【file1】act.災いとの出会い
この小説は大体フィクションです。実在の人物や団体などとはほとんど関係ありません。
時は西暦2015年、同年の5月3日にある出来事によって全ての倫理的価値がひっくり返り、前より更に迫害……いや、重宝される人間がうまれることになった。
これは世界の秩序が乱される序章に過ぎないのだ。
ブス。
それは誰もが影で笑う孤高の存在である。
生まれた時から決まってしまった、運命とも言える醜い容姿。
美醜に拘る年齢になったとき初めて、自分の人生が絶望ではじまったのだと気付かされる。
しかし顔は悪くとも同じ人間であり、自分が持っている一生モノの肉身をバカにされるのは、腹が立つものだ。
そうして溜まっていったフラストレーションは誰に放出されるでもなく、死ぬまでブスの心の中で蠢いていた。
そのエネルギーは、暴発すれば世界を滅ぼすほどに巨大に育っていって行くのだ。
「嫉妬と憎しみをエネルギーに……??」
早朝。
いや、決して早いとは言えない朝に起きた上原は、付きっぱなしになっているテレビのニュースを見て首を傾げた。
テレビのニュースキャスターが、感情のエネルギー化に成功した博士の事をしきりに報道している。
シナプスやらなんやら難しい単語ばかりであまりよくわからない。
まあ、つまるところ知能の高い動物の脳に特殊な電極をぶっ刺すと取れるエネルギーがあってそれがすごいらしい。
「…。」
確かにその研究自体はすごいが、全く世界に貢献できる様なものである気がしない。
そもそも倫理的に大きなバッシングを受けるだろう。
大の大人が何やってんだか。とてつもなく馬鹿馬鹿しいとさえ感じる。
そもそもその抽出先はどこか、発電でもすんのかよと思い上原は眠い目を擦りながら洗面所に向かった。
こいつ、こんなに余裕そうだが学校にはとうに遅れている。
「やばい!遅れる!」
数年後、同じ部屋で毎朝行われるルーティンがあった。
そして彼は、以前のように学校に遅れそうになっているわけではない。
まず起きてから必ず素早くトイレへ向かう。
いかんせん弱いお腹は戦闘において弱みに、だが時に強みになる。ただこの必殺技は自分を捨てる特大の範囲攻撃のため、使うなんていうのはとても恐ろしい話だ。
そして、朝ごはんは食べずに歯も磨かず顔も洗わずに仕事の支度をする。
黒のフェイスマスクやヘルメットに戦闘服、それに『 特殊な』強い刺激に耐えるためのタクティカルゴーグルをちんたら装着して狩りに出かける。
そう、この戦いは肉眼で見たら命取りなのだ…。
「東京A-1地区ブス1体横行、部隊C上原追っています。」
上原は、勤務時間に多少遅れながらも任務を遂行していた。
今日はパトロールのみだったが、突如としてBクラスのブスが現れ自体が急変。
眠気なまこで戦闘入りした上原は、少しうんざりしていた。
普段ブスは安易に人を攫えるように夜に現れるので、こんな朝から姿を見せるのは非常に珍しいことだ。
白光に照らされたブスは死ぬほど醜く、見ているだけで悲しくなる。
陽の光は非常に残酷だ。
「くっそ、逃げ足が早いヤツめ。」
強力な麻酔銃を手に、バイクを乗り回し瞬足の化け物を追う。
中途半端に手入れされた髪を振り乱して走るその姿はクリーチャーそのものだ。
メーターは法定速度をとうに振り切っているのにも関わらず、ターゲットとは僅かしか距離が縮まない。
「おかしい……」
ブスは非常に好戦的なのでこちらが敵意を向けているとわかれば、あちらも戦闘を仕掛けてくるはずである。
これはブスならではの習性と言っても過言ではない。
ブスはブスのくせにクソみたいにプライドは高い為、煽られると大体ブチギレるのだ。
そうやっていきり立っている所をご自慢のエイム力でぶち抜くのが、上原の仕事での唯一の快感だった。
それが出来ない状況で上原は一層うんざり、というか苛立っていた。
「ブスが調子に乗ってんじゃねぇよ」
そう言ってゴーグルのSNOWを最低までさげる。
SNOWをあげると解像度が下がり照準を定め難いのだ。
そして激しく逃げ回るブスにしっかりエイムを合わせて、麻酔銃を2発放った。
1発はブスの肩に、もう1発はふくらはぎに命中し、想像より高い呻き声を上げる。
走りながら足がもつれ、ブスの動きは確実に遅くなっていった。
上原は、こんな真っ昼間に人を攫いもせず、公道で暴れ回って何が目的なんだと思いつつも、中ランクのブスがこんなに楽に捕まえられて昇進まったなしなどと考えていた。
実際、増援部隊が来る前に捕獲することが出来たと言うのはかなり名誉な事なのだ。
ブスはドーピングをした状態ならば低ランクでも人間のおよそ3倍の筋力を持っているため、並大抵では敵わない。
