9 あの男
この人の傍にいると安心する。
今が現実か夢かも分からない状況で、わたしはただ、目の前の人にひたすらつかまっている。
ヴェイドさんが作り出した転移陣の中では、景色が素早い流れ星のように過ぎていって、わたしは自分がどこに立っているのか分からなくなっていた。先ほどの吐き気のせいで未だ震える手で、彼のローブにそっとしがみつくと、ただ触れるだけで優しくてどこか切ない、魔術師の気配がした。
彼と一緒にいると、わたしの居場所はここなのだと無意識に安堵する。
それは彼と出会ってからの数時間で嫌というほど実感していた。まるで母親に優しく撫でられているかのような錯覚に陥るのだ。
どうしてなのだろう?
ヴェイド・フロディスという人物とは昨日知り合ったばかりだというのに、こんなにも心の底から彼に惹かれてしまうのは、いったいどうして?
確かに、彼は親切な人だ。
最初に出会ったときもかばってくれたし、怪我の手当てだってしてくれたし、泣きじゃくるわたしの傍にずっと付いて居てくれた。
あと、屋敷にだって泊めてくれた。
魔術師だなんていう、人々から羨望される地位に居ながら、ここまで優しく接してくれる人は本当に稀だ。たとえ彼がわたしを小汚い娘だと蹴り飛ばしたって、誰にも咎められないような立場なのに。
だけど、それが『傍に居たい』という気持ちを抱くに足ることだろうか?
彼に安堵を覚えているのは、わたしであって……もしかしたら、わたしでは無いのかもしれない。どうしてそんなことを思うのかも、今のわたしには分からない。
でも彼に近づくたび、彼に触れるたびに感じる想いは、人を好きになるという感情よりもわたしの中のもっと深い場所に刻みこまれた、なにか本能的なもののように思えるのだ。
自分で自分が制御できなくなるような、こんな気持ちをわたしは知らない。無条件に自分をさらけ出してしまいそうになる、こんな感情は知らない……!
彼の隣にいることは嬉しくて、とても落ち着く。
なのに、どうしようもなく不安になる。
これは本当にわたしが感じている気持ちなのかと、……そう思えて仕方がなかった。
「――着いたよ」
頭上からヴェイドさんの声がして、わたしはようやく目を開いた。
かぶっているフードのせいで、視界が狭い。その狭い世界に飛びこんできたのは、彼のあの散らかり放題の書斎とは似ても似つかない、綺麗に磨かれた石造りの床だった。
どこかで見たなと思って顔をあげると、なるほど。そこはつい昨日来たばかりの場所――治安管理局の玄関ホールだった。
しかし今は朝ということもあるのか、昨夜の様子とはうって変わって人の活気にあふれていた。
喧騒にまぎれて聞こえてくるのは、乱暴な手つきで紙をめくる音。なにやら声高にまくしたてるような声。すいませんごめんなさい局長! だなんて、それに謝罪する声。ずいぶんと慌ただしい。
ふと、わたし達が立っている場所の真横を、誰かが大急ぎで駆け抜けてつむじ風を巻き起こす。
「ず、ずいぶんと……」
そして沈黙。なんだか気圧されてしまって、なにも言えないわ。
視界が悪いせいも少しはあるんだろうけど、状況がよく呑みこめなくてわたしはその場に固まった。
治安管理局というのは、王都の治安について一手にひきうける場所なのだと、昨日ヴェイドさんから教えてもらった。警備隊の詰所よりももっときちんとした場所なのだろうと思っていたが、こ、こんなに壮絶な場所なのね……。
ねえヴェイドさん、どうしたらいいの?
そう問いかけるように目線をあげると、彼は部屋のなかを見わたして何かを探している最中だった。つられてわたしも辺りを見ると、少し離れた場所に薄い琥珀色の髪をした青年を見つけた。バナードさんだ。
「――――なにもなかった? そんな馬鹿な、もっとよく探して――だ――」
うん?
