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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ

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見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第八話

 その日のカトラスブルグは、雨は降り続けるじとじとした一日となった。

 しかしサリエルにとっては、至福の時間が続いていた。


 普段のエレーヌは、ついて回れば鬱陶しいと怒り、離れていれば怠けるなと怒る、難しい主人である。

 そのエレーヌが今日はサリエルが行く所に自分からついて来るし、盛んに話し掛けて来る。ボディタッチも多く距離も近い。

 普段はだいたい三メートルから五メートルの距離を好むのに、今日は三十センチまで近づいて来る。



 聖ヴァランティーヌ学院の授業が全て終わった時には、雨は少し強めに降っていた。


「とにかく、紫陽花チョコレートもミルフィーユ文庫も、ブルーノの作品だとは思うのですが……屋敷で同様の物を見掛けても、お召し上がりにはならない方がいいような気が致しますわ」


「何故そんな味にしてしまうのかしら……私、本当はブルーノが作るプリンが大好きですのよ。本人はどこに居るのでしょうね」


 そんな話をしているうちに、馬車は屋敷に着いた。

 エレーヌは馬車から先に出ると、傘を差し、そのまま馬車の戸口で待っていた。


「あの……お嬢様?」

「すぐそこまででしょ!入って!」


 サリエルは思わず口元を抑える。

 これはまさか……これは恋人同士、若しくはとても仲の良い友人同士だけに許される固めの絆の証、相合い傘ではないだろうか!?

 お嬢様が……あのお嬢様が自分を相合い傘に誘っているというのか!?


 憂鬱な十月の雨も、色褪せて行く庭の木々も、全てが桃色に見える……


「はい!お邪魔いたします!」


 サリエルは鞄を抱え、傘の下に飛び込む。


「お嬢様、肩が濡れてしまいますわ」

「そんなに傾けたらサリエルが濡れますわよ」


 一体、世界はどうしてしまったのか?サリエルは再び思った。もしかして今夜にでも巨大隕石が落ちて来て地球は滅亡するのではないだろうか?