多人数でもなければろくに相手をすることも出来ないくらいだ。
5分程経つとブスは立つこともままならなくなり、ビルの隙間にフラフラと入るとそのまま倒れ込んだ。
威嚇をするでもなく逃げるだけ、そんな異例な状況だがブスを被害者無しで捕獲できたことに安堵していた。
「中途半端なブスのくせに、それが自分で認められないからって暴走しやがって…」
横たわったブスは苦悶の表情を浮かべていて、より度し難い顔になっていた。
「なんでこんなことになったかな」
上原はピクリともしない死骸とも言えるそれを見て呟いた。
負の心が強ければ強いほど膨大なエネルギーが採れる。
それらはあらゆるものの代わりに使えるという。例えばガソリン、電気、兵器などや挙げればキリがない。
何年か前に見たその時のテレビではそういったことを科学者が話していた。
その負の感情というのは一時的な怒りなどではなく、蓄積された嫉妬心や怨みや絶望。
これらを常在させていて、且つ増やし続けている人種は何か。
それを権力者が総力を挙げて調査した結果、1番の抽出元がブスだったという訳だ。
ブスが国の大きな財源に代わるまでそう時間はかからなかった。
そこからだ。壮絶なブス狩りが始まったのは。
無抵抗なブス達を金欲しさに狩るハンターが街に蔓延り、ブスはたちまち一掃され、そのズべての個体が多数の目的のために利用されることになった。
ブスから取れる資源の量は今のところ限度がない為、抜け殻となって死ぬ事も出来ずに苦しみ続ける。
そんなブスは、あっという間に万を超える人数に達し、そのための施設なんてものも数多く建設された。
そして半年も経たずとも標準以上の顔面を持った人間だらけになった世界は、快適極まりない街に変化を遂げたのだ。
テレビにうつるのはもちろん最上級の顔の人間だけ。
今まで世間でお茶の間で笑いをとっていた下世話なブスネタも消失し、整形業界は間もなく潰れていった。
ブスへの人権はしっかりと無くなり差別が顕著に可視化される。
ブスは家畜やそこらの虫よりも酷い扱いを受け、見つかれば囚われキツイ拷問の末、未来へのエネルギーに変換されていった。
そんな世界になってしまったのだ。
良いのか悪いのか顔が全ての価値へと変貌した世の中の前では学力なんて塵に等しいものであり、学業に勤しむ人間など誰一人としていなくなった。
上原が学校をやめて働いているのも、こういったことが原因だ。
その騒動から二年程たったある日、奴らは現れた。
マスクとサングラスで顔をすべて覆い隠していることと、少し格好がみすぼらしい以外は普通の人間だったそうだ。
「あのすいません。ブスのエネルギー変換所ってどこですか?働きたいのですがどうも場所が分からなくて……。」
そう道を歩く人に尋ねては、常人のような丁寧な対応をしていた。そのせいで誰の不信感も買わなかったのだ。
これが間違いだった。
彼女はその後施設にしっかりたどり着いて、そしてしっかり変換機を盗んでいった。
それから数日後、突如として生き残りのブスが自らの負の感情で拵えたドーピング剤を自身のからだに打ち、最強の力を手に入れ次々と反撃をしかけてきたのだ。
多くの人が攫われた。
悲鳴は絶えず聞こえ続け、家の中も安全といえる状況ではなかった。
ブスはあの時から法律的に人権を失ってしまい働けないために金もなく、スーパーなどでものを買うことが出来ずに飢えて続けている。
そんな奴らに捕まった人間の末路など、深く考えなくても容易に想像がつく。
ブスの大群が襲ってくる、その様子はアンデッドを連想させるほどの狂乱だった。
瞬く間に人を喰い、人口はこれまでの3分の1まで減ってしまった。
その地獄の発生源の1人に今眠らせたブスも、もちろんはいっている。
このブスは見たところ非常に痩せ細っていて、飢えの限界だったのだと推測できる。
ボロきれのように擦り切れたワンピースの襟からは、青白く肋が浮いて見える。
皮肉なことにこうやってブスがもっと不幸を蓄積することによって、上原が所属している組織は儲かっているのだ。
道中かなりの劣等感を感じたはずの彼女は、きっと優秀な財源になってくれるだろう。
上原は到着した輸送部隊によって雑に運ばれるブスを冷ややかな目で見送ったあと、「はー、だりーな」と一言だけつぶやいて、まただらだらとパトロールを再開した。
その頃、本部では密かに重役たちの会議が行われていた。
「ちょっとねえ、おかしくない?これ。この昼間のブスの発生率、どう考えてもやばい。なんかあるでしょ」
少し尋常じゃない事態に、筋肉質の男が眉間に皺を寄せる。
「まあ大丈夫だよ」
と、四角い髪型の男がだるそうに言った。
「それに都内のエリアでの行方不明者が急に増えてる。僕達が動員されるかもしれないね。」
