10 通信機
わたしと母親を苦しませ、こうして逃げてくる発端となった男は、なんていう名前だっただろうか。はっきりと覚えているはずなのに、わたしの頭が“思い出すな”と警鐘を鳴らす。
昨日からずっと頭が重い。
肝心なことが、薄布に隔たれたようにぼんやりとしていた。
確かあの男は伯爵と呼ばれていた。分かることはそれだけ。
でもわたしには、こちらに手を伸ばしたオルディスさんの腕が、あのとき、あの男がわたしを掴もうとした腕に重なって見えた。
捕まる。
嫌……、わたしに触らないで。
恐い。
なにをされるのだろう。
嫌、嫌……ッ
やめて、お母さんを――
「――離してッ」
気がつくと、わたしはオルディスさんの腕のなかで無我夢中に叫んでいた。
「うん?」
「嫌、触らないで!!」
触れられているのが不快で仕方がなく、彼が暴れるわたしを抱え直そうとする手を振り払った。
「あ、嬢ちゃん危ねぇ!」
わたしはほとんど落ちるようにして床の上に足をつけると、そのままの勢いでヴェイドさんの後ろへと隠れた。なにも見たくなかった。やわらかなクロークの生地に顔を押しつけるようにして、わたしは叫ぶ。
「男の人は、絶対に、嫌っ」
「それは、僕が男ではないとでも言いたげな……」
頭上で、ヴェイドさんがため息をつくのがわかった。
「まあ、お前は見ようによっては――いや、なんでもないぞヴェイド。それよりこの嬢ちゃんは、野郎になんか酷いことでもされたのか?」
「いや、そんな話は聞いていない……」
ヴェイドさんはそう言いながら身をよじって、未だしがみついたままのわたしの背中に触れた。手のひらから伝わる、温かな体温。やっぱり彼に触れていると安心する。
そこでようやく、わたしは自分が何をしでかしたのか我に返った。こんなふうにオルディスさんを拒絶して、彼を傷つけたに違いない。
罪悪感から、わたしは顔があつくなった。そうしてしがみつくクロークから、顔もあげられなくなる。
「というよりも、まだ詳しい話は聞けていないんです」
ヴェイドさんは続けた。
「昨夜はひどく取り乱した様子でしたから、無理にはと思って。その聴取のこともあって、君達に預けようと思っていたんですが」
「ああ、そりゃ仕方ない……お前さんの選択は間違っちゃいない」
まだこんなに小さいんだしなぁ、とオルディスさんは呟くように言って、わたしの前にしゃがみこんだ。わ、悪かったわね、発育が遅くって!
正直まだ気分が落ち着かず、彼のなんてことない動作でさえも恐かった。
知らずと体をこわばらせるわたしを見て、オルディスさんは少し同情したような顔でこちらを見た。
「嬢ちゃんは男が恐いのか?」
その問いにわたしはうなずいた。
もとから男の人が嫌いというわけではなかったが、こんなにも触れられたくないと感じるのであれば、結局は同じようなものだ。
「その、ごめんなさい。オルディスさんが恐いわけじゃなくって」
「まあ気にするな。そんだけ恐い思いをしてきたっつうことだ。なにもおかしいこたぁない」
それから、オルディスさんは顎に手を置いて少し考えこんだあと、ヴェイドさんを指差した。
「じゃあ、こいつはどうだ。こいつも男だが恐くはないのか?」
「……平気よ」
こうして思いっきり抱き着けるぐらいには。
「おし、わかった」
そしてオルディスさんは立ちあがり、ヴェイドさんの肩にバン、と手を置いた。
「お前。今日は一日、この子と一緒に居とけ」
「は?」
途端、怪訝な顔になったのはヴェイドさんである。だが、オルディスさんは片眉をあげて首をすくめた。
「男がダメだって言うんだから、仕方がないだろう? あいにくうちの局には女の官司は居ねえんだ」
オルディスさんは背後に振り返った。あいかわらずバタバタと慌ただしい局内。
「むさい男ばっかしか居ない場所にこの嬢ちゃんを置いといたら、確実に保護どころじゃなくなるぞ。そのうちひっそり死んでるかもしれん」
「いや、死にはしないと思うけど……」
思わず反論。小動物じゃないんだから。
そしてふと見あげたヴェイドさんが、なんだかとても困った顔をしているのは、きっと気のせいではないだろう。だんだん彼の微妙な表情というものが、ここにきてようやく分かってきた。
「ヴェイドさん」
わたしは彼のクロークの裾を握りしめた。いまはどうしても手を離すことができなかった。
「なんですか?」
「迷惑だったら断っていいわ。あたしはその……平気、だもの」
そう言ったわたしを見て、オルディスさんは大きな手で自分の顔を覆った。
「ああ、なんて健気な嬢ちゃんなんだ、……かわいいじゃねぇか! なんでこんな意味わかんねぇ冷徹漢につかまっちまったんだろうな」
「失礼な……」
さめざめと泣き真似をするオルディスさんに、ヴェイドさんがとても嫌そうな顔を向けたのを見て、わたしは慌てて口を開いた。
「そ、そうよ。べつにヴェイドさんは冷徹じゃないわよ」
「おお?」
「ただ雰囲気が怖いだけで!」
「だってよ」
オルディスさんがにやりと笑うのを見た。
はあぁ、とヴェイドさんがめずらしく重いため息をついた。眉間を押さえた彼はすぐに気をとりなおしたらしく、オルディスさんにこう言った。
「オルディス、だれか官司を一人、通信機の前に待機させてください。彼女の件については後ほど報告を入れましょう」
「ああ、わかった」
満足気に笑うオルディスさんだったが、わたしはヴェイドさんの影に隠れながら、言葉の意味が分からずにいた。
「……ツウシンキ?」
わたしの問いかけに答えたのは、オルディスさんだった。
「魔導通信機のことだ。魔導具の一種なんだが……つまり、離れていても声が聞けるっつー便利なやつでな」
「へぇ……」
相づちを打ちながら、わたしは局内に視線を移した。通信機があるかなと思って。
見たところ局内の机の傍で、一人、なにかを捲くし立てている人が居るみたいだけど。彼が手にしているのがその“ツウシンキ”という物だろうか? 正直な話、魔導具というものはとても高価なものだから、ほとんど見たことがなかった。
わたしはオルディスさんに視線を戻した。
「……それって、どういうことなの?」
「喜べ、嬢ちゃん」
オルディスさんはにかっと笑った。
「お前さん、こいつの傍に居てもいいってよ」