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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第二章

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19/20

空白の頁

 久しぶりに、ぽっかりと“何もない時間”ができた――そう感じたのは、ティレーンに来てから初めてだった。


 昨夜、ギルドでミナの話をした結果、《空鎖》の幹部と面会の約束を取りつけた。


 面会は午後。

 それまでの半日、久しぶりに三人は各々自由に過ごしてもいいことにした。


 朝、街はいつもより穏やかだった。

 風に吊り橋が鳴り、霧を纏った帆船がゆるやかに港を離れていく。

 ラグナは軽装のまま、街の中央にある《ティレーン公図書館》へ向かった。


 ミストモスを出て以来、まともに“知識”に触れるのは初めてだった。

 共鳴のこと、遺跡のこと、そして――転移式紋章のこと。

 この街なら、何か手掛かりがあるかもしれない。


――――――


 《ティレーン公図書館》は、想像以上だった。


 三階建ての円形建築。

 天井まで届く書架が何列も立ち並び、梯子が鎖滑車で上下していた。

 灯光石の柔らかな光が本の背と紙の縁を照らし、風がめくる音が静かに響く。

 古い紙の匂いと、錬金インクの乾いた匂いが混じり合っていた。


 ミストモスの小さな資料館の何十倍もの蔵書。

 ラグナは梯子を登り、歴史書の棚から数冊の年代記を抜き出した。

 目次は膨大だ。だが、探していた言葉――“共鳴”、“遺跡”、“転移式紋章”――のどれもが見つからない。


「……おかしいな」


 さらに古い、神話に近い時代の書物を開く。

 そこには、かつて世界を統べていた「始祖」たちの記述があるはずだった。


 “始祖とは、ことわりを編む者であり……”


 記述を見つけた。

 だが、その先のページをめくった瞬間、ラグナは息を呑んだ。


 読めない。

 文字が消えているわけではない。紙が破れているわけでもない。

 文字の上に、黒いインクをぶちまけたようなノイズが走っていた。

 染みは不規則に明滅し、生き物みたいに紙面を浸食している。


(……なんだ、これ)