筋肉質の男は仕方ないなと言う風にため息をつく。
「やだー!面倒臭い。ネコ!ブス死ねっ!」
そこにすかさず少女が茶々をいれる。
「いやないない、最近割と平和だしさ。それよりゲームするから帰るね。」
「帰るー!」
(地獄だ……)と筋肉質の男は密かに思ったのであった。
「ダルすぎてイライラしてきた……」
次の日のパトロールは昨日と打って変わり、暇すぎて反吐が出そうだ。
日差しが照って、美容を気にする大抵の人々は屋外に出ていないため、外は人っ子一人見当たらない。上原はミルクティーを飲みながらベンチで座っていた。
胸にはBDと書かれた黒い鉄製のバッチが光っている。
ブス専門戦闘部隊、通称『 B destroyer』の証である。
「ねぇーパトロールする意味あんのこれ?」
遠くから同じ部隊の仲間が手を振っている。正直すぐに家に帰りたい。
蒸した暑さの中、こんな重装備で動き回る隊員達はさながらブス同様の奴隷みたいなものだ。
「暑すぎるわ〜」
そう言いながら隊員の1人がマスクとゴーグルを外した。
スーツは全身が黒で作られているため熱を吸収しやすく、少し外すだけでもかなり気休めになる。
それに続いてまた1人と顔周辺の外しやすい装備を脱いでいった。
ブスに殺される前に熱中症で死んでしまっては笑えない。
本来なら業務中に装備を取るなんて信じられない話だが、何もやらずにただ定時を待っている彼らの中に、それを咎めるものは誰もいなかった。
マスクをうちわ代わりにパタパタと仰ぐ。
人口が減り湿度が低くなったこの世界の夏は、気温こそ高いがわりとカラッとしていて過ごしやすい。
「もう本部帰らない?」
笑いながら会話を交わす隊員たちを眺めながら、上原は最年少とは思えない哀愁を漂わせていた。
毎日毎日同じことを繰り返し続けて、緊張感のかけらもなく、この怠惰さを後で本部から叱られるのがほぼ日課だ。
お叱りの言葉はどの隊員の耳にも入っておらず、また次の日も同じような日々を過ごす。
虚無でしかない1日に、自分の存在する意味を問うのだ。
「なにあれ」
ゴーグルを外したことによって視界が明瞭になった隊員のひとりが楽しい会話の途中にふと訝る。
上原もそちらの方を確認すると、半裸でピンクのミニスカートのみを装着した人影がフラフラとこちらに近寄ってくる。
たまに妙に黄ばんだの白のパンツもチラ見せしてくる始末だ。
下を向いてるため顔は確認できないが、変態なのは確かだ。
胸は真っ平らで男女の判別もできない。
「あれ、人間?」
膝をすりむいていて、ところどころ怪我をしているように見える。
こっちに来るということはBDに何か用があるのだろうか。
もしかしてブスにでも襲われたのか。
それなら本部に電話したほうが早いはずだ。
ただ、パンツを見せてくるのは確信犯のようでスカートを大きく翻したり明らかにこちらが見える行動を取っている。
露出狂というのはこういうものなのだろうか。
「これは警察案件じゃない?単純に気持ち悪すぎるわ。」
そう言って上原は110番しようとスマホを取り出した。
その時、突然隊員の1人が尋常じゃない呻き声を上げて床に崩れ落ちた。
「ど、どうしたの」
スマホから目を離してそちらを確認すると、絶えず呻きは漏れ続け、血反吐を吐き、生理的な涙が流れ続けてゴーグルの中に溜まっている。
さらに身体が細かく痙攣して上手く動かせないようだ。
「なに、急に、大丈夫?」
ふと気になり先程の人影をみると顔を上げていた。
瞬間、鳥肌が全身にびっしりと立つ。
遠くから見てもわかる。
アレは『ガチ』のブスだ。
いや、今までガチではないブスなんて見たことがないが、それを差し置いてもオーラだけでやばいと感じる類だ。
まだ20メートルほど距離があるというのにもかかわらず、何か精神を蝕まれている気がした。
「ぐぅっ!!」
分析をしている間にも1人、また1人と倒れていく。
中には意識を飛ばしている者もいた。
仲間の体がどんどん地面に横たわる。
なんで急にこんなことに。
「!」
そう思ったのも束の間、先程暑さに耐えきれなくなった仲間達が、みんなゴーグルを外していたことに気づいて絶句した。
ブスに出会ったらとにかくゴーグルを着用する事が生死を分けるのだと、研修のとき何度も言われたことが思い出される。
上原は自分だけはと、SNOWを最大まであげて解像度を下げ、徘徊するブスの様子を見つめた。
「あれ?」
上原はそう小さく呟くと顔面を蒼白にして一瞬めまいを起こしかけた。
1番初めに倒れた仲間は確か、駆け寄った時にきっちりとゴーグルを付けていたはずじゃなかったか?
そうだ、涙がたまっていたのだからひとつの隙間だってないはずだ。
じゃあなんで?