 いや。そんなはずはない。この幸福な日々はきっと、これからずっと続くのだ。


「サリエル……後で着替えたら……少し相談したい事がありますの」


 エレーヌが、頬を染め顔を背けてつぶやく。


「あの……大尉の事で。こんな事、サリエルにしか相談出来ませんもの」


 サリエルの心臓が高鳴る。

 二人は玄関に着いてしまっていた。エレーヌは傘を畳み、傘立てに置いた。


 そうだ。大尉だ。

 お嬢様をこんな風に変えたのは、自分ではなくて大尉なのだろう。

 先日は名前を言っただけでスコップが飛んで来たのに。今日は自分に、大尉の事を相談したいという。


 それは当然。当然……恋愛相談になるのだろう。


 思えば、こんな日を夢見て来たはずだった。待ち侘びていたはずだった。

 けれども、いざその時が来て見ると……なんと寂しい事だろう。


 昨日今日のお嬢様の変わり様はきっと。お嬢様の動物的本能が作動していたのだ。

 お嬢様は動物的本能で、好きな人の前で素直になる練習をしていたのだ。


 この……馬車の扉から玄関までの相合い傘。この瞬間の幸せは、それと同じくらいの短く儚いものなのかもしれない。

 傘を置いたエレーヌは、一階のホールから階段を上がって行こうとしている。自分はその背中を見ている。

 お嬢様と大尉とのお付き合いが本格的に始まったら。こんな風に、自分は取り残されて行くのかもしれない。


 サリエルは一つ溜息をついた。

 それでいいのだ。それが自分の使命だし、役割なんだ。

 お嬢様。どうか振り返らず、そのままお進み下さい。エレーヌの背中を見つめ、サリエルは心密かにそう思い、微笑んだ。


「どうしたの?」


 その瞬間だった。階段を上がる直前で、エレーヌが振り返ったのだ。


「……行きましょ!」


 そしてエレーヌは、わざわざ戻って来て、鞄を持っていない方のサリエルの手を取り、優しく微笑んだ。


 突然の事に。サリエルの瞳に、みるみる涙が溜まって行く。

 エレーヌは今度はサリエルの手を掴んだまま、振り返らずに階段を登って行く。

 大粒になった涙が、サリエルの目尻から毀れ落ちる。

 大丈夫、私達ずっと比翼の(らぶらぶ)主従だよと。ぎゅっと掴んで離れないエレーヌの手が、そう言っているような気がした。




 二人とも普段は学院から戻って来てもすぐには着替えない事もあるが、雨の日は別だ。濡れた制服は早く綺麗に干さなくてはならない。


「じゃあ、後でね」

「はい!お嬢様」


 エレーヌは自分の区画の方に入って行った。サリエルも自分の部屋に戻る。



 学院の制服からメイド服に着替えるサリエル。そういえば少し久しぶりのような気がする。本来朝夕着るはずの物なのだが……何か着ない理由があっただろうか。


 臙脂色のドレスに、白いエプロン……そのエプロンを身につけた時だった。



 ひらりと。

 何かがポケットから落ちた。

 それは左右に揺れながらふわふわと落ち、床につく少し前にクルリと一回りして……落ちた。



 どうという事のない。

 封もしていない、事務用の封筒。



「あ……」



 封筒は背面を上にして落ちていた。隅の方に小さく。エレーヌに、と書いてある。

 サリエルはその封筒を拾った。


 これはきっと、乗馬クラブのお知らせだ。設備点検の為に臨時休業をするとか。

 或いは陸軍のイベントだろうか。駐屯地の兵隊さんは年に一度市民を招いてお祭りをやるのだ。軍楽隊の演奏などを見せてくれる。そのお知らせかもしれない。


 或いは、何かの請求書とか、領収書とか……

 そうに決まっている。



 封筒の口は開いているのだが……

 指の震えが止まらず、なかなか中に入った紙が出て来ない。



 ようやく、紙の先端が出て来る。

 ほら。これは陸軍の事務用便箋ではないか。

 兵隊さんが伝達や報告に使う物だ。



 そんなものに愛の言葉など書かれている訳が。

 訳が……



 エレーヌ。

 俺は普段手紙を書くような人間ではないので、無礼があれば許して欲しい。

 直接会って話がしたいと今も思っている。

 屋敷の人間に取り次ぎを頼もうかと思ったが、思えば俺の行動は野蛮だった。

 お前の気持ちをもっと確かめるべきだったと思っている。

 だが後悔は全くしていない。

 俺はどうしようもなくお前が好きだ。


 こんな事を柄にもなく手紙に書かなくてはならなくなった理由がある。

 師団から急な辞令が出た。

 今日中に準備をして、月曜にはレアルの陸軍本部に行けという。

 出張ではなく、異動だという。これを書いているのは日曜だ。


 本当は会って気持ちを伝えたい。

 だがお前の気持ちを考えると、それを強要する事は出来ないとも思う。

 俺は火曜日の二十二時まで、カトラスブルグの駅前で待つ。

 お前が来ても、来なくても。

 火曜日の二十二時の汽車には乗るだろう。


 もしかしたらお前は俺の事を憎いとしか思っていないかもしれない。

 全く身勝手で申し訳ないが、お前がどんな気持ちだろうと、

 俺はお前を愛している。末永く。

 恐らく俺には海外領地への転属が待っているのだと思う。

 俺は地球のどこへ行っても、お前の事を想い続ける。

 そのくらいは許して欲しい。


 カトラスブルグ師団五〇二大隊長

 陸軍大尉リシャール・モンティエ



 うずくまるサリエル。


 十月の水曜日の空は雨雲に埋め尽くされていた。あまり粒の大きくない雨がしとしとと降り続けている。


「ふふ……ふふふ……」


 恋文に大隊長は無い……何故こんな事務用封筒と事務用便箋で……どうして封もしない……そしてこの内容、この愛の国の男とも思えない、直情的で強引、真面目なだけの文章……


「あは……あはは……」


 サリエルの部屋の床にぼたぼたと滴るそれは、勿論雨粒などではなかった。


 高い高い空に浮かんだ雲の妖精達は、手に手を取り合い……結び合わされて……雨の妖精へと姿を変える。


 雨粒は西の空に輝く夕日に照らされて……遠くの人々に、美しい虹を見せるだろう……


 やがて雨粒は大地を潤し……ある者は命を育み……ある者は空に帰る。

 どちらにもならなかった流れが、谷間に落ちる……


 深い深い……


 亀裂の底へ、水滴が落ちて行く……


 深く深く……


 地底深く眠る、恐竜達の亡骸を伝い……さらに深く……


 その底でぐつぐつと煮えたぎる、地獄の大釜へ……!



 サリエルは声にならない絶叫を上げる。

 天国から地獄へと。声にならない叫び声を上げながらサリエルは堕ちて行った。











A;´Д゛) 今回は特にしんどいっす……

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