見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第十話
自分の長屋に戻ったばかりのトマは、サリエルが訪ねて来た事に少し驚いた。こんな時間に屋敷のメイドが訪ねて来るような事は普段は無い。
「あの……お嬢様がお呼びです、屋敷の方に来て下さいませんか……?」
「お嬢様が……?」
しかも呼んでいるのは他でもない伯爵令嬢だという……トマはさらに驚いた。とはいえ、相手がエレーヌなら呼ばれる理由に少しだけ心当たりがあった。
外はまだ雨が降っていた。トマもサリエルも傘を差していた。
屋敷への道すがら、トマは探りを入れてみようと思い、サリエルに尋ねる。
「お嬢様が」
トマが口を開いた瞬間、サリエルは大きく震え上がり、小さく跳んだ。トマの方がびっくりする程に。
「……俺なんかに用って何だろう?ブルーノの件かな?……ていうか大丈夫か?君、どこか具合が悪いんじゃないのか」
「い、いえ……大丈夫ですわ……」
サリエルはトマをエレーヌの部屋ではなく、屋敷の主、オーギュストの部屋の方に案内して行く。トマはおかしいと思ったが、実際エレーヌはそこに居た。
「ではお嬢様……私は下がらせていただきます……」
戸口にトマを残し、サリエルは踵を返し立ち去る。
「待ちなさい!」
突然。ソファに座っていたエレーヌは立ち上がり、トマの横を駆け抜け、廊下に飛び出すと……サリエルの肘を捕まえたまま、戻って来た。
「何勝手に帰ろうとしてますの!貴女の就業時間はまだ終わっていませんわ!」
「申し訳ありません……」
トマが口を挟む。
「あの……サリエルは少し顔色が悪いようですし、休ませてあげちゃどうですか」
「サリエルにも無関係な話ではありませんのよ」
エレーヌはそれを違う意味で言ったのだが、サリエルは当然それは大尉からの手紙の件だと思った。そうだ。あの手紙をトマが自分預けたりしなければ、こんな事にはならなかったのだ。つまり……そう思い当たり、サリエルはまた顔色を変える。
「お嬢様!トマは悪くないのです!私が勝手にお預かりしたのです、お嬢様宛の手紙を側仕えの私に渡すのは普通の事なのです、悪いのは私です、どうかトマを」
そこでサリエルはエレーヌの手で口に蓋をされた。
「そんな話をしにお呼びしたのではなくてよ。トマ。私が貴方を呼んだ理由はお解りですわね?私昨日、貴方をマナドゥ先生の所で見掛けましたわ」
「……すみません」
「単刀直入に伺いますわ。貴方、私の身辺を嗅ぎ回ってる男の事を、独自に調べて下さっていたのではなくて?」
「……」
「その辺りで結構よ。貴方は口が堅くて何でも簡単にペラペラ話したりはしないというのは解りましたわ」
エレーヌはサリエルの首根っこを掴み、リビングのソファに座らせる。そしてトマの方を見て、その向かいの席を指差す。
「あの……お嬢様?」
サリエルはエレーヌの意図を掴めず困惑する。トマも困惑したが、とりあえずエレーヌが指示した通り、サリエルの向かいのソファに浅く腰掛ける。
「最近、おかしな男が、私の屋敷の出入りを見張っているような気がしてましたの。貴方、その男を見張り返して下さっていたのではなくて?」
トマは観念し、頭を掻く。
「見張り返すだなんて立派なもんじゃないですけど……何か一方的に探られるのは悔しい気がしたんで……勝手な事をしてすみません」
「それで私がサリエルをマナドゥ先生の所に連れてった時も、ついて来たのね?後でエドモンに怒られたんなら、私から執り成しておくわよ」
「いえ、お気遣いは無用です……解りました。お話ししますよ」
トマは何となく握り合わせていた掌を開く。
「その男の事は前日にも尾行していました。その時に鍛冶屋通りの店に入って誰かと話している、という所までは確認しました。相手の男はお嬢様の素行について尋ねていて、特に大尉とか医師とかの事を尋ねていたようです」