SNOWを通せばブス中毒に陥ることなんて絶対に無いはずだ。
顔を上げたり下げたりしながらフラフラとブスが近づいてくる。考えるのが怖くなった。
まさかこのブス、SNOWを貫通する……?
だがそんな個体今まで聞いたことがない。
「と、東京A-1、等級未知のブス発生、部隊C壊滅状態より応援求めます。っゴーグル着用時も、ちゅ、中毒症状が発生する模様……。」
自分以外が戦闘不能に陥ってしまった部隊はもう使い物にならない。
とりあえず応援を呼ぶ他に方法はなかった。
縺れてつまる言葉を必死に紡ぐ。
ゆらゆらと近寄ってくるブス。
その顔を見る時、精神が持ってかれないように用心しながら薄目を開ける。
攻撃してくる様子はないのが1番の救いだ。
ぼんやりとみるとブスの輪郭が少しずつ明らかになっていく。
酷く重い一重で開いているかわからない目、眉毛の形は常軌を逸しており、吐出しすぎた顎はその噛み合わせを心配するほどだ。
瞼と唇には明るいピンクの化粧を施しており、まだ女としての尊厳が残っていたことに切ないと同時に驚く。
いや、尊厳が残っていなかったならこんなところに来ていない。
極端に強すぎるプライドが己の精神を壊し、こんな状態に成り代わらせてしまったのか。
そんな無駄なことを考えているうちにブスはもうほぼ目の前に迫っていた。
薄目をしていた目は疲れ切り、瞼が痙攣していく。
耐えられなかった上原は下を向いたまま黙って自分の足を眺めていた。
「みんな死ね……」
物騒な言葉がブスから紡がれる。
「みんな死ねみんな死ね」
自分がブスに殺されることを想像する。
あまりの恐怖に、もう死ぬんだと上原は諦めきり、脱力した。
その瞬間、ゴリッバキバキと何かを潰したような音が聞こえる。
なにかと下を向いたまま目を開けるとぐちゃぐちゃのものが吹き出して足元に飛び散っていた。
赤の液体に白の半固体が混ざりあって……これはなんだと咄嗟に分からないふりをする。
「ははっ……」と自分の意思とは関係なく乾いた笑いが出た。
そうしている間にもまた大きな音がする。
今回はハッキリと血飛沫を浴びる。
鉄の香りが鼻腔を直接刺して、思わず吐きそうになった。
血だけではなく肉の様なものも転がってきて 息を飲む。
……ブスが隊員の頭を潰して回っている。
上原に最大の絶望を与えるのにその事実は十分すぎるほどだった。
見てはいけないと思いつつも目を背けることが出来ない。
ブスが仲間の頭を、数度足蹴にして床に叩きつけただけでそれは陶器のように割れた。
息を吹き返すことは二度とないだろう。
中毒によって倒れている隊員を1人ずつ、確実に殺しにゆらゆらと歩いていく。
まだ辛うじて意識のある隊員が助けを求めて、上原の方を虚ろな目で哀しそうに見つめた。
本来なら助けるのが自分の役目なのだろうが足が竦んで動くことすら出来ない。
とうとう上原はその場にへたりこみ、荒くなる息を必死に飲み込んでいた。
何分経ったのだろうか、まだ応援部隊は来ない。
この世界にはこのブスと自分だけになってしまったかのように錯覚するほど、長い時間を過ごした。
先程までの真夏の暑さは、冷や汗を蒸発させるためだけのヒーターと成り代わっていった。
唇はカサカサになり、目は泳ぎっぱなしだ。
あーなんでこんなことに、さっきまであんなに平和だったのにと、一寸先は闇だということを嫌という程感じさせられる。
このブスを見つけた時点で逃げていればと後悔が募る。
先程から後ろで何やらバタバタする音が聞こえる、何かをブスがやっているのだろうか。まだ死にたくないと、はやる呼吸を最小限にした。
自分と背中合わせで命を消す行為が着々と進んでいると思うと背筋が凍る。
「お待たせしました!応援部隊到着です!」
絶望を希望に変える声がした。
ずっとしていた物音は到着した応援部隊のものなのだと、安堵する。
僕は助かるんだと、これまでの緊張が嘘のように思えるほど体はすんなりと動き、振り返ることが出来た。
「ねぇ、遅かった……」
「!」
目の前にいるのは到底希望などではない。
応援部隊なんかいやしない。
仲間の片腕を引き摺りながら、血にまみれた化け物はすぐそこに立っていた。
声真似がうまいのだろうか、はたまた自分が緊張しすぎて聞き間違えたのだろうか、わからないがそんなこと知る由もない。
「や、ばい」
思わず悲鳴をあげそうになり咄嗟に口を両手で塞ぐ。
ブスの瞳はギラギラ輝き血にまみれた口元は気味悪い笑みを称え、いかにも殺しを楽しんでいるようだった。
おもむろに屈んで「オマエもそうなんだ。」と上原の耳元で囁いた。
何がそうなのか、上原には何もかもがわからなかった。
そしてブスは上原の前にしゃがみこんでいっそう強く笑った。
