8 転移陣
床にびっしりと描きこまれた丸い文様は、近づいてみると不思議な青い光を帯びていた。
のぞき込むように顔を近づけると、まるでわたしを誘いこむように図形は光の手を天井へと伸ばす。カーテンのようにおぼろげな光を綺麗だなと思う反面、なんだか危険なもののようにも感じられた。
これが魔法陣なのだと、わたしはすぐに理解した。
魔術師が術を使うときに、より強い力を発揮するために使うものらしい。わたしはその魔法陣というのはお伽噺の本でしか見たことがなかったのだけど、想像以上に威圧感があるのは、きっと込められた魔力のせいだ。
わたしは隣のヴェイドさんを仰いだ。
「ヴェイドさん、これは何?」
「転移陣です。どうしたんですか、嫌そうな顔をして」
「そ、そんなわけじゃ」
わたしは思わずたじろいだ。
しまった、顔に出ていたみたい。ヴェイドさんには悪いけど、はっきり言わせてもらうと魔術だの、魔法陣だの……嫌ではないけど凄く戸惑う気持ちが強いのだ。
これまでの出来事で、わたしと魔術というのは、どうやら相性が悪いみたいだと分かっているから。
いや、わたしが“黒い髪”を持つという点だけを見るなら、魔術的な意味ではすごく向いているのだろう。
だが今のところ、魔術や魔術師というものに関わって『よかった』ことなんて皆無に近いわたしである。それは昨夜、ヴェイドさんと“手がくっついた事件”からも容易に想像できるというものだ。
そこまで考えて、わたしはふと、自分の手首からのびる“紐”に目を落とした。だらりと垂れさがる薄青色の紐は先をたどるとヴェイドさんの手首に行きつく。
俄然気恥ずかしくなって、わたしはそこから目をそらした。
なかなか忘れがちだが、今こうして普通に生活していても、お互いの手が離れていないという事実は変わっていない。魔弦糸はわたし達の動きに合わせて多少の伸び縮みはするみたいだけど、わたしとヴェイドさんは未だに繋がったままだ。
現状仕方がない、打つ手がない、というのは分かっている。
だがそれにしても、こうして視覚化されると恥ずかしいものがある。
定期的に気まずい心境になるのは、早いところどうにかしてほしかった。わたしは年頃の娘なのだし、ヴェイドさんだって幾らか年上みたいだけど、若い青年と言えるのだから。普通に暮らす娘なら、年齢的にまず近づかない相手である。
お願いだから、ここにきて更に変なことが起こりませんように。
微妙な心境で、わたしは再び彼を見あげた。
「もう一度訊くんだけど、出かけるのよね?」
「出かけますよ」
彼はあっさりと返した。
「この陣から移動するので、乗ってフィオナ」
先ほど彼が言った『飛ぶ』というのは、やはりこれで行うらしい。
こんなので、どうやって外に出られるのかしら。そんな疑問を抱きながら、わたしは言われるままにその上へと移動した。
「ヴェイドさんはいつも、ここから出かけるの?」
そして転移陣の真ん中で、わたしは彼に訊ねた。
青白い光ごしに彼の綺麗な顔が見えて、向こう側の景色がよりいっそう幻想的なものに見えている。その実態は、散らかり放題、汚れ放題の屋敷だということは頭から追い出した。
「いや、これは特別。今日は君が居るから、口頭式じゃなくて単純式にしたほうが良いかと思って。普段は魔法陣なんて使いませんよ」
単純式?
耳慣れない言葉に首をひねると、彼は「計算式ですよ」と、続けた。
「あらかじめ記述を施された魔法陣は、口頭式とは違って導かれる答えはひとつだけと決まっています。まあ少なくとも、君が乗っているこの転移陣ではね」
わたしは思わず足もとを見おろした。
相変わらずさっぱり読めない文字がつらつらと書き連ねられているが、まさか計算式だったとは意外である。魔術というと、もっと簡単に何でもできるイメージだったけど、思ったよりも現実的な仕組みなのね。
ヴェイドさんは、まじまじと魔法陣を見つめるわたしに苦笑しながら、魔法陣のなかへと入った。人ふたりが入るにはいささか小さい図形なので、わたしの視界いっぱいに彼のローブが迫ってどきりとする。
彼は本当に、わたしが若い娘だって認識を持ってるのかしら。
「本職の僕だけならまだしも、術者以外に慣れない相手がいる場合は、あらかじめ定理を陣に書きこんでしまうほうが安全なんです」
先ほどの続きなのか、彼が言った。
「この陣のなかには式と答えだけ――つまり口頭式のように余計な脇道がないから、結果を違えようがないという理屈です」
うーん、よく分からないけど、人が口頭で行う魔術は、そこに感情が含まれる分だけ揺らぎが出るのだろう。魔力は生命力とも呼ばれるし、感情の浮き沈みに左右されるものだと以前読んだ本に書いてあった。
もっとも、世の中には感情を持たない魔術師も居るのだと知っている。
わたしは頭に浮かんだ闇を追い払うように、目の前のヴェイドさんのローブのすそを握った。やはり魔弦糸で繋いでいるよりも、直接触れていたほうが彼の気配を感じ取りやすい。
温かくて、安心する彼の気配。
冷えた体で暖を取るようにてらいなく彼に寄りそうと、ぎこちない動きで手を取られた。顔をあげると、これまた微妙な顔で彼がわたしを見おろしていた。
