる場所に

引き上げられたのだ。


似たもの同士の盟友だった。


二人とも

家宣のためなら

命も名誉も惜しくなどない。


だが

白石は学者だから

軍事がわからないのだろう。


舟遊びは見かけは遊びだが

太平の世の

軍事訓練であり

非常訓練でもあった。


本格的な軍事訓練をすれば

好戦的な将軍と誤解され

民の不安を煽るかもしれない。


ひいては

朝廷に誤解される恐れもある。


しかし武士たるもの

有事に備え日々の訓練を

しなければならないのだ。


わかるものだけにわかればよい

それが家宣の真意であった。


越前は怒れる白石を静めるのも

盟友の務めだと思っているが

呆れてもいた。


 白石殿は当代一の優秀な御仁(ごじん)なのだが

 毎度毎度あれほど怒って

 疲れないのが不思議だ


心に呟きながら

途中だった書き物に戻ろうとする越前の部屋に

またしても来客が訪れた。


老中土屋相模守(ろうじゅうつちやさがみのかみ)である。


「これは相模守さま。

 このようなところに恐縮でございまする。

 お呼びいただければ 

 (それがし)が参上いたしました由」


一難去って、また一難か…


越前はそう思いながらも

端正な居住いで迎え入れた。


「いやいや

 こちらこそ急にすまぬ。

 他の者に聞かれない方が良いと思ってな」


相模守は五十を少し過ぎた

銀髪が混じる美丈夫(ナイスミドル)


物腰も穏やかだがどことなく気さくで

出自の低い越前にも優しい。


「かたじけのうございまする。

 して、何事でござりましょうか」


相模守は

越前の部屋子の持ってきた茶を

のんびり啜る。


そして、ぽつりぽつりと語り始めた。


その声は低く微かに甘い。


「実は

 老中一同が心配しておってな。

 鍋松君は回復されたものの

 先頃またお風邪で臥せっておられたと聞いた。

 上様のお子様は鍋松君お一人。

 徳川の安泰のため

 上様にまた若君を上げていただきたい。

 しかし上様にはこのところ

 大奥泊りが遠のいておられるとか。

 わしからも奏上致すが

 越前殿からも

 上様と御台様を説得してほしいのだ」


相模守は

両手で茶碗を包み膝の上に置き

穏やかに続ける。


「御浜御殿御成りの首尾は上々で、

 只今、上様には大層ご機嫌麗しい。

 この好機を逃すのは惜しいではないか」


そう言うと

色っぽい流し目で越前を見つめた。


越前は、顔色一つ変えなかったが

うんざりしていた。


 やれやれ…

 やっと中奥の空気が元に戻り、

 皆ほっとしているというのに…


 上様も御台様のお喜びように上機嫌。

 お二人の間に水を差してほしくない。


 新典侍(しんすけ)様の後ろ盾の柳沢さまか

 左京様の後ろ盾の瑞春院さまが動いたか…

 おおかた押しの強い瑞春院様派だろうが…

 だが懸念はもっともであるし

 老中たちの総意とあれば受けざるを得ない


越前は静かに口を開いた。 


「承知つかまつりましてございまする」


「そうか、やってくださるか」


相模守は茶を飲み干すと

茶碗をことりと茶托に戻し

鷹揚に微笑んだ。











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