湿った吐息が顔に直撃して、息を止めざるを得なくなり、脳に酸素がいかない。
手足は痺れて感覚を失い、逃げることも出来ない。
足はパタパタと動くだけでまるで力が入らなかった。
ブスはゆるりと腕を伸ばすと上原のゴーグルを鷲掴みにしそのまま外そうとする。
ゴーグルは強化プラスチックながら、ブスの握力にミシミシと音を立ててひび割れた。
「ま、まって」
弱々しい牽制の言葉も虚しくゴーグルはどんどん外れていき、外の世界の色が顕になっていく。
それと同時にブスの顔の片鱗が見え始め、上原は反射的に目を瞑った。
途端に「こっちを見ろ!!」とブスが怒号を放つ。
言う通りにしなければ殺されると悟った上原は、ブスの顔を直視するのはマズいと頭の中で思いつつも、恐怖のあまり目を開けるのを辞めることが出来なかった。
「お前も……」
ブスはそう言うとさっきの狂気的な顔とは打って変わって少し切なそうな顔を見せた。
なんでそんな顔をするんだ、お前は僕の同僚を大量に殺して楽しいはずじゃないのかと、恐怖に混じり怒りに似た気持ちが湧き出てくる。
そうして感情に任せてブスの顔面をきっと睨みつけたその時、ブスの動きが微動だにしなくなった。
「……?」
突然のことに上原は戸惑いを隠せずに、固唾を飲む。
ブスは驚いたように、あいてるかわからないような細い目を見開いている。
「オマエは…」
そう言うと上原の頬に指を這わせ、滴る汗と血とを拭った。
手の冷たさと気色悪さに吐き気がする。
ブスは上原の全身をくまなく、ほど近い距離で観察したあと思い出したようにきついピンクの口紅を取りだし自身の唇に雑に塗りたくった。
そのあと少し時間が経つと、血だらけの手で上原のチャームポイントであるキツめの天パを指で梳き、その何本かを強くむしり取ると自身の下着の中に勢いよくぶち込んだ。
その異様な光景に上原は「ひっ」と小さく悲鳴をあげる。
そして、上原のタクティカルスーツのパスを入れる胸のポーチに、下着の中から取り出した紙切れを大事そうに1枚入れた。
強すぎる力で大量に髪を毟られたことによって頭から血が流れ出すがそんなことはどうだってよかった。
そうして最後に「チガウ……」と一言だけ零すと憑き物が落ちたように、ボロボロの踵を返し、瞬きひとつ分でどこかへと姿をくらました。
結局、応援部隊が到着することは無かった。
上原は、今まで生きていた中で最高レベルの恐怖から突然開放された為に、奇妙な感覚に襲われ、朦朧としながら、死んだ仲間を放ってBD本部へとそのまま帰ることにした。
今自分が本当に生きているのかすら分からなかった。
青い空に夏の代名詞とも言える入道雲が浮かんでいて、その下に恐ろしい殺戮が繰り広げられたあとがあるのは全く似つかわしくなかった。
だが、色のコントラストは非情に美しく鮮やかに見えた。
本部に帰ってきて自動ドアの奥に自分の見知った顔があることに酷く安堵した。もう頭の傷は乾燥して、一滴の血も流さない。
入ってみて受付の職員を見るや否や、本当の安寧に脳がやっと気づいたのか、勝手に涙がボロボロと溢れ出して不思議と謝罪の言葉を口にしていた。
「ごめんなさい……」
たくさんの人が行き交うメインホールの真ん中で、手をついて床に伏した。
口に入ってきた涙の雫は、ほんのりと鉄の味がする。
「大輝!?生きてたの?」
それに気づいた事務職員の高橋尚輝が焦ったように駆けつけてくる。
どんなときも相変わらず騒々しい高橋は、今や喧騒にまみれて声すらハッキリと聞こえないくらいだった。
本部内はいつになく混沌としていて、どうやらこの騒動の情報はしっかりと届いてるようだ。
「……C部隊僕以外全滅しました……。」
仲間が死んでいった信じ難い光景を思い出して嗚咽を漏らす。
「……ごめん。応援部隊をいくつも派遣したんだけど、何故か上級のブスが沢山現われて、辿り着けなかったんだ。応援部隊も二部隊壊滅状態で……正直大輝が生きてると思ってなかった。」
高橋の言葉に、応援部隊が長い間到着しなかった理由をハッキリ理解した。
「…ちょっとまってて」
そう言うと高橋はタブレットをポシェットから取り出して上原へと質問をあびせてきた。
「ブスは初めて見る顔だった?覚えてたらどんな顔?」
どうやら、ブスのデータベースチェックのようだ。
事務職員兼対高ランクブス情報エージェントでもある高橋は、こういった状況でも職務を淡々と全うする、少々サイコパス気味な友人だ。
人を銃で撃つゲームを好んでいるからこその、このような非道な職務に対する忍耐力なのかもしれない。
「あんなブスは……初めて見た……」
あの最高に醜い顔を思い出すだけでも吐きそうなくらい、脳裏にこびりついている。あれを忘れろという方が無理な話だ。
「……重い瞼と飛び出た下顎にワキガ、ピンクメイクと、あとは……」
