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第12話「いつもの朝」

 朝日が差し込んで、目が覚めた。

 あの時間に耳を澄ませた。あの足音が来なかった。南から来て、西を通って、北を回る——重くて静かな音。初めて、来なかった。

 そのまま朝になった。

 台所に向かった。

 煙がなかった。

 台所から煙が出ていないのは珍しい。嫌な予感で目が覚めるより珍しい。

 テーブルの上に、握り飯が二つ並んでいた。

 白い。三角形をしている。焦げていない。

「……奇跡か」

 工房の方から鼻歌が聞こえた。あの曲だ。何の曲かは知らない。俺が拾われるよりずっと前から歌われている曲だ。

 扉が少しだけ開いていた。母さんは作業中、必ず閉める人だ。

「母さん」

「あ、おはよう零時れいじ。食べた?」

「これ、母さんが作ったのか」

「他に誰がいるの」

「だからこそ訊いてる」

「ひどいなあ。たまには作れるよ」

「最近だろ」

「成長したでしょ」

 かじった。普通の握り飯だった。普通に美味い。それが一番驚いた。

 扉の隙間から覗くと、母さんは乳鉢で何かをすり潰していた。見慣れた工房だ。紙が散乱して、瓶が並んで、手が迷いなく動いている。

 ——何かが違う。

 顔は同じだ。手の動きも同じだ。鼻歌も同じ曲。でも何かが、ほんの少しだけ。声が軽いのか、空気が違うのか。

 長い付き合いだと、こういう微かな違いだけは拾える。何が、とは言えないのだが。

「今日は何するの」

「仲介所に行ってくる」

「ふうん。——ゴルド草、お願いしていい?」

「また?」

「使い切っちゃった」

「……量は」

「両手いっぱい」

「片手だ」

「はーい」

 同じやりとりだ。何百回やったか。

 残りの握り飯を頬張って、支度をした。腰に二振り。アイテムバッグ。

 玄関で草履を履く。

「行ってくる」

「はーい。——気をつけてね」

 軽い声だった。

 この言葉が重かった時期がある。同じ言葉なのに、裏に何か別のものが沈んでいた。

 今日のは、ただの「気をつけてね」だ。いつもの、三百年分の。

 扉を開けた。



 庭を通りかかって、目が止まった。

 灯草ともしそうが増えていた。白い花が朝日の中で光っている。

 最初に気づいた時は一輪だった。季節外れの、変な花。群生する草だから、増えること自体はおかしくないのだが。

 しばらく見ていた。きれいだな、と思った。



 実月みづきの風が林を抜けていった。木漏れ日の中を歩く。道の脇に灯草が群生していた。花の季節はとうに過ぎて、丸い葉だけが地面を覆っている。うちの庭だけが、おかしい。

 風越かぜこしの街に着くと、朝市が始まっていた。瓦屋根の軒下と石壁の庇が向かい合う通りに、露店が出ている。人間も亜人も関係なく声を上げていた。手の甲に淡い結晶が浮いた亜人が、隣の露店で布を広げている。あの光り方、どこかで見た気がした。国境の街だ。いつもの朝。