ざわつきの向こうから聞こえるバナードさんの声に、わたしは思わず目を瞬いた。昨日の明るい印象とはまるで違い、彼はどこかイライラしているようだった。
なにかあったのだろうか?
「あの、ヴェイドさん」
「ん? ああ、もう離れても大丈夫だよ」
隣の魔術師に話しかけると、動じた様子もなくそう言われた。えっと、そういう意味じゃなかったんだけど。
でもそういえば、ヴェイドさんにしがみついたままだったことを思いだし、わたしはぎこちなく彼から離れた。そうした途端、包み込まれるような心地いい気配が消えてしまい、なんだか名残惜しい。
そして、先ほどの引きずられるような不快感がすっかり消えていることに気づいた。
わたしは自分の手をまじまじと見おろしたが、そうした途端、うっかり例のわたしとヴェイドさんを繋ぐ“魔弦糸”が視界に入ってしまい、慌てて顔をそらす羽目になった。
普通の人には見えないとは説明されたが、魔力持ちの人には見えてしまうそうだ。こ、こんな恥ずかしいの見られたら死ぬしかないわ。この魔術師の青年には到底分からないだろうが、乙女の恥じらいは海よりも深いのだ。
「べ、便利なのね、転移陣って」
変な考えを追いやるように言うと、ヴェイドさんは同意するように首をかたむけた。
「僕の気持ちもわかってくれたかな」
「まあ、少しは……」
確かに、あれだけ便利なら頻繁に使いたい気持ちもわかる。彼にとっての転移陣というのは、わたしにとっての辻馬車と同じなのだろう。
ただし、気分が悪くならなかったらの話である。
「でもヴェイドさんは平気そうだったのに、なんであんなに気分が悪くなったのかしら」
「僕は魔術の執行者でしたから。それに本職だし」
ヴェイドさんは、なんだか歯切れが悪かった。あやしい。
睨むように彼の顔を見ると、ヴェイドさんは少しひるんだように一歩さがった。
「もしかして心当たり……あるの?」
「……」
無言で目をそらされたあたり、心当たりが充分“あります”と言っているようなものだった。
◇
「――というわけで、分かってくれたかな」
「ちょっと。それって下手したら、わたし死んでたってことじゃないの!?」
それからしばらくして、わたしは思いっきりヴェイドさんに猛抗議することになっていた。
転移陣に入ったときの不快感のことで、彼の見解を説明された。
結論を言うと、転移陣が勝手にわたしを計算式に組みこんだ、ということらしい。
ただでさえ“魂が半分しかない”らしいわたしに、なんてことしてくれるのだ。
ちなみに先ほどヴェイドさんが言った“執行者”というのは、魔術を行使するときに主体になる者のことを意味するようだ。その補助をする者は補助者。そのまんまだ。
――口頭式じゃなくて単純式にしたほうが良いかと思って。普段は魔法陣なんて使いませんよ。
な、なにが単純式にしたほうが良いかと思って、よ!
彼の話を聞いて分かったのだが、ヴェイドさんが本来描いた転移陣は、術者が一人で、補助者はナシのものだった。だから黒髪を持つのに魂が半分という、魔術界にとっては異端中の異端であるわたしも、彼にぴったりとくっついていれば転移人数として数えられないはずだったと言われたが、なんだか素直に納得できない。
結局、数えられちゃってるじゃない。
それも、よりによって勝手に補助者として!
「そう怒らないで、フィオナ」
「わたしが不貞腐れたくもなる気持ち、ヴェイドさんに分かるかしら?」
どうせ分かんないわよね?
ヴェイドさんは、わたしのことを魔力量が多いと言ったけど、わたしに魔術の才能があるだなんて今まで考えたこともなかった。黒髪になっている理由は分からないけど、せいぜいわたしが持つ魔力量なんて、他の人のように生命維持に必要な量にすぎないだろう。
まあ、それが実際どうなのかはともかく。
魔術師でもないわたしが、いきなり慣れない魔術の構成に組み込まれなんてしたら、そりゃ倒れても仕方がない。途中でヴェイドさんに気づいてもらえなかったら、どうなっていたことかと今さら背筋がぞっとした。
「普通は、あんなことは起きないんだけどね……。補助者を組みこむのなら、まず式のなかや詠唱中にその存在を告げなくてはいけない」
「それは知ってるわよ。単純式、でしょ?」
単純じゃありませんでしたけどね!
