(3)
その直後、同じ窓から、目をぎらぎらと光らせた灰色の大きな獣が飛び込んできた。
牙を剥いた口から漏れる威嚇の唸り声。狭い部屋に一気に充満する獣の臭い。
「ひっ……狼っ!」
薄情なことに、スルホともう一人の男が、首領を置き去りにして一目散に扉の壊れた玄関に走っていく。
その間にも、窓からは次々と、唸り声を上げた狼が飛び込んできた。
「きゃぁぁぁ」
「うわぁぁ」
ニューリとヴィルヨが悲鳴を上げ、飛びかかってきた狼をよけた。
そのどさくさで逃げ出した首領と大男に、狼たちが一斉に襲いかかる。
男たちと狼は室内でしばらくもみ合った後、外へ飛び出していった。
ヴィルヨが台所の窓から身を乗り出してみると、二頭の狼に飛びかかられながら、必死に逃げていく首領の姿が見えた。少し遅れて大男が、腕に噛み付いた狼をぶら下げながらもう一頭に追われて、別の方向に走っていくのも見えた。他の男たちも、それぞれ逃げていったようだ。
あっという間に、家の中はしんとなった。
「分かっていても、怖ぇえな。狼はよ」
ヴィルヨがようやくほっとした声を漏らした。
「これで狼たちはあいつらの臭いを憶えたから、あの四人はもう、ここには近づけないよ。ついでに言えば、君とカティヤを襲うこともない」
二人の話し声が聞こえてきたから、天井裏のカティヤはいてもたってもいられない。自分の故郷かもしれない村の話をしたくて、天井板を外して顔をのぞかせる。
「もう、降りていい?」
「おう。気をつけろよ」
そろそろと戸棚の上に足を下ろすと、下で両手を広げたヴィルヨが待ち構えていた。
どうしよう……。
昨日までなら、こんな時、兄の腕の中にぽんと飛び込んでいたのだ。けれども今、兄の顔をして自分を受け止めようとしている男は、本当は兄ではない。
ヴィルヨは以前と変わらない態度で、自分に接してくれている。けれども、カティヤの心の中には、彼との間に細い線が一本引かれてしまった。彼の気持ちを聞かされてしまった今、妹の顔をして彼の腕に飛び降りることなど、できるはずがなかった。
「どうした。早く降りてこいよ」
「う……うん」
当然のような顔をして下で待っている「兄」に、どうしていいか分からなくて困っていると、彼を押しのけるように、戸棚の前に椅子が押し込まれた。
「ほら。後ろ向きに降りたら椅子に足が届くよ。僕が椅子を押さえているから、ゆっくり降りて」
椅子の背もたれを支え持ちながら、にっこり笑うニューリに促され、自力でそろそろと戸棚を降りる。
ヴィルヨは苦々しい面持ちで二人を見守っていたが、口も手も出さなかった。
椅子から降りるときに手を貸してくれたのも、ニューリだった。彼はカティヤが無事に床に降り立つと、同じ椅子を勧めてくれた。
「君の生まれ故郷の名前、聞こえた?」
「うん。パンキクッカって……」
屋根裏にいたカティヤの位置からは、壁の文字は見えなかったから、慌ててあたりを見回した。そして竃の上の壁に、ものすごい癖字で書かれた文字を発見する。
ゆっくりと一文字ずつ読んでいくと、確かに、天井裏で耳にした言葉通りの文字が並んでいた。
「あぁ……。本当にパンキクッカで間違いないのね! どこにあるの?」
腕組みをして壁にもたれているヴィルヨに、期待に輝く目を向けると、彼は黙って首を横に振った。今度はニューリを見たが、彼も同じだった。
「ごめん。僕も知らないんだ。あの男はこの国の北の端にあるって言ってたけど、あの極寒の地に、花という地名はそぐわない気がする」
「あぁ。奴が正直に教えてくれるはずがない。正しいのは村の名前だけだろう」
ヴィルヨの視線に釣られて、カティヤはもう一度壁に書かれた文字を見た。