 ラグナは眉をひそめ、隣のページを見る。そこも同じだ。

 重要な記述があると思われる箇所だけが、ピンポイントで塗り潰されている。

 誰かがインクで汚したのではない。

 この世界そのものが、その情報の開示を拒絶しているかのような、絶対的な隠蔽だった。


「探し物かい?」


 背後から声をかけられ、ラグナはビクリと肩を震わせた。

 振り返ると、背の低い老婦人が立っていた。

 白い髪を布でまとめ、袖口はインクで黒ずんでいる。

 彼女がこの図書館の館長だと、首から下げた古びた鍵で分かった。


「あ……はい。少し、古い術式のことを」

「術式ねぇ。ここにあるのは大抵が写本だよ。原典はもっと深い場所か、あるいは燃えちまったか」


 老婦人は棚と棚のあいだを歩きながら、ゆっくりと手を滑らせた。


「この前まで、ここにもっと詳しい本があったんだけどねぇ……」

「この前、って……いつ頃ですか?」

「うーん、二年? 三年? あら、五年は経ったかしらねえ」


 ラグナは思わず天井を仰いだ。

 自由都市の図書館らしく、記録も管理もゆるいらしい。


「貸し出しで無くなったんですか?」

「そうねぇ。誰かが借りていった記録はあるんだけど、誰だったか……。思い出そうとすると、頭に霧がかかったみたいになるのよ」


 館長はこめかみを軽く叩いて笑った。

 ラグナの胸がざわつく。

 頭に霧がかかる。それは、ミナが「カルヴァ」のことを話す時と似た反応だ。


 情報は、物理的に消えただけじゃない。

 人々の記憶からも、静かに、確実に「剪定」されている。


 ラグナは棚に手をかけたまま、静かに目を閉じた。

 ロムばぁの声が蘇る。


「この印のことは、誰にも言っちゃいけないよ。あれは、まだ名を持たない力なんだからね」


 彼女は知っていたのだろうか。

 この力が、世界から拒絶され、消されるべき対象であるかもしれないことを。


 胸の《銀の箱》が、衣の下で硬質な冷たさを放っていた。

 自分は、知ってはいけない秘密を抱えている。

 その重みが、改めて肩にのしかかった。


――――――


 ロムばぁの声が遠ざかると、再び紙の匂いが戻ってきた。

 日が傾き、窓の外の風見鶏が軋む音が響く。


「……結局、何も分からなかったな」


 ラグナは手元の本を閉じ、息を吐いた。

 だが不思議と、焦りはなかった。

 ここには、何かが“消された痕跡”がある。

 そのこと自体が、ひとつの答えかもしれない。


「やっぱり……ここにいると思った」


 セラの声が、図書館の入口から届いた。

 ラグナが振り向くと、彼女が微笑んで立っていた。

 その横には、いつものようにミナの姿もある。


「そろそろ行こう。……《空鎖》が待ってる」


 ラグナは頷き、最後にもう一度書架を見上げた。

 積み上がる無数の知識の影――そのどこかに、世界の“空白”が隠れている。

 そしてその空白を埋める鍵は、きっと自分の中にある。


――――――


 午後の風は、午前より少しだけ熱を帯びていた。

 港の桟橋では、帆布の橋が低く唸り、鎖がゆっくりと軋む。

 空に浮かぶ巨大な影が、船腹の輪郭を曖昧にしたまま雲の切れ目を渡っていく。


「こっちです」


 案内役の青年が手を上げた。

 青銀の外套。肩口に鎖の刺繍――《空鎖》の団員だ。

 彼に続き、ラグナ、セラ、ミナの三人は、昨日見上げたあの飛行船へと渡り板を進んでいく。


 近づくほど、艦は街の建物一つぶんの存在感で迫ってきた。

 蒼鉄色の外殻には幾筋もの術式配線が走り、光が血管のように脈打っている。


 ラグナの目には、その光の流れがはっきりと見えていた。

 やはり、この船は「生きている」。そして、正常だ。


 乗り込むと、艦内は思った以上に静かだった。

 厚い隔壁が外音を吸い、床の振動だけが低く伝わる。


「幹部と会える、と聞いています」


 セラが短く確認すると、案内役は頷いた。


「ええ。……幹部、というより――団長のライアンです」


 三人の足が、同時に止まった。


「団長?」

「ライアン様が、直接」


 ミナが小さく息を呑み、セラの袖を指先でつまむ。

 ラグナは頷き、歩を進めた。


 通路の突き当たり、艦尾寄りの応接室。

 扉が開くと、柔らかな灯光石が壁面を照らしていた。

 重ねた地図と磁針、薄い茶の器。

 窓は小さいが、見える空は深い。


「よく来たな」


 低い声が、室内の空気を楽器のように震わせた。

 立っていたのは、三十代半ばほどの男。

 浅黒い肌、短く刈った髪。

 外套は着流しではなく、胸元まできっちり留められている。

 視線は静かだが、どこか海図を見る航海士のように遠くを測っていた。


「《空鎖》団長、ライアンだ。座ってくれ」


 ラグナたちが腰を下ろすと、ライアンは茶器を一つずつ押しやり、短く笑った。


「昨日は騒がせたな。おかげで港の鐘が二回多く鳴った」

「いえ。こちらこそ、突然のお願いを受けていただいて」


 ラグナが礼を述べると、ライアンは手を振って、茶を啜った。


「遠征明けでな。うちの連中も地面の匂いを忘れかけていたところだ。こういう話は、艦が温かいうちに聞くのがいい」

「遠征は……熾砂層に?」


 ラグナが問うと、ライアンは「よく知っている」と目を細めた。


「砂の層だ。昼は灼ける、夜は凍る。……君たちの目的は、孤児の件だったな」


 ライアンの視線が、ミナに向けられる。

 その眼差しに敵意はない。だが、真実を見極めようとする鋭さがあった。


「保護に関わった、と伺いました。――真実を知りたいんです」


 ラグナの言葉に、ライアンは短く息を吐き、言葉を選ぶようにした。


「熾砂層の砂丘の“背”をたどっていたときのことだ。火の連合の都市セリフェアンで戦があった、と伝令が入った。急行したが……着いたとき、街は燃え尽きていた。石も砂も赤く、炎の名残だけが揺れていて、音がなかった」


 ミナの指が、茶器の縁をきゅっと掴んだ。


「アグニアとヴァルト=ヴァルドの衝突は“あった”。それは間違いない。だが原因は見えなかった。火の連合の援軍は来ていなかったし、瓦礫の上に立つ旗は、どちらのものでもなかった」

