第18話
あんなに重かったマントを脱いだのに、それでも廊下を駆ける足は鎖に繋がれたように覚束ない。足首まで垂れたスカートが絡みついて何度も転びそうになって、それでもフィーリは走り続けた。
廊下を抜けて、棟を超えて。目的地が近付くにつれて息が苦しくなる。
「イグニス!」
このルクセリアで一番厳重に警備されている場所。ユグレシド王の寝室の前には既に何人か集まっていた。ルクセリアの政治を担う大臣数人が深刻そうに顔を突き合わせている。その中にイグニスの顔を見つけると、彼の方もフィーリに気付いたようだった。
「アルフェリア様」
「お父様が倒れられたと聞きました」
はあはあと荒い息をそのままに問うと、イグニスは無言で頷いた。
「一体何があったというのです。お父様はどうして……」
「それは――――」
けれど続きは飲み込まれる。イグニスの視線がフィーリの背後に注がれた。振り返ればロイがついてきてくれていた。待機していた部屋を飛び出した時、一度だけフィーリを呼び止める声が聞こえたような気がしたが、きっと止めても無駄だと分かったのだろう。背後を守ってくれていたようだった。
「これはルクセリア国の問題ですので」
イグニスはちらりとロイの顔を一瞥した。いくらアルフィリオンの婚約者だとして、まだ婚姻は認められていない他国の部外者だ。王の身に何かあったとなれば、それは他国に弱みを握られることとなる。
特に今はルクセリアが頭一つ抜き出ている状況でもある。ユグレシドの王としての外交手腕もあって均衡が保たれているが、この情報が洩れれば戦争にもなりかねない。その懸念はフィーリにも分かっている。
「構いません。話しなさい」
「フィーリ様!」
「私が良いと言ったのです。責任は取ります」
「……わかりました」
何を言っても折れないと分かったのだろう。イグニスは深く溜息をついて話し出した。
「もう何年も前からお具合は良くなかったようなのです」
「……な、」
初耳だった。声を失うフィーリにイグニスは沈痛な面持ちで続ける。
「肺を侵されているようでした。けれどようやく国の情勢も安定してきた矢先だったのと、まだローランド様はお若くいらっしゃるので誰にも知らせるな、と」
もし、万が一ユグレシドが倒れたとしたら、次は皇子のローランドが玉座につく。しかしローランドはまだ十五にもなっていない。加えて生来の優しい性格もあり、まだ国を統治するには不安がある。
きっとユグレシドのことだ。医者にかかるのも拒否したのだろう。どこから情報が漏れてしまうか分からないから徹底したのだ。
どうしてと、問おうとした口をフィーリは噤む。
責めることはできなかった。どうせ自分には期待などされていないのだからと遠ざけていたのは外ならぬフィーリ自身だ。
もしちゃんとあの離れから出て、国に携わっていたなら結果は違っただろうか。どれだけ疎まれても王女としての役目をきちんと果たせていたのなら。
ぎり、と歯を噛みしめる。
「直す手立ては?」
「……一つだけ」
「方法はあるのね!」
ほっとした顔をするフィーリに対してイグニスはまだ暗い。寝室への扉を背に、他の大臣達も無言を貫いている。
「教えて下さい」
「出来ません」
はっきりとした口調だった。フィーリは眉を潜めた。
「なぜです」
「理由も含めてお答えしかねます」
「……王女であるこの私が教えなさいと言って、尚話せないのですね」
無言は肯定だった。この国でフィーリの命令に背くほど従わなければならない存在なんかたった一つだけである。
イグニスの背、扉の奥で横たわっているであろうユグレシドを思って、フィーリの心がすっと冷えていく。
「――――そう」
一歩引く。走ったせいで服についた汗が冷たく肌にはりついて不快だった。
「お父様は、そんなに私のことがお嫌いなの」
ふ、っと心に反して唇が弧を描く。
父を好いたことなどなかった。いつだって厳しくて冷たくて、アルフェリアを疎ましく思っていることは言葉の端々からちゃんと伝わっていた。
それでもやっぱり心のどこかで情があると信じていた。王と王女である前に親子なのだからもしもの時はと、無条件で絆が生まれるのではないかと勝手に思い込んでいた。
「ごめんなさい、無理を言ったわね」
「アルフェリア様……」
その様子を見ていたイグニスは少し思案して、それからきゅと唇を引き結んだ。
「――――北の森の奥深くに、透明な花弁を持つ植物が群生しています」
引き返そうとしたフィーリの足がぴたりと止まる。振り返ると、イグニスが眼鏡のツルを指で押し上げていた。
「……それって」
「はい、王妃様の故郷です」
その場所は知っている。フィーリが幼い頃に母と二人で暮らしていたところだ。町から離れた静かな森の記憶が蘇る。
「その花びらを煎じて飲むと万能薬になると言い伝えられています。しかし、その場所は森の民しか知らぬとされているのです」
「場所なら私が知っているわ」
フィーリは見たことがなかったが、子守唄のように花の咲いている場所を教えてもらった記憶がある。そうだ。微かだが記憶があった。母と二人で世話をしていたあの場所が、きっとそうだ。
「その花を持ち帰ればいいのね」
「なりません!」
イグニスが血相を変える。
「あの森は翼竜が住まうといわれているのです! 王女が、ましてや他国へ嫁ぐ御身が行かれるなど!」
「じゃあ他の人が行けるのですか?」
イグニスはぐ、と言葉に詰まる。
行ける訳がないだろう。当時、ローランドはまだ幼かったから森のことを覚えているかも定かではない。ともなれば、母亡き今、花の場所を知るのはフィーリただ一人である。
「あの森の歩き方は暮らしていた者にしか分かりません。場所を知っているのも、行けるのも、母の血を継ぐ私のみです」
「しかし……!」
「なら俺も一緒に行こうか」
まだ食い下がるイグニスに、それまで静観していたロイがその肩を叩いた。
「護衛がついていれば安心だろう」
「余計に認められません!」
にか、と笑ったロイの顔にイグニスは勢いよく首を横に振る。
「他国の王子を危険に晒すなど以ての外です!」
「まあまあ、イグニス殿」
ざわつく大臣達を横目に、ロイはそっとイグニスの耳に口を寄せた。
「婚姻先の俺が同行すれば、少なくともその間に関しての責任は俺が取る。それにルクセリア国として軍を動かせば国民に不安を与えるだろう。この祝賀ムードの中、それを避けるために王は黙っていたんじゃないのか」
王が倒れたともなればその不安は国民に広がるし、アルフェリアの成人を祝うために今は他国から多くの旅行者が訪れている。そういった者たちの口を通してルクセリアの内情が漏洩してしまえば、最悪戦争をしかけられかねないだろう。
「なあに、こう見えて俺は剣に覚えがあるし、魔法使いと聖職者もいるんだ。ちょっとやそっとの危険は跳ね返せる。四肢をもがれようとアルフェリア様はお守りすると約束しよう」
「……わかりました」
苦渋の決断だったに違いない。しかし、今のルクセリアにはまだユグレシドが必要だった。重々しく頷いたイグニスはロイに向かって深く頭を下げる。
「アルフェリア様を、どうか、どうかよろしくお願いします」
「――――ああ」