「君が悪い人に捕まっていた理由を、なんとなく察するよ」
いったいどういう意味だと詰問しかけたとき、ふいに借りたローブのフード部分をかぶせられる。
「――ふあっ!? な、なにするの!」
思わず声を張り上げると、彼はことのほか真面目な声で言った。
「これから外に出るから、それをかぶっていなさい」
「どうして?」と、フードをずらして彼に抗議の視線を向ける。
「いまは朝ですから、君の黒髪が目立つ」
「そ……」
それがどうしたっていうのよ。
飛び出しかけた文句の言葉を、わたしはそのまま口を閉じて呑みこんだ。そうだ、わたしの髪の色は人から嫌われてしまう色なんだったと思い出した。
――黒は悪魔の色。
小さなとげが刺さったように、胸のあたりがつきりと痛んだ。
「……ごめんなさい、忘れてたわ」
わたしがそっけなく言うと、なぜか彼は少しだけ悲しそうな顔になったが、それに構わずフードをかぶり直す。当然ながらぶかぶかに余った布に視界を遮られ、それでヴェイドさんの姿も腰から下しか見えなくなった。
少し気まずい雰囲気になったが、やがて彼は手を足もとににかざしながら、ぶつぶつと難しい言葉を紡ぎ始めた。魔術の詠唱なんだと思うけど、傍目から見ていると唱歌のように不思議な音がある。それが彼の淡々とした声音に乗せられているから、いつまでも聴いていたい気分になる。
こんなふうな言葉を昔どこかで聞いたことがあった。あれはいつだっただろう? そう遠くない過去のことだったと思うけど、その人も彼のように優しい声音をしていた。
詠唱が途切れるのを待って、わたしは口を開いた。
「ねぇ、ヴェイドさん。治安管理局って魔術を使わなくちゃいけないぐらい、ここから遠かったかしら?」
「ん?」と、彼がこちらに向く気配。
「そういうわけでも。昨日歩いて帰ってきたでしょう? 距離的にはすぐそこだ」
「……え、えーと」
それってどうなの。
ちょっと呆れて言葉が出ない。この人、歩いても行ける場所のために、わざわざ貴重な魔術を使おうとしているのだと、残念なことが分かってしまった。
「歩いて行ったりしないの?」
「しないね。そういうのは時間の無駄っていうんです」
言い切った彼に、わたしは思わず閉口した。
時間の無駄って、そんなちょっとぐらい歩いたって変わらないでしょうに!
この人は、よっぽど忙しい人なんだろうか? いや、でも、どっちかというとヴェイドさんは、のんびりマイペースな性格じゃないかしら。彼なら面倒だという理由で魔術を使っていそうに思えて仕方がない。
「で、でも、たまには歩かないと……ヴェイドさんって、ただでさえ細いのに」
わたしはぼそりと呟くように口にした。
視界に入るのは彼の、男の人にしては細身の姿だ。
よくよく思えば、普通、大の大人が、いくら勢いがあったといえど子どもに押し倒されるだろうか?
わたしは昨夜、彼と出会ったときのことを思い出す。
彼とぶつかって一緒に道に放り出されたときの話だ。わたしの身長は彼の胸下あたりまでしか無いのだから、ぶつかった相手がヴェイドさんじゃなく別の人だったなら、たぶん倒れないように受け止めてもらえたと思う。
その辺りはさすがに彼も自覚しているのか、「まあ……考えておきます」と、しぶしぶ返された。
「ではこれから陣を動かすので、念のため僕につかまっていてもらえますか。なるべくしっかりとね」
「わ、わかったわ」
わたしは繋いだ彼の手を握り直し、空いている方の手で彼の服をつかんだ。
その様子を見たヴェイドさんは、わたしから床の魔法陣へと視線を移した。
すると、青白い光がいっそう強まる。光が眩しいと思ったのは一瞬で、その次には足もとの魔法陣から水のようなものが溢れ出て、わたし達を包みこんだ。螺旋を描いて立ちのぼる光に目を奪われる。
まるで水のなかに居るみたいだった。
螺旋の光が風を巻き起こし、すっぽりとかぶったフードの端がわたしの目先でばたばたと暴れた。
すこし、体がふらついたような気がした。
きらきらと光を放つ光景は、傍目から見ればとてもきれいなのだろう。だが、わたしは次第にそう感じている余裕を失った。
「なに、これ……」
体から、なにかが抜けていくような感覚がわたしを襲っていた。やがて、強いめまいに立っていられなくなったわたしは、耐えるように彼の手を強く握る。
「ヴェイドさ……ん、気持ち、わるい」
こみあげる吐き気を抑えながら、かろうじてそう言った。
「フィオナ?」
指先が痺れて冷たくなっていく。まるで血が逆流するように、体の内側から見えないものに引きずられていくように思えた。苦しい。そのうち足に力が入らなくなり、がくりと膝をつきかける。
ヴェイドさんは驚いたようにわたしの腕を引いた。
「……すいません、フィオナ。やはり無理をさせました」
そのまま体を引き寄せられ、ふわりと彼の気配に包みこまれるのがわかった。
彼の手がわたしの髪をそっとなでる。すると不思議なことに、先ほどまで感じていた酷い気分がまるで嘘のように消え去った。
そのことにわたしは安堵の息をついて、少し震える腕で彼にしがみついた。
抱き上げられるだなんて、またしても不覚。そう思えるころには、わたしは意識を半分手放していた。