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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ

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見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第九話

 サリエルの部屋がノックされた。


「開けていい?」


 廊下からエレーヌの声がして……施錠されていない扉が小さく開く。


「サリエル?居ないの?……どこに行ったのかしら……フフン、フン♪……」


 機嫌良さそうに、鼻歌を歌いながら、部屋着姿のエレーヌはサリエルの部屋の中を見回す。

 サリエルは見当たらない。

 扉を閉め。エレーヌは立ち去る。


 十秒後。

 クローゼットの扉が開き、中から現れたサリエルが揺れ……どさりと、床に倒れる。まるでクローゼットに隠してあった死体のように。



 リシャール・モンティエが手紙を持って現れたのは日曜日。手紙はトマの手からサリエルに渡った。サリエルは何かの時点で手紙を預かった事を忘れた。

 この日すぐにサリエルが手紙を渡していれば、色々な事が出来た。



 月曜日。朝の支度がエレーヌより三分遅れたサリエルは、その日一日手紙の事を思い出せなかった。

 手紙によれば大尉は月曜日にはレアルに居るよう言われていたが、辞令が急過ぎると抗議して一日くらい伸ばさせたのかもしれない。

 手紙を見るのがこの日になっていたら、まだ一応何でも出来た。



 火曜日、昨日は何故か朝の記憶が殆ど無い。気がついたら診療所に居た。手紙の事は思い出せなかった。

 恐らくこの日大尉は命令に逆らい、一日をカトラスブルグ駅前で過ごしたのだろう。

 これは簡単な事ではない。恐らく大尉は何らかの処罰を受けると思う。だけど覚悟の上でそうしたのだ。

 この日に手紙を見ていたら極めて短時間で判断しなければならなかった。

 しかし、きちんと気持ちを伝えに行く事くらいは出来ただろう。


 そして火曜の二十二時。

 その時自分は急に優しくなったエレーヌに驚きつつ、幸せな気持ちで眠っていた。

 大尉は、失意の内に汽車に乗り込んだのだろう。

 そしてエレーヌの未来の一つが閉じた……



 死んでも、許されない……


 サリエルの頭の中を回っている言葉は、それだけだった。こんなのは自分が死んでも許される事ではない。そもそも自分が死んだ所でエレーヌには何のメリットも無い。五十五キログラムの廃棄物が生じるだけだ。


 では消えようか?それならば廃棄物は生じない。しかし奨学金は?オーギュスト伯爵に支払っていただいてしまった、聖ヴァランティーヌ学院の学費はどうなるのか?この体一つ売ったくらいで返せる金額ではない。


 では生き地獄にでも堕ちて見せようか?これならば死んだ方がマシというくらいの、生き地獄に焼かれて見せようか?違う。お嬢様はそれで喜ぶような方ではない。


 レアルへ行こうか。大尉を追い掛けて、自分のした事を詫びようか。せめて人としてそのくらいの努力はすべきではないだろうか。せめて、大尉の気持ちだけでも救え無いものか。



「だって……」



 涙がとめどなく溢れる。目尻からも鼻からも。

 だって。もうお嬢様には合わせる顔が無い。大好きなお嬢様に、合わせる顔が無い。もう自分にはエレーヌの側に居る資格が無い。

 こんなのはメイドじゃない。何の為のメイド術か、何が皆伝か……



 道は、もう無い。


 この先は道ではない。これは、我が身の処分。一つだけ。自分の心と体を処分出来る場所があるならば。それに感謝するより他に無い。


 サリエルは先日のクリスティーナの話を思い出したのだ。


 最早、エレーヌには合わせる顔が無い。この事は一生かかっても償いきれない。この屋敷にはもう居られない。

 そして。クリスティーナの言葉が本当なら。少なくとも自分がそうする事は、オーギュスト伯爵の為になれる可能性があるという。それならばせめて、伯爵から受けた恩に関しては、いくらかでも返せる可能性があるではないか。