そこまで言うと途端に胃の内容物がせり上がってくるのを感じて、必死で抑える。
恐怖映像がフラッシュバックしてきて、仲間の生きていた姿を思い出し、ブスよりもその事に嫌悪した。
「……大丈夫?なるほど、大体の等級指数はわかる?」
顔のデータベースを大体取り終わった高橋は、上原の心配もそこそこに早々と次の質問へと移った。
ここで言う等級指数とは殺した人数や様々な事象を併せて、どのくらいの等級のブスか判断する診断テストのようなものだ。
「いや……十秒くらいでC部隊は僕以外再起不能だったから……」
「は!?10秒で部隊が壊滅!?」
上原の答えに食い気味に聞き返した高橋はとんでもなく狼狽えている様子で、これまでにない緊張感がピリピリと伝わってくる。
半笑いでどこか信じていないようにも見えた。
いや、この場合で言うと信じたくないが正解なのだろうか。
「そ、そんな例僕のデータでも今までに見たことないんだけど。」
タブレットを素早く操作する手は少し震えているようだった。
打ち込みが上手くいかずに打っては消してを何度も繰り返す。
「とりあえず、分類不可ってことで後で審議することにしよう……」
カツカツとしつこくペンを鳴らし、ブツブツと独り言を呟く様子は尋常じゃない。
高橋はかなり急いだ様子で「軽傷者1名エントランスホールにて救護お願いします。」と救護を手配した。
そしてひと言、「辛いかもしれないけど審議会には出席してね。よろしく。」と残して去っていった。
この仕事を始めてから変わって言ってしまう人間はごまんといた。
こんなブラックな仕事、正気を保てと言われた方が無理に決まっている。
おかしくなってしまうのも無理のない話だ。
その点割り切って仕事をしている高橋は、誰かが死んでもあまり動揺しないし、今までの性格と何ら変わることも無かった。
倫理的にはどうかと思うが、仕事においての精神論的には上原の憧れだ。
「大丈夫ですか?立てますか?」
先程の応援部隊とは違い、直ぐにやってきた救護部隊にそう聞かれる。
実は上原は、返り血を沢山浴びただけでこれといった怪我をしていない。
1箇所したと言えば、髪を毟られた時に血が滲んだことくらいであろうか。
だが心理的疲労が軍杯を上げてしまい、何も答えずにただぼーっとしている上原を救護隊員は、問答無用で担架に乗せて運んでいった。
救急もとても忙しそうで、騒動によって怪我人が後を絶たないことが伺える。
そうして治療室のベッドに横に寝かせられた上原は、堆積し続けた疲労感によって何を考えるまもなく即座に眠りに落ちてしまった。
あたりが騒々しい。
「おい、上原!起きろ!審議会始まるから来いって」
誰かに激しく揺すり起こされる。
「む、無理……あと5分」
せっかく人が何もかも忘れて、ゆっくりと寝ていたのに誰だこいつはと少し苛立つ。
「無理じゃないだろ!起きろよ!」
腕を引っ張られて無理やり起こされる。
起こすと言うよりベッドからひきずり落とすという表現の方が、近いのかもしれない。
兎に角絶対に起きなければいけない状況であるというのは確かなようだ。
重い目をこじ開けるようにして開く。するとそこに見慣れない人影が現れた。
「池賀 美聡!?」
先程審議会の事を念押しして言ってきたのは高橋だし、起こしに来たのも高橋だろうと寝ぼけた脳で勝手に考えていた。
だが実際、自分をなんとかして起こそうと頑張っていた人物は全職員の憧れと言っても過言ではない程のエリートエージェント、DⅢと呼ばれる3人のうちの1人だった。
池賀は上原とは比べ物にならないほどのエイム力によって、ブスをどんな状況でも1発で仕留めるという神技を持っている。
さらに、サバイバル技術にも長けておりブスの領地と化した森でも長期に渡り滞在できるようなポテンシャルを持っているのだ。
だが、DIIIが出動する事は滅多になく、大体本部の部屋に閉じこもっている為にこんなところで会うことになるとは思っていなかった。
「す、すいません。今すぐ起きます。」
上原も会うのはこれが初めてで、社内に飾ってある顔写真でしか見たことは無かった。
初対面でこんな悪印象持たせてしまうなんてと、割と絶望しながら素早く会議に出る準備を終えた。
終えたと言っても意識をはっきりさせただけなのだが。
「じゃあ、行こう。」
そそくさと歩き出した池賀は、入社時に会社から支給される黒ジャージのチャックを最大限あげていて、右胸のDのプリントはバリバリに擦り切れており、かなり使い古しているようだ。
歩幅も上原に合わせてくれているようで、わざわざ起こしに来てくれるということもあり、いい人なのは間違いなさそうだ。
正直、日本最強に数えられる人間とは思えないほどにゆるゆるとした雰囲気である。