サリエルは震え、目を見開いた。トマは続ける。
「その日はそれに止めて。翌日、サリエルが倒れた日は……男は、お嬢様がサリエルをマナドゥ先生の診療所に真っ直ぐ運んで行くのを追い掛けていました」
「貴方は、それを追い掛けてくれたのね」
「……ええ。そいつはその後もお嬢様の後を追って監視していました。最後にお嬢様が学院に入った後で、また鍛冶屋通りの店に行って、昨日会った別の男に報告していました。私はその、別の男の方を追って行きました」
「……あの!」
サリエルが口を挟んだ。
「お嬢様はいつからそんな風に監視されていたのですか!?私……少しも気づきませんでした……」
それはサリエルにとって屈辱であった。その事がさらにサリエルの胸の痛みに追い討ちを掛ける。
「いつからかなんてどうでもいいわ。過去の事ですもの」
エレーヌはサリエルの肩に手を置いて言った。
「教えて下さるかしら。その男はどこへ行きましたの」
トマは深呼吸をして、言った。
「……ローゼンバーク男爵邸です」
エレーヌの手がサリエルの肩から離れた。窓際まで歩いて行ったエレーヌは、背中を向けたまま腕組みをする。
「あの、最初に屋敷やお嬢様を見張っていた男が居て、その男から報告を受けていた別の男が居て、その男が、ローゼンバーク男爵邸に入って行った。あくまで、それだけの話ですよ」
トマは付け加える。
エレーヌは暫くは動かなかった。それから、トマとサリエルから顔を背けたまま、オーギュスト伯爵のリビングのコレクションの棚に近づき、一本のボトルを取る。
「お嬢様?」
エレーヌはそのままトマに近づく。トマは慌てて立ち上がる。
「貴方にはまた色々御願いする事がありそうですわね。こんな有能な人材が身近に居たとは存じ上げませんでしたわ。今日の所はこれをお持ちになって」
「伯爵のコニャックじゃないんですか?こんな上等な物受け取れませんよ」
「こんなの開ける暇も無い人のなんだから。いいからお持ちなさい、じゃないと次の頼み事がし辛いわ……そう、それでいいの。おやすみなさい、トマ」
トマは粘り強く断るような事もなく、半ば喜んでそれを受け取り、礼を言って帰って行った。
サリエルは俯いていた。普段の彼女であればすぐにでも立ち上がっていただろう。しかし今は深く考え込まずにはいられなかった。
思う事は色々ある。
今、お嬢様は手助けを必要としていると思う。大尉の事も、監視の事も、そのままにしてはおけない問題だ。今こそ、粉骨砕身お仕えすべき時なはず。
けれども……ここの所、自分の考えた事がお嬢様の役に立った事があるだろうか。最近もその前も。ずっと失敗ばかりだ。ここでまた自分が出しゃばった所で、エレーヌに迷惑が掛かるだけではないだろうか。
トマはお嬢様から贈り物を受け取って帰って行った。彼はきっとお嬢様の信頼を得たのだ。今後も彼の仕事が上手く行き、お嬢様が助かるといいなと思う。それに嫉妬するような気持ちは全く無い。
そして……自分が、自分の罪に絶望し、お嬢様に懺悔もせず、こそこそと逃げ出そうとしたのは、つい先程の事だ。そんな自分には今お嬢様に何かを申し出る資格は無い。
サリエルはふらふらと立ち上がり、窓の外をじっと眺めて腕組みをしているエレーヌの後ろへと歩いて行く。
「サリエル……!?」
何かを思い立ち、サリエルに声を掛けようと振り返ったエレーヌは、慌てて両目を擦る。サリエルが一瞬、半透明で灰色の幽霊か何かに見えたのだ。
「お嬢様……お伺いしても宜しいでしょうか……」
「な……何よ」
「トマの言う事が本当だとすると……何が起きているのでしょうか…?」
エレーヌは腕組みをし直して、窓の外を見つめる。
「ローゼンバーク家の人間の誰かが、私とアンドレイ・アンセルム・ローゼンバークとの婚約を望んでいるのかもしれませんわね」




