29 夏の引力
明日だけはどうしても行きたい。そう椿が言って、私はそれを承諾した。椿の気持ちは痛いほど伝わってくるし、その気持ちを、私も知っているから。
次の日の朝。椿が登校して、その10分後に私も家を出るのだが、10分過ぎて、20分過ぎても、私は家にいた。母はとっくに家を出ているし、今日は月一恒例の反省会だから、帰りも遅い。椿には部活の助っ人をやらずに帰ったと言ってしまえば、それが事実になる。
「学校サボるのなんて、初めて」
椿から聞いた乃李のメールアドレスに「具合悪くて休むから先生に言っといて」と、家のパソコンから送っておいた。椿も学校をサボったことなんてないし、先生の信頼も厚いから、友達から欠席を告げるのでも大丈夫だろう。
椿が私の学校へ行ってしまったから、私には行く場所がない。
椿の学校は、もう、私の行くべきところではない。
夏には、会えない。
* * *
午後3時をまわって、そろそろ学校が終わった時間。有意義というよりも、無機質だった今日。こんなに暇を持て余したのは、初めてのことかもしれない。
「学校って、楽しかったんだ」
サボってみて、分かった。いつも友達に囲まれて、生徒会の仕事に追われて、部活の助っ人を頼まれて――。そんな毎日。忙しくて、疲れる毎日。だけどすごく充実していて、楽しい時間だった。いつの間にか私の生活の一部になり、私の習慣になっていた。
――あぁ、あたし、楽しかった。このままこんな日が続けばいいなって思ってた。
過去を後悔するのは、それが、戻らない時間になってしまった証拠。
私の生活は、また、前と同じ日常を取り戻していくのだと思っていた。
ピンポーン ピンポーン
そこへ、インターフォンが鳴った。椿、ではない。椿なら、そのまま家に入ってくる。
モニターなんて便利なものはないので、仕方なく玄関で、「どなたですか」と声を張る。ドアの向こうには確かに人の気配があった。
相手はひとつ、黙ったあとに、
「あ、俺……。入来、夏だけど……」
躊躇いがちにゆっくりと話す、夏の声が聞こえた。
* * *
二度と会えないと思っていた。
二度と声を聞くことだってできないと、思っていた。
「夏……?!」
私は驚いて、思わず、声に出す。
「椿、だよな。やっぱり家にいたんだ」
「夏。何で、ここに?」
「直接会って話したいことがあったんだ」
そう言って、夏は黙った。私がドアを開けるのを待っているのだろうか。だけど私は、ドアノブに手を掛けたのに、それを開けることができなかった。再び夏と向かい合ってしまったら、私の心はもう一度、夏という引力に絡め取られてしまうと思った。折れそうで、なのに折れない不安定な心。きっと、一瞬で、夏の元に戻ってしまう。
「何、話したいことって」
「あ、いや、あのさ……。今日、休んだのって、俺のせい?」
「え?」
「ほら昨日、俺、無神経だっただろ。椿にばっか、責任みたいなの、押し付けて。椿だって大事な友達なのに、考えてなかった。本当、ごめん」
今さらそんなこと言われても、もうどうしようもない。
そう思っているはずなのに。夏と、向かい合ってさえいないのに。
――どうしよう。
この声が。この、ドア越しに伝わる、存在感が。夏のすべてが。
私を狂わせる。もう一度、夏の元へ。ふらふらゆらゆらと彷徨いながら、視点は確かに夏のほうへ、はっきりと向かっている。