池賀美聡は普段上原のような一般職員が入る事の出来ないような部屋に、セキュリティロックを指紋で解除して入る。
このようなとこを見て、やっと本当にこの人はエリートなんだと感じる。
「上原は……」
「な、なんですか」
今まで全く喋らなかったのに急に話しかけてくるので、若干挙動不審気味に気持ち悪い返事をしてしまう。
「…なんで、生き残ったんだ。」
池賀はメガネの位置を直し、深刻そうな顔でそう言った。
そりゃ十何人の、仮にも戦闘員が一瞬で倒れたのにも関わらず、ただの一隊員がほぼ無傷で帰ってきたとなると不思議に思うだろう。
だが、その理由は本人にもわからなく全く答えようがなかった。
「仲間の事、残念だったな。」
言葉に詰まった上原を慰めるように、池賀は申し訳なさそうにした。
今の質問で上原が気を悪くしたと思ったのだろうか。
池賀は、最終フロアの暗く長い廊下の最奥に黙って歩いていった。
「着いた。」
エントランスホールから10分近く歩いて到着したそこには、厳重な扉が1つ。
それが池賀の指紋ひとつで重々しく開くのだった。
審議会なんて自分が遅れて行っても無問題だろうと勝手に思っていた。
このメンツを見るまでは。
「適当に空いてるところに座ってくれればいいから。」
池賀はそう言って自分の席に着いた。
そうは言ってもどこも上原が座っていいような場所だとは思えない。
わずか10名ほどの集いだが、その一人一人が最強だと名高い人物ばかりなのだ。
雰囲気こそ柔らかい、しかしとても自分レベルの人間が侵入していい界隈とは思えない。
とりあえず息を潜めて誰も両隣にいない端っこの席を選ぶ、とは言っても席は円状に設置されているので端も何もない。
「そんなとこ座ってないで、今日は上原に沢山話してもらわないといけないんだから。」
とにっこり笑顔の筋肉質の男が言う。
この人は先程の池賀と同じようにDⅢのエージェントである月光仮面だ。
すごい名前だがこれは源氏名であり、本名はしっかり別にある。
彼のその筋肉の塊のような肢体から繰り出されるパワーは凄まじく、中ランクくらいのブスであれば1人で制圧できるレベルであり、それでいて脳筋ではないどころか天才と呼ばれるほどのIQを持っているので戦略を練ることもできる。
まさに一粒で2度美味しい男である。
「はい……」
そんなとてちもない迫力に圧倒されて言われるがままに目立つ席に引き出された上原は、緊張なんてどころの騒ぎではなく、何か少しでも失言したら即クビになるとさえ思っていた。
なので席につくとかっちりと膝を閉じて、その上で震える拳をぎゅっと握っていた。
「それじゃあ等級不明激ヤバブスの審議をはじめます。」
どうやら集まっていなかったのは上原ひとりだけだったらしく、審議会はすぐに始まった。
その事についてだけでもとても居心地が悪く感じる。
「まず今回の問題のブスについて、可能な限り情報を開示してください。」
司会として進行役をかってでているのは高橋だ。
このことに非常に安心感を覚える。
「まず僕から。顔面の特徴としては異常に突出した下顎に、重症の一重。簡単に言えばウラガンキン亜種のようなものと考えていいでしょう。まあ、自分的にはすごくかわいいと思いますけどね。」
続けてデータベースに追加した項目事項を読み上げる。
ちなみにこの、可愛いというのはまっぴらの嘘で高橋のいつもの悪い癖だ。
「続いて変化する可能性のある情報ですが、軽度の腋臭を患っておりピンクを基調としたメイクをしている模様です。以上」
そう早口でいうと高橋は上原のほうに寄ってきて肩をポンとたたき「そのほか情報は上原にバトンタッチします。」と言って席に戻ってしまった。
突然話をふられたため、何から話せばいいのかわからず、とりあえず出会ったその瞬間の情景を話すことにした。
「えっと、まず、上半身が裸で男女どっちかは不明でした。ピンクのスカートを履いていて、歩いてくるときに…その、パンツを見せてくるような行為を何度かしてました。」
こんな厳かな場でそんなことを言うのは憚られるが、全部話すことを迫られている手前、話さないわけにもいかなかった。
「は?きも!頭おかしいわ!!!!」
と渋い顔をしてだらりと座っている人が一人。
「なんで半裸なんだよ!きもじゃん」
そう言ってニタニタと笑う姿はさながら中学生の女の子のようだが、この人物もれきっとしたエリートだ。
その名も化け猫。DⅢの最後の一員だ。
彼女は持ち前の素早さと話術、センスにより相手を混乱状態に陥れる、いわゆる催眠術師のような、異色のエージェントだ。
一度催眠をかけられたブスは最後自分の意思で動くこともままならなくなる。どんな技術なのかはわからないが、普通の人間にもかけられるらしく怒らせたら危険な人物でもある。
