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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ

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見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第十八話

 嘘まみれだったと、サリエルは回想していた。


 アンドレイの計略を回避出来たのは何故か。自分の執事すら信用しない人間が、安易に敵に銃を預ける訳がない。簡単な事だった。

 自分はエレーヌに触れる事も出来ない?それも嘘だろう。あの男はお嬢様が欲しいのだ……あんな蝋人形とあんな部屋を作ってまで。

 あんな人間が、今回の事でお嬢様を諦めるか?諦めるまい。


 あの男を絶対に止めたいと思うなら、あの場で、きちんと始末をつけなくてはならなかった。

 自分が殺人者となっても。止めるべきだったのだろうか。

 だけど……それは恐らく違う。警察に捜査されれば自分がエレーヌの側近である事はすぐに解るだろうし、ストーンハート家とローゼンバーク家の関係は回復不能に断裂するだろう。

 そんな事、出来る訳が無い。お嬢様が望んでいないのに。


 だから、自分の行動は無駄だった。サリエルはそう考えていた。

 リシャール・モンティエに嫉妬し、奸計に掛けて南半球に飛ばした男の頭をステッキで一発殴る……ただそれだけの為にした事に過ぎない。


 一瞬だけ視線を上げるサリエル。

 エレーヌが、馬車のキャビンの斜め向かいで、自分をじっと見ていた。


 自分は何て無力なんだと、サリエルは密かに思った。


 お嬢様は平然としている風に見えるけれど。本当は深いダメージを受けていると思う。


 大尉の事は。恐らく初恋でもあったのだろう。

 しかもそれは、途中まで成就していた恋だった。あの不器用な男が書いた、事務封筒に入った陸軍便箋を見たか。


 自分はエレーヌではない。エレーヌではないから確証は無いが。あれは相思相愛だったのではないか。

 大尉はお嬢様を愛し、お嬢様の心も大尉にあった。そうなのではないか。

 その相思相愛を妨害したのは、片方がローゼンバーク男爵。もう片方が自分、側仕えのサリエルだ。

 自分があの手紙をすぐにエレーヌに見せていれば。少なくともこんなにも寂しい結末にはならなかっただろう。


 ベアトリクス教会の裏の庭園で対峙したのは、悪と、悪。

 お嬢様の恋路の邪魔をした悪役同士が、落とし前をつけたのだ。

 そしてアンドレイには自分が罰を下したが、自分はまだ誰にも罰せられていない。

 サリエルは目を伏せる。

 罰は必ず下されなくてはならない。



 馬車が止まった。


 窓のカーテンは閉められていたが……サリエルにも、ここがストーンハート家の屋敷でない事はすぐに解った。


「降りなさい」


 エレーヌは腕組みをして、目を細めたまま言った。



 自分に何か罰だろうか……そう思いながら、馬車から降りると……そこはまだ金融通りだった。目の前にはロブマンの写真館がある……


「お嬢様……?」

「入りなさい」



 写真技師ロブマンのスタジオで。準備が整えられると……撮影が始まった。


 エレーヌは学生服姿だった。それでいいのかとサリエルは思ったが、すぐに問題はそこではないという事が解った。

 自分も被写体だというのだ。

 自分は今訳あって、インバネスコートやズボンで変装していて、メイクもサリエルと解らないような物にしている……一応、お嬢様への求婚者に相応しいよう、気合を入れて作った男装メイクではあるのだが……

 これを写真に残すと言われると、少々恥ずかしい。


 そもそもお嬢様は如何なる目的でこれをしているのか?

 何か裁判の証拠とか、そういうものに使うのだろうか?


「もう少しくっついて下さい、もっと。もっとです。サリエルさん、エレーヌさんの肩を抱き寄せて下さい。いやもっとぎゅっと。いいですね。撮りますよ」


 自分は写真なんか撮られた事は無いと思っていたが……ローゼンバーク家の秘密の部屋に、半分見切れた物があった。あれが自分の人生初の写真だ。

 そしてこれが二回目……フラッシュとやらの何と眩しい事か。以前、エレーヌがここで写真を撮るので、その手伝いをした事はあったが。あの時のお嬢様は九歳だったと思うが、幼いお嬢様はこれを我慢したのか。眩しいし、暑い……