それは、彼ら二人が、命がけで盗賊団から引き出してくれた真実。岸辺と花の文字が並ぶ美しい地名。
「でも、湖の近くにあるっていうのは正しいでしょ? 村の名前に岸辺ってついているくらいだから」
「まぁな。だが、この国には湖が何百ってあるんだ。ほとんどの町や村は湖のほとりだ。何の手がかりにもならねぇよ」
「あぁ……そっか。そうね」
がっくりと落とした肩がぽんと叩かれ、明るい緑の瞳に覗き込まれる。
「でもさ、名前から考えると、温かな南の地方のような気がするな。ほら、森の中で君に話しただろう? 南にある大きな湖の近くに咲く、珍しい花のこと。君の故郷がそこだったら素敵だね」
「うん」
本当にそうだといい。
彼が話してくれたその湖には、周囲を取り囲むように真紅の花が咲き乱れているのだという。その景色を頭に思い描くと、少しだけ気持ちが上を向いた。
ヴィルヨが壁から離れ、部屋の隅で埃まみれになっていた上着を拾い上げた。
「これから、旅に必要なものを買いに町に行ってくる。ついでに、その村を知っている人がいないか聞いてこよう」
「だったら、わたしも一緒に行くっ!」
「……だめだ。お前は留守番だ。ここで旅支度をしていろ」
「でも、しばらく旅に出るんだし、みんなに挨拶ぐらいしたいわ」
椅子から立ち上がってヴィルヨに詰め寄ると、彼はカティヤの瞳をじっと見つめた後、辛そうに目を背けた。
「だめだ。…………今のお前を、町の皆の前に出す訳にはいかない」
「……あ」
さっきまでの騒動でしばらく忘れていた、いちばん厳しい現実が、いきなり覆い被さってきた気がした。
精霊の花嫁である証拠——真紅の瞳。
この瞳の色を、町の人々に知られる訳にはいかない。
精霊の花嫁の伝説は、この町では悪く伝えられてはいないが、花嫁が実在すると分かったらきっと騒ぎになるだろう。これまで親しくつき合ってきた人々も、奇異の目で見るだろう。
せっかく追い払った盗賊団に、噂が伝わってしまっては元も子もない。
「あぁ……」
カティヤは重圧に背中を丸め、両手で顔を覆った。
自分一人が、人間の世界からはじき出されてしまった気がした。
ヴィルヨの気配が近づいてきても、顔が上げられないでいると、頭のてっぺんに大きな手が置かれた。そのままぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられる。
「誕生日おめでとう」
「……え?」
思いがけない言葉に驚いて、顔を覆った手を離そうとすると、細いものが手にぴんと引っかかった。それを慌てて外すと、首の後ろに細く重みがかかり、何かが目の前に落ちてきた。
「昨日は、お前にとって忌まわしい日だっただろうけど、それでも俺は、お前の誕生日を祝いたいんだよ。だから……十五歳、おめでとう」
大きな手はカティヤの頭をぽんぽんと叩くと「行ってくる」と離れていった。
細い革ひもに結ばれた、小さな円錐状のトナカイの角が胸元で揺れている。手に取ってみると、角の削られた側面に、並んだ二羽の小鳥が彫り込まれていた。
この国で、古くから幸福の鳥と呼ばれて親しまれている図柄だ。
その一羽は自分で、もう一羽はきっと……。
カティヤはその角を両手でぎゅっと握りしめて立ち上がると、壊れた玄関扉をくぐろうとしているヴィルヨを目で追った。
「お兄ちゃん! あの……ありがとう」
ようやく口にできたのは、たったそれだけだった。
プレゼントに込められた彼の想いに触れても、やはり「お兄ちゃん」としか呼べない自分が歯がゆかった。
彼は振り返ることなく右手を上げて「おう」と応え、そのまま出かけていった。