「……救援や復興は?」

「消極的だった。火の連合の都市だというのに、だ。だからせめて、動ける命だけでも空に上げた。孤児の移送は、その結果だよ」


 室内の空気が靡くように揺れた。艦が微かに姿勢を変えたのだろう。

 静けさに、金属の微音が滲む。


「――団長、入るわ」


 軽いノックと共に、扉が開いた。

 入ってきたのは、年若い女性。

 黒に近い濃紺の髪を高く結い、白の軍衣の上から青銀の肩章。

 立っているだけで刃の線が見えるような、無駄のない姿勢。

 瞳は明るく、気が強い光を湛えていた。


「紹介しよう。訳ありの剣士――オリヴィアだ」

「訳あり、はやめてください、団長。初めまして。《空鎖》のオリヴィアです」


 彼女は一礼し、卓の向かいに立ったまま視線で三人を測る。

 言葉遣いは高潔だが、抑えきれない芯の強さが端々に滲んだ。


「先ほどの話の続きを。セリフェアンの件、“原因が見えなかった”は同意します。ですが――アグニアが火をつけた可能性は高い」


 言い切りだった。

 ライアンが「落ち着け」と目でたしなめる。


「証拠の前に、現実があるわ。四年前からアグニアは積極侵攻に方針転換した。境界線を越える時のためらいが、消えた」


 オリヴィアは手袋を外し、短く息を吐いた。

 白い指に薄い傷跡がいくつも走っている。


「私は、アグニアが最初に牙をむいた都市王国の――王女だったの。当時十三。父は殺され、街は崩れた。逃げて、逃げて、砂の上で倒れかけた私を拾ったのが《空鎖》。それから剣を握り続けて、今はここにいる」


 言葉は淡々としているのに、部屋の空気が熱を帯びる。

 ミナが小さく「……ごめんなさい」と呟くと、オリヴィアは微笑んで首を振った。


「謝ることは何も。あなたの中の火を消さないことの方が、大事」


 その口ぶりは自然体なのに、王宮で育った者の“高さ”が、ふと滲む。

 彼女の憎しみは本物だ。アグニアに対する明確な敵意。

 だが、ラグナはふと思った。

 彼女の故郷を滅ぼしたのも、本当にアグニア“だけ”なのだろうか。


「それで――あなたたちの聞きたい街の名前は?」

「カルヴァ、です」


 ラグナが口にするより早く、ミナがはっきりと言った。

 オリヴィアの表情が、わずかに動く。


「……カルヴァ」

「ご存じですか?」

「確かに“聞いた覚え”はある。けれど……」


 オリヴィアは言葉を濁し、眉間を押さえた。

 その顔に、微かな苦悶の色が浮かぶ。


「変ね。名前は知っているのに、場所が思い出せない。地図にもないし、記録にも……薄い」


 彼女は扉脇の棚から薄い綴じ地図を抜き、卓上に広げた。

 熾砂層の都市群、火の連合の交易路。指が何箇所かを滑り、止まる。


「このあたりに、その名を口にした商隊がいた。二年ほど前。私は直接会っていないけれど、隊長の報告に記録が残ってる」


 ラグナはオリヴィアの様子を観察していた。

 彼女が思い出そうとするたび、彼女の頭上で光が明滅し、黒いノイズが走る。

 記憶へのアクセスが、何らかの力で阻害されている。

 図書館で見た「塗り潰された文字」と同じだ。


(……やっぱり、消されている)


 街ごと。記録ごと。そして、人々の記憶からも。


「……調べます。内部記録、外部の目録、古い航路図――二、三日はください」


 オリヴィアは地図を畳み、ライアンに視線で問う。

 団長は短く頷いた。


「《空鎖》は外に対して誓いを立てている。“子どもの声に敵も味方もない”。……君たちの件も、その誓いの中に置こう」


 ラグナは小さく息を吐き、深く礼をした。


「ありがとうございます」

「礼は不要だ。――ああ、最後に一つ」


 ライアンが磁針に指を置き、微かに回した。針は迷わず北を指す。


「この数ヶ月、ティレーンで魔導器の異常共鳴が散発している。原因はまだ掴めないが、奇妙な“歪み”が観測されている。……もしどこかで“軋む音”を聞いたら、すぐに下がれ。追わないことだ」


 ラグナの胸の奥が、わずかに固くなる。

 ライアンも気づいているのだ。この世界に、説明のつかない異変が起きていることに。


「肝に銘じます」


 セラが短く答え、ミナも真剣に頷いた。


 面会は、唐突に始まり、滑らかに終わった。

 扉の外の通路は静かで、遠くで艦の心臓が低く鼓動している。

 案内役が歩き出し、三人は後に続いた。


 甲板に出ると、空はすでに橙に傾いていた。

 港の帆橋が風に鳴り、光が鎖を走る。

 遠くで《空鎖》の別艦が旋回し、銀の尾を引いて高度を落とす。


「……どう思う?」


 桟橋に足を下ろしたところで、ラグナが問う。

 セラは少しだけ考え、短く言った。


「“記録にない名”は、わざと隠されたか、そもそも誰も書けなかったか」

「どっちにしろ、まっすぐには辿り着けない、ってことか」

「……でも、道は見えた」


 ミナが、両手で肩紐を握りしめる。

 その瞳には、これまで手にできなかったものの分まで、静かな火が灯っていた。


「また会える。数日後」

「うん」


 港の鐘が二度、三度と鳴る。

 ラグナは振り返り、空に浮かぶ蒼鉄の艦影を見上げた。

 鎖の紋章が夕陽を受けて、短く、確かに光った。


 遠くのどこかで、世界の見えない頁が、ひとつ音を立ててめくられる気がした。

 その先にあるのが希望か、それとも虚無か。

 確かめるためには、進むしかない。



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