「コートなしも撮りますか?じゃあコートを脱いで!あー。それはさらしの巻きが甘いな……フローラ君、奥でコルセットをつけてあげてくれ」


 写真技師ロブマンの指示で、助手のフローラが、サリエルをスタジオの奥に連れて行こうとする。


「あの……?お待ち下さい、一体何のお話ですの……?」


 さすがにサリエルが抵抗すると、横からエレーヌが腕を引っ張る。


「その声で喋らないで下さるかしら!雰囲気が台無しですわ、いいからこっちへいらっしゃい、包帯でその無駄に大きな胸をぐるぐる巻きにして差し上げますわ!」


 サリエルがふと見たエレーヌの顔は、怒っているというよりは、はしゃいでいた。サリエルの背筋を寒気が襲う。これは、毛糸玉を与えられ興奮し、尻尾を振って跳ね回る、狼犬の顔……


「こんな事をしてらっしゃる場合ではありません!考える事もする事もまだまだたくさんございますわ!お嬢様、お屋敷に戻りましょう!」

「アンタどうせ帰ったらすぐ顔洗うんでしょう!いいじゃない写真のあと三、四枚くらい!」


 お嬢様がお嬢様でないお嬢様の顔をしている。この前の照れ照れお嬢様とは別の形状の何かになっている。こんなお嬢様も見た事が無い。


「しっかりなさって下さい!こんな物はあの蝋人形と一緒ですわ!現実から目を背ける為のまやかしに過ぎません!」

「待ってってば!御願い、じゃああと二枚だけ!二枚だけ撮らせて!」

「目をお覚まし下さい!帰りますッ、帰りますよお嬢様!!」


 エレーヌを半ば引きずりながら、サリエルはロブマンの写真館を出て行った。




 馬車が伯爵屋敷に辿り着いたのは、午後四時過ぎになった。



 いつもの表情に戻ったエレーヌは、オーギュスト伯爵のリビングのソファに座り、腕組みをしていた。

 サリエルは今、ベアトリクス教会の裏の庭園で起きた事を、残らずエレーヌに報告した所だった。嘘も誤魔化しもなく、サリエルは自分がそこで見た物、聞いた事、思った事の全てを話した。


「念を押させていただきますけれど。貴女は……自分の変装には自信があって、アンドレイは貴女がサリエルだとは気づかなかった、そうおっしゃるのね?」


「私をストーンハート家の人間だと思ったら絶対に言わないような事を、男爵はおっしゃっていましたわ。変装より、そちらに自信がございます」


 エレーヌは腕組みをしたまま、天井を見上げる。


「お嬢様……本当にこのままで宜しいのですか?」


 結局、大尉の事は何も解決出来なかった。トマはまだ何か調べてくれているのかもしれないが……


「一つだけ……解決していない問題がありますわ」

「そうですわ!大尉は一昨日までこの街にいらっしゃいましたのよ!南半球へ行かれるにしても、まだこの国のどこかにいらっしゃる筈」


 勢い込むサリエルを、エレーヌが遮る。サリエルはもう、メイドのお仕着せを着た、ほとんど元のサリエルに戻ってしまっていた。


「そこじゃないわよ。アンタが盗んで来た蝋人形。あれはアンドレイの正当な所有物でしょう。それを持って来たらただの泥棒じゃない」

「あれは……はい……そうですわね……お嬢様がお望みであれば、元の場所に密かに戻して参りますが」

「そこまでしなくて結構!箱にでも詰めて誰かに届けさせたらいいのよ」


 サリエルはまた落ち込む。勿論、あんな物を見せられてエレーヌが喜ぶとは思っていなかったが。


「念の為に伺いますが……本当に、こちらで処分しなくて宜しいのですね?」

「処分ってどうなさるの?貴女ね、自分の蝋人形を処分した事がございますの?やっぱりアンドレイ様にどこで作られたか伺って来ようかしら。貴女の蝋人形を量産して差し上げても良くてよ」

「お許し下さい、お嬢様」

「だいたい……何よ貴女。私の許しもなく、勝手にそんなに髪を短くして」


 エレーヌは立ち上がり、リビングを出て行こうとする。


「お待ち下さい、大尉の件です、きっと今トマが調べていますわ、大尉の任地や、いつどこの港から発たれるかなど……」

「もうお黙りなさい。この件に関しては十分ですわ。そんな事より、また物理のボンドン先生が山ほど宿題を出して参りましたのよ。早く取り掛かって頂戴」


 結局。自分はまた見込み違いと要らぬ世話を重ねただけだったのだろうか。

 蝋人形を奪って来た事、アンドレイと対決した事、大尉の足取りを調べようと申し出た事……どれもエレーヌにとっては、迷惑でしかなかったというのか。


「……かしこまりました、お嬢様」


 お嬢様は下がれとおっしゃっているのだ。もう下がらなければならない。

 そして、頂いた仕事は終わらせないとならない。

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