 サリエルは願った。どうかそこが地獄でありますようにと。そこがもし良い場所であったりしたら、自分は正気を保てなくなるだろう。




 屋敷のお仕着せであるメイド服は、勿論持ち出す訳には行かない。学院の服も、エレーヌのお下がりでいただいた普段着も……


 お下がりと言ってもサリエルはエレーヌの一つ年上なのだが。エレーヌは時々、一度だけ着た服を飽きたと言ってサリエルに寄越す。


 サリエルが自分て買った服は一着だけ。先日の扮装に使った黒いインバネスコートと山高帽、それに合わせた黒いズボンと白いシャツ、男物の革靴……これだけだ。


 だけどそれは、密かな旅立ちには都合が良かった。これなら外で誰かに見られても、それがサリエル・サルヴェールだとは誰も思うまい。

 サリエルはコートに山高帽まで身につけた。


 その間も涙はとめどなくこぼれ続ける。本当は足りない。こんな罰で足りるはずがない。お嬢様の未来の一つを台無しにした自分への罰が、こんなものでは。


 その他の荷物……サリエルの私物は後は財布と換えの下着、洗面道具くらいだった。それらは小さめの旅行鞄一つに全て収まってしまう。



「さようなら……」


 最後にサリエルは。長年暮らしたこの部屋に、お別れを言った。お嬢様にではない。自分にはもう、お嬢様にお別れを言う資格すら無い。



 サリエルは部屋の窓を押し上げる。屋敷の中ではエレーヌが自分を探しているかもしれないのだ。廊下や階段を通る訳には行かない。

 窓の下には少し張り出した部分があって、幅は30cm程だが横に伝う事が出来る。そこからどこかの木に移れば庭に降りられるはずだ。

 サリエルは先に鞄を外に出し、張り出した部分に置く。

 それから、足の方から先に、外へとにじり出る。


 サリエルは最後にもう一度、部屋の中を見渡す……あの手紙は、机の上に置いて来た。お嬢様はいつ、あれに気づくだろうか……




 そして進みだそうとしたサリエルの目の前に。エレーヌは居た。



「ひッ……!!」



 伯爵屋敷の二階の外の壁面の、三十センチメートルばかり張り出した部分、外は少し暗くなっては来たがまだ夕方という程ではなく、雨は陰鬱に降り続いている……そんな場所に居るはずの無い、伯爵令嬢とその側仕えのメイドは、五十センチメートルの空間を置いて、向かい合っていた。



「様子がおかしいと思いましたの」



 クローゼットから誰かが飛び出して倒れた音を聞きつけないエレーヌではない。

 その後で扉に聞き耳を当てないエレーヌではない。

 急に身支度を始める音を聞きつけ表口を封じて裏口に回らないエレーヌではない。



 エレーヌは静かに前進する。サリエルは静かに後ずさる。

 目で部屋に戻れと命じるエレーヌ。首を振るサリエル。

 素早くサリエルの手首を掴むエレーヌ。

 観念し部屋に這い戻るサリエル。

 続いて部屋に入るエレーヌ。

 部屋の隅へ這って行くサリエル。

 まっすぐに机に向かったエレーヌの手が、手紙を拾い上げる。

 エレーヌの視線が、ゆっくりとその便箋の上を走る。


 サリエルは完全体の土下座のまま、石化していた。



――ドォォォォォォォォオン!!!!



 何の前触れもなく、伯爵屋敷の避雷針目掛け、雷が落ちた。辺りの全てが真っ白に染まり、轟音が全ての音を掻き消した。




「さすがねサリエル。貴女のおかげですわ」




 エレーヌの、つぶやくようで、だけど何故かはっきりと聞こえる声が、雷の残響で一瞬無音のようになった部屋の中に……響いた。


 サリエルの背筋を人生最悪級の悪寒が走った。これ以上悪い事など起きないと思っていたのにまだ何か起きるのか。

 上げたくない。顔を上げたくない。そもそも自分の身体は石になっていて顔など上げられない。それなのに、何者かがパワフルなクレーンで無理やり持ち上げているかのように。自分の顔が。無理やり上げられて行く。




「私……正気に戻りましてよ」




 過去最大級の、邪悪で、そして凍てついた恐ろしい笑みを浮かべ……エレーヌはサリエルを見つめていた。



 サリエルの中で何かが立ち上がる。どんなに絶望していても、どんなに自分を見失っていても、サリエルが決して忘れない物。それはエレーヌを思う心。


「お嬢様!いけません!」


 サリエルは今の自分の立場も何もかも忘れ、エレーヌに飛びつこうとする。エレーヌはそれをヒラリとかわし、背中を軽く押す。うつ伏せに倒れるサリエル。遥か極東の島国で行われる伝統の格闘技スモーレスリングの技、ハタキコミだ。


「だめです、お嬢様!お嬢様!」


 サリエルは必死に立ち上がり再度エレーヌに抱き着こうするが。今度はエレーヌはサリエルのベルトの辺りを掴み、スモーレスリングの技、スクイナゲで豪快に三メートル程投げ飛ばす。サリエルの身体はベッドの上に落ちる。


「お嬢様!違うのです!諦めないで……どうか、諦めないで下さい!!」


 サリエルは尚も、ベッドから這い降りエレーヌの足元にすがりつこうとするが、エレーヌは壁の鉄箒を取ると這い寄るサリエルの眉間に突き付け、抑えた。


「私感謝してますのよ?久しぶりですわ……自分に戻ったのは。もしかすると誕生日より前から。そうね……貴女がマナドゥ先生の手紙を恋文だと言い出した時から……いいえ……あの女が屋敷に来るという手紙が届いた時からかもしれませんわね、私が自分を見失っていたのは。大丈夫。貴女のおかげで私は正気に戻りましたわ。私は……伯爵令嬢、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハート」


 電光が、部屋を真っ白と真っ黒に分ける。


――ドドォォォォォォオン!!!


 雷鳴が僅かに遅れて鳴る。


「違います……」


 額を鉄箒の柄で抑えられ、両目と鼻から茫々と涙を流しながら、サリエルは必死に声を絞り出す。


「お嬢様は……お友達や恋人からはエレーヌと呼ばれて……お母様からはエリーゼと呼ばれて……誰からも愛される素敵なお嬢様なのです……御願いします……私は何度地獄の業火に焼かれても構いませんわ!どうか、どうか素敵な……素敵なお嬢様に御戻り下さい……!!」



 サリエルの言葉を無視し、エレーヌはモンティエの手紙を無造作にポケットにしまうと、開けっ放しになっていた窓を閉め、そのまま腕組みをして窓の外に目を凝らす。


「やらなければならない事が、いくつかあるみたいね。何から始めようかしら……貴女いつまでそんな恰好してらっしゃるの。とっとといつものお仕着せに着替えなさい……そうね、トマを呼んで来なさい、父のリビングで会うからそちらにね……いつまで泣いてるのとっとと始めなさい、このすかぽんたん!」

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