このDⅢは、今までも、おそらくこれからもこんなに最強の部隊は現れないだろうといわれている。
化け猫がブスの攻撃を素早くよけながら惑わし、月光仮面は近距離攻撃で、池賀は長距離攻撃でブスを大小問わず一匹たりとも逃がさない。
彼らが通った後はブスの片鱗さえも残らないという。
だが、どうしてか稼働日数はとても少ないのだ。
どの隊員も、DⅢがいれば自分たちが働く必要などないのにと愚痴をこぼしていた。
実際、そのことについてはずっと上原も不思議に思っている。
「あと…たぶん、なんですけど、SNOWを透過する能力を持っています。」
「それ、無線で言ってたやつだよね、どういうこと?」
DⅢの中で1番に真面目そうな月光仮面が興味深そうに尋ねる。
「僕もよくわからない、ですけど……10秒でやられたって言うのはブス中毒のことです。みんなゴーグルをしている人も中毒になっていって……」
なるほど、と頷きながらメモを殴り書きでとっている。
「なんで上原は平気なの?」
「それもわからないんです。…ゴーグルを外された後も直視したんですけど……。」
そういった途端、部屋の中が一瞬にしてザワついた。
言ってはいけないことを言った気がしてなんだか萎縮する。
上原1人を除いた全員が内緒話をするように集まって、居心地はさらに悪くなった。
まさかこのままクビになったりしないだろうか・・・。
5分ほど経ってからなにか考えがまとまったのか、あたりは静まり返った。
「上原、ちょっとテストをするからこっちに来て」
そう言って1人の女の人が立ち上がって上原の襟を乱暴につかんで引っ張り歩いた。
思ったより手加減なしで、思わず嘔吐く。
スーツの胸元には佐藤と書かれた金色の名札が光っている。
名札の色からわかる通り、彼女もまた非常に権威のあるエージェントであり、到底振りほどくことなどはできずに、なされるがままに連れていかれる。
何をしてる人なのかは知らないけど…。
カツカツを高いヒールを鳴らしてずんずんと進んでいく後をのそのそとついていく。
会議室を出て少し歩いてから次に通された部屋は、1人用映画館のような個室で、照明は暗く、少しでかいモニターに美しい山の景色だけが映されていた。
「ここに座って、何があっても動かないこと。辛くなったらここにある薬を飲んで。」
そう言われて自分の座った座席の右隣を見ると、医療用のアルミ台に複数の薬が乗っている。錠剤にカプセル、粉にシロップ、自己注射…。
自己注射の側面には、眼性中毒症状緩和と雑なペン字で書かれている。
何か嫌な予感を察したと同時に、外から鍵をかけられた音がした。
咄嗟に後ろを振り向くとドアの内側には取っ手も何も無い。
どうやら閉じ込められたようだ。
「あー、……じゃあテストをはじめるからリラックスして座って、モニターだけを見て。具合が悪くなったらすぐに報告してくださいね。」
あちこちについたスピーカーから説明の声がする。
立体音響になっていて、耳がこそばゆい。
言われた通り椅子に大人しく座り直して、モニターを凝視した。
今のところ代わり映えのない山の風景だ。
「それじゃいきます。」
そういった合図と共に突如として映し出されたのは、普通に綺麗な女性だった。当たり前だが特になんの変化もないしどちらかというと嬉しい。
「次」
2枚目も普通に綺麗な女の人だ。
その後も次々と映し出される女の人を上原はただただぼーっと眺めていた。
「これが最後です。」
やっと最後かと、モニターに映ったのはお世辞にも可愛いとは言えない普通のブスだった。
今の心理状態でブスの顔を見るとぶちのめしたくなる。
戦闘の時のことを思い出して少々気分は悪くなったが、それ以外にこれといった中毒症状もなく終えることが出来てほっとした。
おそらく上原が高ランクの職員でないことを見越して、映像のレベルもそれくらいに合わせてくれたのだろう。
内心、注射の出番が来てしまうかもとドキドキしていたのだ。
ほっとしていると、やっと扉が空いて何分かぶりの外の光を拝むことが出来た。
ドアの向うで佐藤が長い髪をかき上げて不敵な笑みを浮かべ待っていた。
なにか不信感を煽るようなその立ち振る舞いに戸惑う。
「じゃあ今日の業務はこれで終わりだから、家に帰ってもいいよ。お疲れさま。メインホールまで送るから、明日もまたいつも通りよろしく。」
上原がそう思ったのもつかの間、あっさりと誘導をはじめる佐藤は、なにか企んでいるようなそうでも無いような顔で前を歩いていた。
ふと時計を見るとすでに時刻は20時を回っていた。
佐藤に見送られて会社を出ると、昼間のことがウソのように平和な光景が広がっていた。
上原は明日からのことにぼんやりした不安を抱きながら、帰路についた。