ヴェイドさんは、ばつが悪そうな顔で続けた。
「だから、普通だったらあり得ないんです。君が不安定な状態だったことも影響するのかな、転移陣はわりと魔力を使う術だから……しかし、意外な結論が出た。術式に改良の余地があるのかもな」
そしてヴェイドさんは、“あの部分がどう”とか“あの式が余分だったか”とぶつぶつ自分の世界に入ってしまった。こうなってはすっかり置いてけぼりのわたしだが、魔術師って、いったい……。
というか、転移陣がそれだけ高度な魔術だというなら、むしろ普通に歩いて欲しかったと本当に、切実に、思うんですけど。
わたしは彼に胡乱な目を向けた。
「まさか帰りもあれなの?」
「そのつもりだけど」
彼は悪びれたふうもなく言った。じょ、冗談じゃないわ……! そう何度も命の危機に面してたまるもんですか。
「わたし、歩いて帰りますから!」
「ああその心配はないよ」
「え?」
そのあっさりとした言葉に、わたしは眉をひそめた。心配はないとはどういうことだろう。
不思議に思っていると、彼は言った。
「昨夜は急で仕方ない部分もあったけど、うちの屋敷はあんな状態だし。要するに魔弦糸が途切れなければいいんだ。きみにはもっと過ごしやすい場所を提供するから、安心してフィオナ」
「別の、場所?」
まるで噛み砕かないと理解できない、とでもいうようにわたしは彼の言葉を繰り返した。
そして思いのほか動揺している自分に気づいた。わたしはてっきり、今日もヴェイドさんの屋敷に置いてもらえると思っていたのだ。
なのに別の場所につれていかれる。
なんだろう、何か、……ショックだ。
そんなふうに狼狽えていたせいで、ヴェイドさんがふと前方に向き直っていたことに気づかなかった。
「おはよう、オルディス」
「おお、やっと来たか。おはようさん」
知らない男の人の声がした。
聞こえた距離から考えると、すぐそこに誰か居るようだ。わたしもつられて前を見やるが、ヴェイドさんから借りたローブが見事に邪魔をしてくれて視界が悪い。
――と、不意に足が二本生えた。
「…………」
いやいや、生えたんじゃなくて、その『誰か』がこちらのほうに来て立ちどまったのだろう。なんとも不思議な体験をした。……馬鹿だって突っ込みは無用よ!
「その子が例の?」
「そうです」
そして二人の会話はいつの間にか進んでいる。
ぶかぶかのフードを片手で少しずらすと、そこには背の高い、見知らぬ男の人が居た。
こざっぱりとした短い赤茶色の髪に、灰褐色の瞳。バナードさんとはまた違ったタイプの人だ。それに細身のヴェイドさんと並ぶと、その体つきのよさがかなり目立った。
ぼうっと相手を観察していると、そのうち男の人とばちりと目が合ってしまった。彼はおもむろに、わたしの前にやって来るとかがみこんだ。
「初めましてだ、嬢ちゃん」
「は、はじめまして……」
わたしがどぎまぎしたのも無理はない。
この男の人、やっぱり体が大きいんだもの。
目前にかがみこまれると、突然目の前に壁ができたようで、ちょっと気圧される。
それから教えてもらったが、彼はオルディスと言う名前なのだとか。先ほどヴェイドさんと言葉を交わしていた様子から見るに、どうやら知り合いのようだ。
心のなかで色々と推測していると、あちらもあちらで、わたしの外見に興味を持ったらしく、まじまじと見つめ返された。もしかして黒髪だってことバレたのかしら……? だとしたら、不味いんじゃないかしら。
「んー、これは……あー……?」
オルディスさんは、険しい顔でわたしをのぞきこんだ。思わず一歩、後ずさる。
――なんだぁ? この気持ちの悪い餓鬼は。
また昨日のように、ひどいことを言われてしまうんだろうか。そんなの嫌。わたしは、なにかを言おうとしているオルディスさんを見て、無意識に構えていた。
そして、
「く、ふ……わははははは!!」
「へっ?」
いきなり、彼は豪快に笑った。
まさか笑われるなんて思っていなかったので、わたしは呆気に取られた。あれ、罵倒の言葉は? 蔑むような視線は?
