・ * 揺れる兎姫 * ・
「ふぅ――……」
闇医者を生業とする狐の貴一は三角の耳をぴくりと揺らして銃創の手当を締めくくると、尻尾を揺らして煙管に火を入れた。
「あとは此奴の体力次第だね」
「有り難う御座いました。お代にこちらをお納めください」
兎姫は美しい顔を輝かせ、こんな薄暗い洞穴に場違いなほど丁寧に頭を下げると、髪に挿していた簪を差し出した。
「無用無用。此奴は縁あって以前から診ておるゆえ」
「でも……」
貴一が丁重にそれを辞退するが、兎姫は簪を下げることもできずにまごまごしている。
血にまみれた着物ですら売れば暫く遊んで暮らせそうな上物だが、細やかな金の細工がしゃらしゃらと涼やかな音を立てる簪も相当の業物だ。
「ふむ。そうまでいうなら、頂いておこうかね」
目を細めた貴一は簪を懐にしまいこむと、安堵の息をついた兎姫を横目に煙を燻らせ、つくづく悪運の強い男だと心の中で呟く。
(やれやれ、まさかちゃんと線香を上げているとはねぇ……)
狼狩りがあったのは、一月程前のことだ。
殆どの獣人が文化を築いている中で、狼は昔ながらの獣の生活に誇りを持ち、交わろうとはしなかった。それだけなら構わないが、街道をゆく旅人や商人を襲っては食らうので、盗賊などより質が悪くていけない。そこで松平家が陣頭指揮を執って行われたのが、先月の大規模な狼狩りだ。
大量の銃を用いて狼の群を殲滅した後、貴一は疫病が流行らぬように火葬に付す現場の立ち会いの依頼を受けていた。そこで多くの狼の遺体に埋もれて、気を失っていた牙狼を見つけたのだ。
曲がりなりにも医者の性分というべきか――単なる気まぐれも大いにあったのだが――匿ってやることにした。
群で狩りをする狼が一匹だけ生き残ったところで長くはなかろうと思ったし、差し入れてやった肉には手を着けず弱っていく一方。ならば自身の死後のためにも、仲間を供養してやるのが生き残った者の勤めだと諭して線香を置いて帰ったのは1週間前のことだ。しかしそれは高説を垂れて名医を気取るのも悪くはないという程度の気持ちで、死後だとか来世などという思想を持たない狼に説いたところでどうせ聞く耳など持つまいと高を括っていたのだが。
だというのに洞穴の奥にはおざなりに教えてやったとおりに墓標が立てられ、その前に線香が焚かれているのだから、どうにも夢見が悪くなりそうな案配だ。
貴一はそんな曰くの狼のために血相を変えて医者を呼び、今は安堵を滲ませて狼の手を両手で包んでいる盲の兎姫をちらと見た。
(こちらも……ちいとばかり頭痛の種だな)
貴一はもう一度、煙をゆったりと臓腑に染み入らせてから燻らせ、それが消えゆくまで眺めてから、ようやく兎姫に声をかけた。
「立ち入ったことを聞くようだがね、此奴とどんな縁がありなさるのかね?」
「わたくしは輿入れのための旅路の途中、街道で何者かに襲われて――気がついた時には、ここにおりました。そしてこの方が話をする間もなく苦しんでいらしたので恩人の大事と思い慌てて飛び出した次第です」
その名を因幡国の淡雪と名乗った姫君に、貴一はその名の通りなんともまあ雪白の姫君かと惘れた。
「雪姫さん、あんた――」
溜息混じりに真実を教えてやろうとすれば、昏々と眠っていた牙狼が突如として呻いた。すると兎姫は再び牙狼の手を取り、額に近づけて一心に祈るものだから、言い出し難いことこの上ない。
(まぁ、牙狼が目を覚ますまで暫し時間があろう)
それに、松平の大旦那は若い娘を借金の形にとっては遊郭へ流して稼いでいると専ら噂の、狼よりも質が悪い狸だ。どちらが良いかはなんとも言えないところだ。
貴一は面倒な問題をひとまず棚に上げて、とん、と火鉢に灰を捨てると鞄に仕舞い込み、ついと立った。
「明日、また様子を見に来よう」
「有り難う御座います」
高貴な身の上だろうに、淡雪は深く頭を垂れた。
「時に、雪姫さんはこんなところで足を止めていてもよいのかね?」
苦し紛れに問えば、淡雪の表情には暗雲が差し、暫し沈黙が降りた。
「――わたくしは、役に立たない不具の身です」
薄闇を覆っていた沈黙の帳は、風の鳴くようなかぼそい声に揺れた。
「何故生きているのかと、こんな生にどれほどの意味があるのかと、そんなことを自問しながら生き長らえてきたのです。なれば、この無為な生にも幾許かの意味が残せれば、と」
「意味、とは……?」
消える寸前の灯火のような危うさにただ閉口しそうになる貴一はやっとのことで喉を絞った。
白兎の姫君は柔らかい指先で牙狼の鋭い爪をそっと撫でた。
「この不具の身一つで白木家が救われるならば。或いは、わたくしの死が誰かの腹を満たし、命を繋ぐ糧となるならば――」
だがしかし、そこで幽霊のような暗い表情がぱちりと泡のように弾けて、にこりと笑みを作った。
ぞっとするほど美しく儚い――泡沫の笑みを。
「……わたくしはこれまでずっと秋津雨の鈴の音を頼りに歩んで参りました。ですから、あの鈴の音がなければどこへ向かっていいものかと――」
微笑みの中に一滴の涙が伝い、そしてぽとりと落ちた。
「あんた、これが狼なのも全部知って――?」
問えば、姫君は焦点を結ぶことのない瞳をくるりと目を丸め、それから物憂げに目を伏せた。
「……そう。この方は、狼なのですか……」
呟く声はどこか胡乱で夢を見ているかのようだ。
「町では狼が街道で松平の若旦那を食ったと専らの噂になっておる。雪姫さんと供の者を襲ったのは此奴。姫君は後程食らうために攫われたに過ぎない。それを分かっていて尚、ここに留まるつもりかね?」
淡雪は美しい柳眉を寄せるだけで答えはなく、再び沈黙が降りる。
「秋津雨とは、供の兎かね?」
行くも留まるも暗い運命を背負った姫の希望となればと貴一が問えば、淡雪はつい、と顔を上げた。
「姫の供に付いていた兎は流弾に当たったと聞く。硝煙の臭いを嫌ったのか食われていなかったから、火葬に付した後の遺骨は因幡で弔うそうだ」
紅い唇が戦慄き、瞳もまた揺れている。
「――明日だ。この洞穴を出て丘を越えれば、街道がある。供の兎の遺骨は明日その街道を通る」
くたりとした耳がぴくりと揺れた。
「明日、もう一度様子を見に来よう」
同じ言葉を重ねて、貴一は街へと戻っていった。