「おう、零時。今日も早いな」

 ゴンザだ。受付の奥で茶を淹れていた。

「何かあるか」

「南の畑がまた荒れてるらしい。鹿か、角猪つのいのししの残りか。見てきてくれるか」

「報酬は」

「追い払いなら三枚、仕留めたら五枚」

「行ってから決める」

 依頼票にギルドカードを当てた。光が走る。

 仲介所を出ようとした時、入口に人影があった。

 ハンスが立っていた。

 目が合った。あの日の目とは違った。怒りでも、諦めでもない。

「ちょっといいか」

 仲介所の前に出た。ハンスは擦り傷だらけの手を見ていた。枝で引っ掻かれたような傷。

「昨夜、南の森に入った」

「——一人でか」

「棍棒持って。馬鹿だろう」

「ああ」

「奥に三本爪の痕があった。やっぱりいるじゃないかと思って、もっと奥に入った」

 ハンスの声が低くなった。

「別のものがいた」

「別の」

「影みたいな——でかくて——」

 ハンスの手が震えていた。

「走った。甘い匂いがした。腐ったような——喉に残るやつだ。後ろで咆哮が聞こえて——何かが、あの影を止めた」

「あれがなかったら、俺は帰れてなかった」

 虫の声が聞こえていた。朝市の喧騒が遠い。

「三本爪だろう。止めたのは」

 答えなかった。答えられなかった。

「俺にもわからないことだらけだ」

「……そうか」

 ハンスが立ち上がった。手がまだ震えていた。

「わからねえよ。あの獣が何なのか。敵なのか、そうじゃないのか。——でも、あれがいなかったら俺は死んでた。それだけは確かだ」

 それだけ言って、東通りの方に歩いていった。背中が朝市の人混みに消えた。足取りは、まだ定まっていなかった。

 仲介所の中から、ゴンザの声がした。

「聞いてたか」

「ああ」

「あいつ、朝一番にも来てた。茶だけ飲んで帰った。——顔が違ったな」

「ああ」



 南の畑はすぐ片付いた。鹿が一頭。柵の隙間から入っていた。追い払って、隙間を塞いだ。銀貨五枚。

 帰り道、ゴルド草の群生地に寄った。南の森の入口から少し奥。湿った場所に金色がかった細い葉が見えた。

 片手分。約束は片手だ。

 少しだけ、多めに採った。気持ちの分。



 家に着くと、母さんが縁側にいた。珍しい。工房でもなく台所でもなく、ただ座って庭を見ている。灯草の方を見ている。

「ただいま」

「おかえり。早かったね」

「鹿一頭だ」

 ゴルド草を出した。母さんが覗き込む。

「……これ、片手にしては多くない?」

「気持ちを乗せた」

 母さんが目を丸くした。

「珍しいね」

「たまにはな」

 母さんがゴルド草を受け取った。いつもなら「はいはい」で済ませるところだが——

「ありがとう」

 さらっと言った。軽い声だ。あの夜の「ありがとう」とは違う。震えてもいないし、重くもない。でも同じ言葉だ。

 母さんが立ち上がった。工房に向かいかけて、振り返った。

「晩ごはん、私が作ろうか」

「朝の握り飯がまともだったからって調子に乗るな」

「乗ってないよ。——今日は作れる気がするの」

「なんでだ」

「なんでだろうね」

 笑った。見慣れた笑い方だ。でも、やっぱり、何かが軽い。

 三百年一緒にいて、俺はこの人のことを何も知らない。俺のことも。

 ——べつにいい。べつにいいはずだ。



 母さんの煮物は、思ったより悪くなかった。大根は少し煮崩れていたが、味はちゃんとしている。

「どう?」

「……まあ、食えた」

「褒め言葉として受け取っておく」

 食べ終わると、母さんはゴルド草を抱えて工房に消えた。扉は今日も、少しだけ開けたまま。

 静かになった台所で、茶を一杯だけ飲んだ。



 布団に入った。

 耳を澄ませた。

 虫の声。風の音。遠くで犬が一声鳴いた。

 ——来た。

 遠くで枯れ葉を踏む音。重くて、静かな足音。南の方から。一定の間隔。同じ道。同じ歩幅。

 遅い気がした。気のせいかもしれない。

 でも、来た。今夜は、来た。

 南から、西へ。西から、北へ。

 工房の方から、鼻歌が聞こえた。あの曲だ。扉が開いているから、普段より近い。

 あの足音と、この鼻歌。毎晩同じ時間に、同じ夜の中で重なっている。

 三百年、こんな日々を繰り返している。飽きたかと訊かれたら、たぶん首を傾げる。


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