疑問符がとびかうわたしをよそに、オルディスさんはひとしきり笑ったあと、からかうようにヴェイドさんの顔を見やった。
「おいヴェイド。お前さん、陛下から賜ったローブをみすみすダメにするたぁ、一体いつからそんなに世話焼きになったんだ? ん?」
……賜る!?
耳に飛びこんだ場にそぐわない言葉に、わたしははっと我に返った。
そして次に、嫌な汗が額に浮かぶ。高そう、高そうとは思っていたけど、やっぱりこのローブって高かったんだわ!? わたしは目を見ひらいたまま、自分が来ている借り物のローブを見おろした。
ああ、なんだか普通に襟元に穴があいちゃってますけど。
持ち主が自らやったこととはいえ、二度と人前では着られないような状態だ。こんな良いローブを着れるような人が、こんなヘンテコなのを人前で着たら笑いものだ。だけど、弁償するっていったって、いったい幾らになるんだか……。
それからヴェイドさんは表情ひとつ動かさずに言った。
「彼女の服が駄目になったので、当然のことをしたまでです。それに君達が『陛下』と言っても、僕にはこれっぽっちも関係ないですね。違いますか」
その淡々とした言葉に、がっかりしたようにオルディスさんがため息をつく。
「そう冷静に返されると、つまらんな。俺ぁもっと慌てた顔が見たかったのに」
ええと、よくわからないけれどそんなに大切なローブではなかったということかしら。
だったら良いとは思うけど、わたしのせいで服を駄目にしてしまった事実は変わらない。わたしは小さくなって彼らを見ているしかなかった。
居心地の悪さを感じていると、ふとヴェイドさんがこちらを見おろした。
「ではこの子を頼みます。例の件も含めて、今後のことは僕も協力しますので」
「ああ、そうしてくれると助かる」
ん、今度こそどういうこと?
状況が呑みこめないまま、わたしは彼らの顔を交互に見やった。それに気づいたヴェイドさんが、フィオナ、とわたしを呼んだ。
「フィオナ、彼はこの中央区の保護局長です。君の母君のことは、昨夜のうちに治安課まで報告をあげておいたから、まもなく動いてもらえるだろう。それまで彼のもとで待つといい」
そう言われて、胸の奥がつきりと痛んだ。先ほど彼が話していた“別の場所”というのは、おそらくオルディスさんの管理下になるのだろう。
困惑するわたしを見かねたのか、オルディスさんが言った。
「すまんな、嬢ちゃん。こんなたらい回しにするような形になって……だが、こいつも色々と引く手数多でな。ここにずっと留まるわけにもいかねえんだ。分かってやってくれないか」
そしてオルディスはその大きな手を伸ばし、わたしを抱きあげようとした。これだけ体格のいい人なのだから、わたしを抱えあげるなんて、わけがなかった。
でも、そこにはヴェイドさんのような、落ち着く気配はどこにもない。
その違いに気づくか気づかないかのうちに、わたしはヴェイドさんの服を思い切りつかんでいた。
「え、ちょっとフィオ――」
ある光景が頭の中をよぎり、背筋が凍るような錯覚を覚えていた。
ヴェイドさんにすがり付いて泣いたあとからは、思い出さないようにしていた記憶。わたしと母親を苦しませ、ここまで逃げてくる発端となった男のこと。
残忍で、残酷な、あの――…
こちらに腕がのばされる。
わたしに触れる、あの不快な手が。憎くてたまらなかった、あの顔が。
いや、いや……ッ!
触らないで――!




